「義経千本桜」

「義経千本桜」(原道生:編著/歌舞伎オン・ステージ21/白水社)

→歌舞伎台本「義経千本桜」を読む。シェイクスピアよりもおもしろいんじゃないかと思う。
歌舞伎は一度だけ観にいったことがあるが、
おもしろいつまらない以前に役者がなにを言っているかわからないのである。
客層も大嫌いな金持ばあさんばかりで、歌舞伎とは俗物の極みという結論にいたった。
セリフの意味がわからないのに役者の魅力に惹かれて感動するというのはおかしい。
このたびうざいほど注のついた本書で一字一句正確に「義経千本桜」を読んだら、
これは日本人にとってはシェイクスピアよりもおもしろい読み物ではないかと気がついた。
「義経千本桜」のテーマは「正義」でも「愛」でもなく「情」であろう。
もっと正しく言うならば「親子の情」「主君の情」を「義経千本桜」は描いている。
もちろん家族団らんや平和時代の主君関係を描いても芝居にならない。
いきおい「人の不幸」を古今東西芝居は描いてきたようなところがある。
「人の不幸」を見て楽しむのがわれわれなのかもしれない。

歌舞伎というと古典芸能だから清く正しい世界が描かれていると思われるかもしれない。
まったくそんなことはないのである。
むしろ、グロテスクと言ってもいいような気がする。
「義経千本桜」において衆人の目のあるなか、これ見よがしに自殺をするものは4人もいる。
息子を刃物で殺す父親がひとり。
自害したが死にきれないじつの娘の首を切ろうとする父親まで登場する。
芝居ならぬ現実世界で目のまえで母親に飛び降り自殺された人を知っているけれど、
その人が「義経千本桜」を読んだらだいぶ慰められるのではないか。
なぜなら「義経千本桜」でこころざしかなわぬまま無念のうちに自害するのもはみなみな、
とても美しく描写されているからである。
おめおめ生き恥をさらすよりも自ら死を選ぶほうが美しいという価値観がこの国にはある。
生きていればただそれだけでいいという現代の生命礼賛の醜悪さを、
よく読み込めばわれわれは「義経千本桜」から感じ取ることができるのではないだろうか。

「義経千本桜」の世界は――。
「生きる」ことよりも「死ぬ」ほうが美しい。
発展や栄華もいいのだろうが、
むしろ衰亡や滅亡の無念のほうが芝居ではよほど色鮮やかなのではないか。
居丈高な勝利宣言ほど気味悪いものはなく、
ままならぬ世界にむけて発せられた恨み言や嘆きのほうがはるかに人間的ではないか。
成就や幸運よりも失敗や不運のほうがどれほど彩りが深いか。
願いがかなったという達成感よりも思いかなわぬ無力感のほうが輝いているのではないか。
なにもかも人間の思い通りになるわけではないという苦い発見には、
その感情を役者のように演じ尽そうとうするならばそれなりに味わい深いのではないか。
いくら人間が願おうが祈ろうが春は夏になるし、夏が終わると秋が来る。
「春夏秋冬、生者必滅、会者定離」は無念だが、
その念をうまく言葉にしえたならばそれはとても美しいものになるのではないか。
葉が色づき止めようもなく散るのは敗北かもしれないが、
その1枚の葉がいだいた感情をうまく言葉に乗せたらば、
それは万民の心を震わせ名ゼリフになるのではあるまいか。
なぜなら彼も我もそのような存在だからである。

