「源氏物語と日本人」

「源氏物語と日本人」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→なにやら本末転倒のようだが、河合隼雄のこの本を読みたいがために
ビキナーズクラシックスとはいえ「源氏物語」を読んだという事情がある。
「源氏物語」よりもむしろ河合隼雄がどうこの日本古典を料理するかに興味があった。
本書出版時、「明恵 夢を生きる」を書いたころとは格がぜんぜん違っている。
あらゆる意味で大物になった河合隼雄は、
「おれは先行研究なんてちまちま読んでいる時間がないけれど、悪いか?」(大意)
と学者とはとうてい思えないことを冒頭で勢いよく言い放っている。
しかし、いわゆる文学研究など先行研究に敬意を表しながら
(それが学問的権威になる)小さな物語のようなものをひとつつくることだと考えたらば、
大御所の河合隼雄のようにほとんどいっさい先行研究など読まないのも、
それはそれで斬新な発想ができていいのかもしれない。
どうしてみんな先例(前例、先行研究)を調べたがるのだろう。
それでは人と似通ったような考えしか生まれないではないか。
対象(世界)をまるで違ったように見ることができる天才は、
平凡な過去の研究者が書いた悪文をちまちま読んでいられないだろう。
しかし、批判が来たらどうしたらいいか?
あらかじめシンパをつくっておけばいいのである。
本書を書くまえに河合隼雄は「源氏物語」の通俗権威者たちと対談したという。
これでお墨付きをもらったから、
河合隼雄はなにを書いてもいい自由を得たことになる。

さて、先行研究を無視して心理療法家によって書かれた「源氏物語」論が
「正しい」のかどうかはわからないが、「おもしろい」かどうかはわたしでもわかる。
正直に本音を書くと、期待していたほどはおもしろくないのである。
いいかげんな要約をすると、いまは出世物語や勝利物語、正義物語の限界に
世界中が気づきつつあるが、日本には「源氏物語」があるではないか。
そう指摘したうえで、河合は「源氏物語」は
作者の紫式部の内界における自己実現の過程をうまく描いていると評価する。
自己実現とは、ひとりの人間としてその人の人生を完成させる、
くらいの意味で河合隼雄は使っていると思う。
女性というのは「娘」「妻」「母」「娼」の部分をそれぞれ内界に持っているが、
紫式部は「源氏物語」を書くことで4つの世界をそれぞれ十全に生きたのではないか。
現代人は出世物語、勝利物語、正義物語にいまだにとらわれて不自由になっているが、
紫式部のように「個」を生きるということを「源氏物語」から学んだらどうだろう。
紫式部は結婚して娘を産んだけれども、この「個」を生きるというのは内界の話で、
かならずしも結婚しなくても「妻」「母」「娼」はそれぞれの女性のなかに生きている、
と河合隼雄は主張する。氏は書いていないが、この論を発展させたら、
男性は内界における「息子」「夫」「父」「獣」を生き切ることが自己実現になるのだろう。

河合隼雄の基盤となっているユング心理学はほとんど金持の道楽に近い。
社会的に成功した人が空しさを感じて行った先がユングの診療所である。
明日食うコメがなくなるかもしれない世界では自己実現など鼻くそほどの意味もない。
いま時給850円のパートとしてひいひい働いているが(うん?)、
自己実現とか口に出したら作業員全員から袋叩きに遭いそうで恐ろしい。
わたしの意見では、べつに自己実現などしなくてもいい人生はわんさかあると思う。
しかし、また自己実現する人生があってもそれほど悪くはないような気がする。
河合隼雄の使う自己実現の意味は、自分だけの物語をつくろうという意味だ。
紫式部が内界に生きる「娘」「妻」「母」「娼」を用いて「源氏物語」を書いたように、
われわれもそれぞれの自分だけの人生物語を物語れないだろうか。
「会社人生物語」ばかりでは味気なくないか。
それでもないよりははるかにいいのである。

「きわめて卑近な例をあげてみよう。飲み屋に行って酩酊してきたときに、
いかに多くの人が「自分の物語」を語るのに熱中しているか。
ある人は、自分の的確な判断によって会社の危機を救った話を語る。
ある人は、自分のひとことによって平素はいばっていた上司が
ぺちゃんこになった話を語る。
つまり、これらの「物語」は、各人の存在の確かめを行なっているのだ。
これは生きていく上で必要なことである」(P43)


いまいる時給850円の職場の仕事なんてほとんどだれでもできる単純作業なのだが、
もしかしたら自分がいなかったら会社はまわらないという物語を
生きている人がいるかもしれない(それはそれでいいのだが)。
わたしはさすがに自分のことをいくらでも替えのきく存在だとみなしているが。
さて、物語は現実と違ってもよい。むしろ、違うものかもしれない。
いや、どちらも現実だと思っているところが河合隼雄の特徴である。

「現実を外的現実、内的現実に区別するのは安易とは思うが、
このようなことを考える上で便利な方法である。
自分の判断によって会社の危機を救った人の話を、
クールに外的現実と内的現実とに分けて記述すると、
彼の言う「判断」は別に彼個人の力によるものではなく、
彼の属する課のうちの何人かの考えであるし、
会社の重役にもそのように考えていた人もいた。
彼らの判断が採用されて会社が有利になったことは事実であるが、
会社の存亡にかかわるほどでもなかったということになる。
しかし、彼の内的現実の中で、彼は一人の「英雄」なのである。(中略)
ここで、この人が彼の「物語」を外的事実と混同してしまうと、
周囲の人々との摩擦を起こすことになるであろう。
さりとて、外的現実のみに生きていると、彼の人生は味気ないものとなり、
だんだん精気を失ってくることであろう」(P44)


