「偶然のチカラ」

「偶然のチカラ」(植島啓司/集英社新書) *再読

→大学生のころからシンクロニシティとか大好きで、
いわば在野の偶然研究家(なさけねえ名称だ)と言ってもよい、えっへん♪
関心どんぴしゃりの本をもう4度目くらいの再読である。
偶然ってなんなのだろうなあ。
日々一刻一刻と偶然は起こっているのだが、
それを偶然と認識するのは「私」という主体(存在)である。
偶然は「私」という意識(=自意識)と強くかかわっている。
いろいろな偶然はあるけれども、
すぐに忘れてしまう偶然と深い意味を持つ偶然とにわかれる。
深い意味を持つ偶然とは、それによって人生航路が変わる偶然だ。
ある偶然を必然とある人が感じたとき、その人の人生は動き出す。
ならば、偶然をたくさん味わいたいなら旅に出るにかぎるという話になる。

働かなければならないならば、
できるだけ多くの人とわずかでもかかわれる仕事のほうが偶然を感じやすい。
とはいえ百円ショップの店員は毎日接客でいろんな人に逢うが、事件はないだろう。
退屈な繰り返しばかりで刺激は皆無と言ってよいのではないか。
偶然による発見をわれわれ(わたしだけ?)は求めているのかもしれない。
おもしろい偶然をいっぱい味わいたいと思っているところがある。
安定とか「つつがなく」とかどうでもいいから、どきどきしたい、はらはらしたい。
けれども、自分からスリルを求めたところで「それ」は偶然にしか来ないのである。
みんななにか起こらないかと切望しているのではないか。
退屈な日常になにかが起こらないか。
このため、占いのようなものに興味を示すものも現われる。なにか起こらないか?

「占いの基本は、自然の運動はある種のパターンに従うものであり、
そのパターンは宇宙全体の構造を示すもので、
同じパターンが他の場所での運動や活動に
どのような影響を与えているか知ることができるというものだ」(P83)


星占いで今日「運命の人と出会えるかも」と書いてあったら、
それだけで刺激的で会う人の姿かたちが変わって見えることだろう。
だとしたら、それも星の(占星術の)パワーということになるはずである。
なにかパターンのようなものは、
われわれには見えないがあるような気がみなしているのではないか。
たとえばルーレットの出目はだれにもわからないが、
ある規則性が神の視点から見たら存在するのではないか。
ルーレット経験豊富な著者は断言する。

「ルーレットでは、出た目はまた出るし、出ない目はいつまで待っても出ない」(P183)

めったに出ない目(大きな幸福や不幸)というものが人生にもたしかに存在する。
感覚として、変な目に遭った人はまたおかしな出目に遭遇するような気がしてならない。
おかしな偶然から立身出世、大成功した人はかならず今度は不幸のどん底に落ちる。
壮絶な不幸を偶然から経験したものは、おなじような奇妙な出目の僥倖にめぐりあう。
どうしてかそういう気がしてならないのである。
在野の偶然研究家であるわたしの分析では、東大卒である著者の
植島啓司元関西大学教授の大フィーバーはもう来ないような気がする。
運を使い果たして、いまはどう落下を食いとめるかだけだろう。
それでもいい目を見(ら)れる人は少ないのだから、彼は胸を張ってよい。威張っていい。
人が経験できないおいしい思いをたくさんしたんだから植島さん、
笑顔で棺桶に入ってくだんなせえ。

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