「義経千本桜」からいいなと思ったシーンを紹介する。
最低限の日本史知識がないとわからないでしょうから、そこはもうごめんなさい。
さて、平氏を成敗したはいいが兄の源頼朝ににらまれてしまったのが義経である。
鎌倉の頼朝は京都にいる義経に難癖をつけてくる。
どうして義経は平家方の娘である卿の君を妻としているのか?
この書状を鎌倉から持ってきたのが川越という男である。
じつのところ人には言えない事情があって卿の君は平家方の娘ではなく川越の娘であった。
さあ、卿の君を妻に持つ義経は困ってしまう。
ここで愛する義経のために卿の君は夫やじつの父親のまえで自ら命を絶つのである。
結局のところ自分が死ねば頼朝の怒りがおさまり兄弟の不仲は解消するのだから。
本当は川越の娘であると頼朝に本当のことを伝えるよりも、
平家方の娘として死んだほうが義経の役に立つ。
泣かせるじゃねえかい。卿の君は刃物で喉を突いたが死ぬに死にきれない。
川越はまことあっぱれな娘であることよと思う。
娘は死にきれぬ自分の首を切ってくれと本当の父親である川越に依願する。
この自分の首を頼朝に渡せば兄弟和睦につながるだろうと思ってのことである。
川越は刀を抜く。しかし、そこは女、娘は最期に父親のやさしい言葉がほしい。
「わが娘よ、よくやった」と言ってほしい。

「卿の君 コレノウ、そのあかの他人のお手を借るも深き御縁。
 とてもの事にたった一言。
川越 アヽ、親子の名乗りは未来でせん(ト思い入れ)。
 南無阿弥陀仏(ト思い入れ)」(P49)


南無阿弥陀仏と言ったあとに父親はじつの娘の首を切り落とした。
これでうまくいくかといったらそうはならないのである。
おりしも敵方に館(やかた)を囲まれていたのだが、
無視を決め込めばよかったのだけれども、
武蔵坊弁慶が主君のためを思って
敵陣に斬りかかってしまい、このため義経と頼朝の不和は決定的なものとなる。
卿の君の文字通り命をかけた行為は結局のところ無駄に終わってしまったわけだ。
人間は行為を選択することはできるが、結果はかならずしも思うがままにならない。

行為(選択)→?→結果(禍福)

古今東西の芝居台本を読み込んできたが、名作は常にこの構造を持っていると言えよう。
シェイクスピア劇も「義経千本桜」もこの構造を秘めていることには変わりはない。
なぜなら古今われわれもこの構造の下に生きているからである。
われわれはある行為を選択するが、その結果がどうなるかはまるで予測がつかない。
弁慶とて主君義経のためを思ってよかれと判断して行動したのである。
結果、義経一行は京を追われ流浪の旅に出ることになる。
いままで連勝続きで得意の絶頂にあった義経はおのれの宿運の衰えを知る。

「義経 古人は人を恨みず。傾く運のなす業(わざ)と思えば、恨みも悔やみもなし。
 武蔵[弁慶]が無骨を幸いに、都を開かば[開け放てば]、綸命も背かず、
 兄頼朝が怒りもやすまる。これを思えば、卿の君が最期、残り多や。
 我も浮き世に捨てられて、駅路の鈴の音(おと)聞かん。
 片岡、伊勢[家来]も供致せ」(P53)


義経は卿の君のみならず弁慶もまた、
自分のためを思って行動を起こしたことを知っているのである。
しかし、どちらの行為も意図とは正反対の結果を招くことになってしまった。
こういう人間を超えたものの采配を描くのが古今東西の芝居なのだろう。
なぜわれわれがそれを見て胸打たれるかと言ったら、
われわれもまたそのようにままならぬ世界を生きているからなのである。

さて、漂泊する義経一行を待ち受けるのが平知盛である。
史実では知盛は安徳天皇らと一緒に壇の浦の合戦で死んでいるけれども、
「義経千本桜」ではひそかに生きながらえて船宿の主人に変装しているという設定だ。
幼い安徳天皇をお守りしながらである。
むろんのこと、いつか平氏を滅ぼした義経に復讐をするためである。
ようやく絶好のチャンスがめぐってきて、いま知盛は義経に復讐しようとしている。
しかし、裏の裏をかかれてしまい知盛サイドは敗色濃厚である。
この幕における主役は勝った義経ではなく、負けた知盛なのである。
人生で思いかなわなかった知盛のほうに多く見せ場が与えられている。
勝利者の義経の役よりも敗北者の知盛の役のほうがよほど演じがいがあるかと思われる。
もはや知盛の敗北は決定的でお付きの女ふたりは早々と自害している。
知盛の願いはかなわなかった。