このブログのわたしのバイト日記は内的現実(物語)にすぎないから、
外的現実だと思っている「偉い人」がもしいらしたら、それは違うのである。
べつに自己実現をしているつもりも、自己実現したいともあまり思っていないが、
自己実現はかなりの割合で近所迷惑を引き起こしかねないことはわかる。
紫式部のように外面の人生で破綻がなく「源氏物語」のようにやるのが
いちばんいいのだろう。もっとも文才がなければとうていかなわぬことだが。

いい歳をしてバイトをしているといろいろ気づくことがある。
もう出世物語や成功物語とは縁のなくなった人もちらほら見かけるが、
そういう不運なお気の毒な方たちが悲惨にも努力物語を生きていることがある。
「努力したらかならず報われる」というかなり眉唾な物語である。
努力物語を生きていると、身体的にも精神的にもきついばかりではないか。
常に全力で労働しようと努力するから疲弊して帰宅してから趣味ができなくなる。
努力物語を生きていると、こうなったのは努力が足らなかったからだと
自分を過剰に責めるようになり性格は暗くなりさらに人から疎まれるだろう。
「源氏物語」は努力物語ではなく、言うなれば偶然物語である。
一時期、源氏は自分の不注意から失脚して田舎へ退いていた。
そのとき人々の夢に不思議な偶然が生じて源氏は京都へ返り咲くことになる。
河合は、すべてが夢によってアレンジされていた、と見る。

「現代の合理主義者は、こんな話を馬鹿げていると思ったり、
紫式部が勝手に都合よく夢を利用して物語の展開を図った、と思うかもしれない。
しかし、筆者のように「中年の危機」にある人に数多く会っている者としては、
誰もがむずかしいと思っている危機が乗り越えられるとき、
本人の努力によるよりは、このような偶然、あるいは奇縁と
思われるようなことによる場合のほうが多いことをよく知っているので、
紫式部の洞察には感嘆を覚える。もちろん、夢も重要な役割を演じる。
運命と闘うのではなく、運命をそのまま受けいれて、意識的努力を捨て、
絵を描いたりしていると、「とき」の訪れとともに、
意味のある偶然が生じ、世界が開けてくる。
このような様相は昔もいまも変わらないと思う。
ただ、現代人はこのような現象に気づかずにいることが多いだけである」(P203)


意識的努力を捨ててみたらどうだろう?
もちろん外界(外的現実)は大切だが、
内界(内的現実)にもまた意味があるのではないか?

「夕顔の性格が内気で弱いのに、
最初に彼女のほうから積極的に歌を贈ったのはどうしてだろうか。
これは「内向の思いきり」とでも名づけるべき行動で、
内向的な人は、平素は控えめで優柔不断であるが、
自分の内なる動きを察して行動に出るときは、
周囲の人を驚かせるような思いきったことをするものである」(P175)


どうして自分がそれをしたのか後々になってもわからない行動というものがある。
自分のなかに別の人がいるような気がするときがある。
その別人が勝手に動き出してしまうときがある。
わたしも最近、自分のなかに恐ろしい鬼が一匹いるような気がしている。
よく一流作家が小説のなかで登場人物が勝手に動き出すというのはこれだろう。
本当は人間の内界には何人もの別人がいるのかもしれない。
おのれの内界の女たちを駆使して「源氏物語」を書いた紫式部のみならず。
このことに関して河合隼雄はこんなおもしろい指摘をしている。

「源氏は玉鬘(たまかずら)に自分の想いを告げるが、反応はない。
というより拒否的と言っていいだろう。源氏はなんとか説得しようとして、
深く思っている親子の情愛に別の思いまで加わるのだから、
こんなのは世間にまたとあるまい、などと強引な論理をふりまわす。
ここで実に興味深いのは、このような源氏の口説きの言葉の後に、
「いとさかしらなる御親心なりかし」(「胡蝶」)
と作者のコメントが入れてあるところである。
源氏が作者の意図を離れて勝手に行動しようとするのを、
作者がなんとか引きとめようとしているとも感じられるのである」(P222)


あんがい自分というものは、
こうだと自分が思っているような存在ではないのかもしれない。
自分で自分をあまり決めつけないほうがいいのかもしれない。
われわれはなぜか意図しない言動をしてしまうことがある。
それは自分のなかにいろいろな人がいると考えてみたらどうだろう?
自分の言ったことに自分で驚いてしまうことがなくはないだろうか?
それを河合隼雄はこのように表現している。

「……また思わず行為し、言葉を発してみて、
それによって自分の心の内がわかることもあったろう。
あるいは、それに伴う誤解や思いこみなども生じたであろう」(P294)


こうして考え始めると当初思った以上に本書は深くいろいろな発見があった。
最後にくだらないどんでん返しをすると、真剣に幸福ということを考えたら、
「源氏物語」の作者をパッと言えないような自己実現と縁のない人のほうが
恵まれているという皮肉な外的現実を指摘せざるをえない。
心が病んだりするのはいわば贅沢病なのだと思う。
ありあまる暇な時間とたしかな経済基盤を支えにして紫式部は「源氏物語」を書いた。

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