「わが人生の書」

「わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯」(カルダーノ/青木靖三・榎本恵美子訳/現代教養文庫)

→カルダーノは16世紀イタリアの……なんなんだこいつ(1501~1576)?
解説では「ルネサンスの万能の天才と呼ぶにふさわしい人物」と紹介されているが。
いちおうカルダーノは医者、数学者、占星術師(占い師)、
文筆家、病的賭博(ギャンブル中毒)、それから超能力者(ただし自称)である。
確率の基礎を作った天才数学者としてもっとも知られているのではないだろうか。
カルダーノは知的関心からではなくギャンブルで勝つために確率論を研究している。
ネットで調べればすぐ出てくるが、医者としても業績があるとのこと。

さて、自叙伝である本書を読んでいると明らかに書き手の精神が病んでいるのがわかる。
だれも知らないだろうがストリンドベリの「青書」に比す奇書と言ってよかろう。
70歳を超えたカルダーノは平然と本書の冒頭近くで言い放っているのである。
「私が有する徳といえば、若いときから一度も嘘をついたことがないこと」(P63)――。
カルダーノがいかにおかしな(魅力的なという意味)人だったかわかるだろう。
使用人から毒を盛られるという恐れを抱いているという記述が見られる。
素人判断は失礼だが、統合失調症(精神分裂病)の気配が濃厚で楽しい。
そのうえ気分の変調の異常な波が文章から印象的に感じられる。
たぶん躁うつ病(双極性障害)の気も人よりかなり多めに持っていたのではないか。
むかしは治療する薬物などなかったから、
天才が天才性を思うがままに発揮できたのだろう。

カルダーノの血はどす黒い。
カルダーノの長男は妊娠中の妻に毒を盛ろうとした罪で斬首刑を喰らっている。
このときのカルダーノの嘆きは深く、また怒りも壮大だった。
裁判長など息子を死に追いやったものが全員みなみな後日、
変死や自殺といった悲惨な死に方をしたことを本書に嬉々として書き連ね、
それがさも自分の力であるかのように誇っているようにも読めないこともない。
少なくとも天の裁きがくだったぞ、
ザマアミロという黒々しい歓喜は文章から強烈に伝わってくる。
カルダーノの次男は発狂して父を告訴したのちに国外追放になっている。
あとひとり娘もいたのだが、こいつは子どもを産めない女だったとカルダーノは嘆いている。
結婚支度金だけ持っていかれて悔しい、といった正直過ぎることまで書いているのだ。

あるいは次男から告訴されたのは、
むしろカルダーノに咎(とが)があったのではないか。
というのも、この自叙伝を読むと病的賭博のカルダーノはとにかく金に細かいのだ。
あそこからはいくらもらった、あそこの給料はいくらだったと金のことばかり書いている。
ときおり妙な人格者ぶったことも書くが、
すぐにおかしな自慢をおっぱじめるのだから狂っていると言うほかない。
自分がどれだけ世間的に認められているか、
自分を高評価した書物のリストをわざわざ作って本書で誇示している。
名誉欲などくだらないと一方で言いながら自分の名誉をうっとうしいほど強調している。
医者として自分が治した患者をひとりひとり書き連ね、
いかに自分か優秀かしつこいほどにアピールしている。
反面、いまの言葉で言うなら不幸自慢が好きなようで、
自分が世界でいちばん不幸だったというような恨み節まで書きつけている。
予想できるだろうが、カルダーノの復讐心は異常なほど強い。
70歳を過ぎているのに「復讐は人生そのものよりも快い」というイタリアの格言だかを
もったいぶって紹介している。
「われわれの性質は悪の方へ傾いている」というのもカルダーノ愛誦の句だった。

そばにいたら迷惑このうえないタイプだが、こういう変人こそ新発見をするのだろう。
カルダーノは超能力、予知能力、テレパシー能力を持っていたとのこと。
「若いときから一度も嘘をついたことがない」カルダーノの言うことだから本当だろう。
斬首刑で死んだ息子がのちに毒を盛る妻と知り合ったとき、悪い気配を感じたという。
息子に死刑判決がくだった瞬間にまったくべつの場所でそのことを知った。
ある人がもうすぐ死んでしまうことを三度も的中させたことがあるという。
カルダーノは本当のことしか言わないからこれらも本当なのだろう。
天才的占い師のカルダーノは常人の見えないものを見通し、
聞こえないものを聞く能力を持っていたように思われる。
おそらく数学科出身でユング学者の河合隼雄もカルダーノは知っていただろうけれど、
あまりにも怪しすぎて手を出せなかったものと思われる。
精神科医の春日武彦も(大好きそうだが)カルダーノには言及していない(たぶん)。
宗教人類学者の植島啓司によってわたしはカルダーノの存在を教わった。
どうしてカルダーノは人の死期を的中させることができたのか本人に聞いてみよう。

「このような出来事は、無知な人々にはまるで奇蹟のように見えるだろう。
だがもし注意深い人が本書を読んで考えをめぐらすならば、
私はすでに現実となっていたことを見たのであって、
未来を予見したのではないことがわかるだろう」(P185)


オカルトは苦手な人が多そうだが、
わたしはこのくらいの不思議なことは起こるのではないかと思っている。
正しくは、起こってほしいと思っている。
そういう不思議なことがなかったら、この世界はあまりにも味気がないではないか。
そして、小さな小さな声で言うが、
シンクロニシティのような不思議なことは起こっているような気もしなくもない。
このへんの匙加減(さじかげん)が肝心で、
不思議なことに対してはどこか半笑いの姿勢を保っていたいのだけれど。
カルダーノは明々白々とイカサマ師の風体をしているが、学術的貢献もしているのである。
はっきり言って狂人だっただろうが、ある程度の超能力は持っていたと思う。
どうしてべつの場所で起こったことや未来のことが見えたり聞こえたりするのか。
カルダーノは本書をよく読めと突き放してくるので、よおしと熟読してみた。
どのような原理で超能力のようなものが発揮されるのか。
重要なのは以下の箇所だろう。
このブログでも何度か言及してきた華厳思想の「一即多 多即一」を
念頭において読まれると、多少はわかりやすくなるかもしれない。