「知盛 チエヽ、残念や、口惜しや。
 我、一門の仇を報わんと心魂(しんこん)を砕きしに、
 今夜、暫時に手立て顕れ、身の上までは知られしは、天命天命」(P125)


弁慶は成仏しろよとでも言いたげに知盛の首に数珠(じゅず)をかけてやる。
しかし、知盛はあきらめきれないのである。
正義のためでもなく愛のためでもなく、
強いて言えば死んだいまはなき親族への情のために知盛は義経に復讐したい。
正義よりも愛よりも人間にとって怨恨の情というものは強いのである。
嫁姑の怨恨や上司の非道な振る舞いへの怒りほど人間を突き動かすものはあるまい。
このために「義経千本桜」は人気があるのだろう。
われわれがみんなやさしい正義の人だったら、だれが「義経千本桜」など見るものか。
弁慶にお情けで数珠を首からかけられた知盛のセリフはすばらしい。
敗北者の恨み節ほど人間の胸にしみいるセリフはないのではないか。
どうしてかといったら、われわれみなが
どのみち無念の思いで死んでゆかねばならぬ敗北者だからである。

「知盛 エヽ、さては、この数珠かけたるは、知盛に出家とな。
 エヽ、穢(けが)らわしい穢らわしい、
 そもそも四姓[源氏・平氏・藤原氏・橘氏]始まって、
 討っては討たれ、討たれて討つは源平の習い。
 生き替わり、死に替わり、恨みをなさで置くべきか。

    ♪思い込んだる無念の顔色、眼(まなこ)血走り、髪逆立ち、
    この世から悪霊の相を現わすばかりなり」(P125)


決してあきらめぬ知盛だったが、その眼前でまた側近がひとり自殺する。
もはやこれまでと平知盛は断念する。
平家物語では「見るべきほどのことをば見つ。今はただ自害をせん」と言って、
平知盛は壇の浦で死んだことになっているが、「義経千本桜」では――。
この芝居ではこのシーンがいちばん好きでである。
敗北に敗北を重ねた知盛が最後の復讐にも失敗して言うセリフがとてもいい。
このセリフまわしは仏教の六道輪廻の思想が基調にある。
知盛の父は清盛だが、
清盛は女子だった安徳天皇を男子だと偽ったという俗説があるらしい。
注釈によると、ここでの知盛のセリフはその俗説にかこつけているとのこと。
知盛は不遇な幼い安徳天皇を見て涙が止まらない。

「知盛 アッ、果報はいみじく、一方の主(あるじ)と生まれさせ給えども、西海の波に漂い。

    ♪海に臨(のぞ)めど、潮(うしお)にて水に渇せしは、これ餓鬼道。
    またある時は風波に遭い、お召(めし)の船を荒磯へ吹き上げられ、
    多くの官女が泣きさけぶは、阿鼻叫喚。

 陸(くが)に源平戦うは、とりもなおさず修羅の苦しみ。

    ♪または、源氏の陣所陣所に数多(あまた)の駒のいなゝくは、畜生道。

 いま賤しき御身となり、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給う。
 これというも、父清盛、外戚の望みあるによって、姫宮を男(おのこ)宮と言い触らし、
 権威をもって任官させ奉り、弓矢の神に偽り申せしその悪逆、
 積もり積もりて一門、わが子の身に報いしか(ト思い入れ)」(P127)


こう物々しく語ったあとに知盛は安徳天皇を義経に託し壮絶な自害を遂げる。
おめおめ生き恥をさらすよりも死ぬべきときに死ぬほうがどれほど美しいか。
不幸や不遇はきちんと言葉にしさえすれば、
怠惰な幸福などよりもはるかに人の心を打つことがわかるだろう。
幸福よりも不幸、無念、怨念、怨恨のほうが謳いあげるべき内容があるのである。
喜びよりも物悲しさのほうが万民の心を震わせるのではないだろうか。

話はがらりと変わって義経も弁慶も登場しない寿司屋の話になってしまう。
ある寿司屋ではむかしの恩義ために平家の落人である平維盛をかくまっている。
この寿司屋の長男は、いがみの権太と呼ばれる札付きのワルである。
といっても根っからワルなのではなくせいぜいゆすりたかりくらいの小悪党だ。
寿司屋の主人はとっくにいがみの権太を勘当している。
さて、寿司屋にかくまっている平維盛に源氏の追手が迫ってくる。
いままで親不孝だったいがみの権太は改心して、維盛を守ろうと一工夫する。
一工夫どころではなく自分の妻子を身代わりに追手に差し出すほどの改心ぶりである。
ところが、寿司屋の主人はいがみの権太の心変わりを見抜けず、
もうこいつはどうしようもないと本当は親孝行な息子をそうとは知らず刀で刺してしまう。
寿司屋の主人は弥左衛門という。女房は泣きだしている。

「弥左衛門 泣くな女房、なに吠える。不憫(ふびん)なの可愛(かわゆ)いのと、
 こんな奴を生け置けば、世界の人の大きな難儀じゃわい。
 門端も踏ますなと言いつけおいたに、内へ引き入れ、大事の大事の維盛様を殺し、
 内侍様や若君様をよう鎌倉へ渡したな。
 腹が立って立って、涙がこぼれて胸が裂けるわい。
 三千世界に子を殺す親というのはおのればかり。
 あっぱれ、手柄な因果者にようしおったなあ」(P203)


弥左衛門は息子を刺したあとに真実に気がつくのである。
いがみの権太は維盛様を殺すどころか率先してお守りしていた。
鎌倉側に引き渡したのは内侍様や若君様ではなく自分の妻子だった。
いがみの権太はよかれと思ってやったことが過去の悪行から父親に誤解され、
いまのように刺されて命を終えようとしている。
一方で弥左衛門も忠義心から息子を刺したのだが、それは間違いだったことに気づく。
人間は選択(行為)を間違える生き物である。
われわれは生きている以上、
選択(行為)をするがその結果どうなるかはだれにもわからない。
しつこいが、これこそ古今東西の芝居の持つ構造である。

行為(選択)→?→結果(禍福)

いまとなっては弥左衛門はどうして自分が息子を刺したのかその理由がわからないだろう。
自分の手が刺したのではないような気がしているのではないか。
なにか大きなものがおのれの手を操り息子を刺すように仕向けた。
その考え方は間違いではなく、弥左衛門は台本に書いてある通りに息子を刺したのだ。
これが芝居の構造である。
だとしたら、われわれも芝居をしていると考えたら、どこに人間の自由があるのだろうか。
われわれとてもじつのところ台本があって、
それを正確になぞっているだけとは考えられないか。
シェイクスピア劇もそうだが、
いい芝居というものは常にこの人生と演劇のからくりを観客に考えさせるようにできている。
さて、父親に刺され血が止まらない、いがみの権太はいまや虫の息である。
女房はせめて死に目に会ってくださいと夫の弥左衛門に頼む。
弥左衛門はそれを振り切って維盛様のお供として旅に出ようとしている。

「弥左衛門 現在血を分けた倅(せがれ)を手にかけ、どう死目に会わりょうぞ。
 死んだを見ては、一足も歩かるゝものかいの。
 息ある内に、叶わぬまでも、助かる事もあろうかと、思うがせめての力草。
 止めるそなたが胴欲じゃわいの[むごいじゃないか]。