「ささいな出来事であっても異常なまでに執拗なものからは、
時として予言をひき出すことができる。
人の一生における出来事はすべてただひとつの小さな物事から起こり、
それが網の目のように絡み合ってさまざまな様相を呈するのである。
ちょうど雲が形作られるときのように。
こうしたごく小さな事柄は、寄り集まって増大するだけでなく、
これらは少しずつ、いわば無数の小部分に再分割されねばならない。
自分の行為のなかでこのことを理解し重要視してきた人だけが、
諸々の術、人の集団、市民生活においてぬきん出て頂点に立つことができる。
したがって、こうした微細な事件を観察するのは、
なにごとにつけよいことである」(P179)


要するに、ふつうの人が見逃すような小さな出来事は全体を反映しているのだろう。
おのれの行為において生じたささいな出来事を見落とさないようにすると、
うっすらと全体のことが見えてくるときもたまにならばなくはないと考えられないか。
ものすごくわかりやすく言い換えたら、あまりにも簡略化しすぎだがこういうことだろう。
カルダーノはしきりに不幸自慢をしているが、
当時の社会ではかなりの成功者だったと思う。

「あらゆるものを観察し、自然には何ひとつ偶然にはなさないことを確信すること。
この方法により、私は富では豊かにならなかったが、自然の発見で豊かになった」(P82)


すべては偶然かもしれないが、それが必然であると確信すること。
小さな偶然のなかに絶えず意味を求めようと努めること。
そのためには偶然に意味があることを信ずる、ではだめで、確信まですること。
超絶な自己嫌悪者で自己愛者だったカルダーノは、自分を確信していたのだろう。
自分や自分の周囲、自分の行為を確信すると
超能力のようなものがときどき現われないともかぎらないのではないか。
カルダーノは自身を超能力者だという(そう確信している)。

「……私に備わった驚くべき超能力について語ろう。
私はそれを自分の一部であると感じてはいるが、
それがなんであるかはわからないだけに、ますます不思議に思う。
それは私自身であるのだけれど、
もとは自分から出ているのではないことは気づいている。
この力は、適切な瞬間に存在しはするが、
自分の思いどおりにはならないことも知っている。
そして出現するものは、私の力を超えているのである」(P150)


これは新興宗教の宣伝する奇蹟体験のようなものだと思う。
怪しげな新興宗教が宣伝する奇蹟体験は99%インチキだろうが1%の本物はあると思う。
その1%は長い目で見ないとプラスかマイナスかわからず、
そういう確率の低いことの起こる人は変な話だが、
高確率でまた不幸のどん底に落ち込むのである。
気分の浮き沈みの大きい人が世の中にはいて、人生の浮き沈みも大きくなることがある。
本気でギャンブルに手を出したら一攫千金と破産のあいまを漂っているようなもの。
賭けというのは最終的に自分を信じるほかなく、
ぎりぎりまで追い込まれると人間というものは不思議な力が出てくるのだと思う。
しかし、なかなか人間はぎりぎりまで追い込まれることがない。
本当はそういうスリルこそ生きている醍醐味かもしれないのだが、通常人はぎりぎりは怖い。
カルダーノは狂っているから意識的にか無意識的にか、
どこかで故意にギャンブルに夢中になって自分を瀬戸際まで追い詰めたのだろう。
ドストエフスキーではないけれど、
すっからかんにならないと本気が出ないやつというのがいるのだろう。
丁か半かのスリル、どきどき感を一度味わってしまったら、
日常の退屈なぞ飽き飽きしてぶち壊してやりたくなるのではないか。
自分をぎりぎりまで追い詰めたら超能力のようなものが出現するのかもしれない。
日本で言う「火事場の馬鹿力」のようなものである。
いったいギャンブルにおいて勝者と敗者をわけるのはいったいなんなのか?
それは間違いなく人間の努力ではないだろう。

「ああ、私はいくたび、自分の悲惨な境遇に涙したことだろう。
万事が悪化の一途をたどり、あらゆる希望が失われただけでなく、
どうにかしようと熟慮に熟慮を重ねても救いを見出すことはできなかったから。
ところがまた、私が何かに粉骨砕身することなしに、
二、三ヶ月のうちに事態が一変することがあった。私はその結果、
自分の意志や行為を超えた力が働いていることを信じるようになった。
このような事は、数をあげるのが恥ずかしいほど度々起こった。
だがまたこれと同じような運命の変動が、
しばしばすべてのものを一度に崩壊させたのだった」(P153)


カルダーノは小さなことにもいちいち大騒ぎするタイプだったのだろう。
それだけ小さなことにも気を配っていた、とも言えるのかもしれない。
彼はどちらかといえば女々しい痛みを感じやすい人だったと思う。
そんなカルダーノの息子が不名誉にも妻殺しの容疑で斬首されたのだから。
われわれ凡人には想像できないほどの絶望を天才数学者は味わったことだろう。
カルダーノは占星術(占い)で自分の死ぬ日を予想して、
その日に死んだとされている(自殺とも断食の結果とも)。
わたしは一か八かの賭博的行為や確率論、占い、運勢等に強い興味を持っている。
このたび元祖とも言えるカルダーノの文章の一端に触れられた幸いをいま噛みしめている。
奇人変人っておもしろいよなあ。

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