    ♪言うて泣き出す父親に、母はとりわけ、娘はなお、不憫不憫と、
    維盛の首には輪袈裟、手には衣、手向けの文も阿耨多羅(あのくたら)」(P213)


結局、この寿司屋の悲劇はどのようにまとめられるのか。
この幕に登場するなかでいちばん高位なものは平維盛である。
おそらく、維盛のこのセリフにしか人間の救いのようなものはないのだろう。

「維盛 弥左衛門が嘆き、さる事なれども、逢うて別れ、逢わで死するもみな因縁」(P208)

一度は別れた義経一行と愛妾の静御前だったが、吉野でまた再会する因縁があったようだ。
別れの際、義経は法皇からたまわった貴重な鼓(つづみ)を静に手渡している。
静には義経の忠臣である佐藤忠信が寄り添い危険が生じると常に護衛の役を買って出た。
なんの因縁か吉野でふたたび義経と静御前が会いまみえることになったわけである。
ところが、ここで不思議なことが生じる。佐藤忠信がふたりいることになってしまうのである。
ひとりはいまもいま亡母のとむらいを終えて主君義経のもとに参上した忠信。
もうひとりは、静御前とこれまで一緒に旅をしてきて、たったいま吉野に到着した忠信である。
いったいどちらが本物の忠信なのか。
静と一緒に旅をしてきたほうの忠信が正体を明かす。
自分の正体は狐(きつね)で、いままで忠信に化けていたのだと白状する。
では、いったいどうしてそんなことをしたのか。
じつは静御前の持っている鼓は、狐である自分の両親の皮で作られたものなのだという。
幼いころに両親は殺されて鼓になってしまったため自分は親孝行をできなかった。
だから、せめて親孝行にでもなればと鼓を持つ静御前を守るために忠信に化けた。
そうしたら源九郎義経様から源九郎の名前をおまえに与えるという言葉までいただいた。
こんな嬉しいことはなかったと狐忠信は言う。
ここは泣かせどころだから狐忠信のセリフを原文で紹介すると――。

「狐忠信 (……) 前世に誰を罪せしぞ、人のために仇(あだ)せる者、
 狐に生まれ来るという因果の経文[「業報差別経」のこと]恨めしく、
 日に三度、夜に三度(ト思い入れ)。

    ♪五臓をしぼる血の涙、火炎と見ゆる狐火は胸を焦がす炎ぞや。

 かほど業因深き身も、天道様のお恵みで、不思議にも初音の鼓、
 義経公の御手に入り、内裏を出ずれば、恐れもなし。
 ハア、嬉しや、喜ばしやと、その日より付き添うは、皆大将のおかげ。
 稲荷の森にて、忠信があり合わさばとの御悔やみ、せめて御恩を送らんと、
 その忠信殿の姿に変わり、静様の御難儀を救いし御褒美とあって、
 勿体なや、畜生に清和天皇の後胤源九郎義経という御姓名を賜りしは、
 空恐ろしき身の冥加(みょうが)。
 これというも、わが親に孝行が尽くしたい、親大事親大事と思い込んだ心が届き、
 大将の御名を下されしは、[畜生ならぬ]人間の果を受けたる同然、
 いよいよ親がなお大切。片時(へんし)も離れず付き添う鼓(ト思い入れ)」(P255)


このセリフを思い入れをたっぷり込めて読み上げたらさぞかし気持がいいことだろう。
古典芸能の歌舞伎とはいえやはり演劇で、
ならば必然として役者のほうが観客よりはるかに楽しいのだと思う。
観客が安価で役者の気分にひたれる方法が唯一存在する。
台本を古本やら図書館で手に入れてセリフを役者になった気分で読めばいいのである。
この記事は何度も自分が読み上げたいから名ゼリフを書き写している面がある。
さて、狐忠信はどうするのか? 忠信がふたりもいたら迷惑になってしまう。
いまは鼓となったふた親も、このあたりで姿を消せと言っているような気がする。
親への名残はたいそう深いけれども、お役目終了なのだから自分は消えよう。
だれにでも化けられる狐だから、あっという間に消えるのも得意である。
義経と静は狐の悲しい物語にいたく感動する。もう一度、狐に会いたい。
鼓を鳴らしたらいつものように狐は現われるのではないかと義経は静に提案する。
ところがである。いくら静が鼓を打っても音が出てこないのである。
これはいったいどういうことか?

「静 さては、畜類の魂残すこの鼓、親子の別れを悲しみて、音(ね)を留めたに疑いなし。
 人ならぬ身も、それほどに、子ゆえに物を思うかいのう。

    ♪打ちしおるれば、義経公。

義経 我とても、生類の恩愛の節義、身にせまる。
 一日の考[親孝行]もなく、父義朝を長田に討たれ(ト思い入れ)

    ♪日陰、鞍馬にひとゝとなり[少年期を鞍馬で過ごし]。

 せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ。
 親とも思う兄親に見捨てられし義経が名を譲りし源九郎[狐]は、
 前世の業(ごう)。我も業。
 そも、いつの世の宿酬(しゅくじゅう)にて、かかる業因なりけるぞや(ト思い入れ)。

    ♪身につまさるゝ御涙に、静はわっと泣き出せば、目にこそ見えぬ庭の面(おも)、
    わが身の上と大将の御身の上を一口に、勿体涙に源九郎[狐]、
    保ちかねたる大声に、わっとさけべば、
    我とわが姿を包む春霞、晴れて姿を現わせり」(P259)


姿を消していた狐は、
義経公のセリフや静御前の涙に感激して思わず叫んでしまったのである。
義経様ともあられる方が、畜生に生まれた自分の業とご自身の業を重ね合わせて
感慨にふけってくださっていると思うと、狐は叫ばずにはいられなかった。
うっかり叫んでしまったせいで妖術が解けて、狐は姿をふたたび現してしまったわけだ。
義経は狐の孝行ぶりに胸打たれて、この鼓は狐が持っていたほうがいいと手渡す。
ありがたく頂戴する親孝行な狐であった。
だいたい親子なんてものは仲が悪いのがふつうだから、
「義経千本桜」のこのシーンを見た観客は(セリフの意味がわかれば)
みなみな涙したことだろう。
じつは義経一行がひそむ吉野にも追手が迫って来ていたのである。
狐忠信は鼓の恩返しとばかりに、妖術を用いて敵方を翻弄するのだが、
これを見た観客は胸がすくような思いをしたことだろう。

「親子の情」というテーマは、性別年代を問わず万民の胸を震わすものなのだろう。
なぜならば、人として生まれたもので親がいないものはひとりとしていないのだから。
そして、子は親を選べない。子は親を選んで生まれてくるわけではない。
人間を超える宿命とでも呼ぶべきものの象徴が親でありきょうだいなのだろう。
恋愛なんかよりも「親子の情」は、人間の深いところを描くことができる主題だと思う。
なぜなら恋愛は男女の同一平面上の関係にすぎないが、
親子やきょうだいの間柄は神や仏にも通じるような宿命的な結びつきだからである。
この記事を書くついでにYouTubeで歌舞伎の「義経千本桜」をちらっと見た。
相も変わらず歌舞伎役者がなにをしゃべっているのかちっとも聞き取れなかった。
きついことを言うと歌舞伎鑑賞はまったく知性をともなわぬ金持の俗物的な道楽なのだろう。
海老蔵がステキって、だったら歌舞伎役者は俳優ではなく人形みたいなもんじゃないか。
歌舞伎役者が俳優になりたいならば、客にわかるような発声をしてからにしてほしい。
芝居は言葉だ。
言葉を伝えられないならば歌舞伎は芝居ではなくファッションショーと称したほうがいい。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3929-b39d5976