「お経 禅宗」

「お経 禅宗」(桜井秀雄・ 鎌田茂雄/講談社)

→禅宗も観音経(法華経の一部)を読誦するみたいだね。
もしかしたら日本人全般にいちばん普遍的に親しまれうるお経は観音経かもしれない。
むろんトップは般若心経だろうけれど、ふたつはどちらとも観音さまの教えである。
観音信仰というのは、日本人にとってもっとも親しみ深いものなのかもしれない。
ふつう観音経は偈(詩)の部分だけ唱えるのだが本書には全文が掲載されている。
ひさしぶりに観音経を全文一字一句精読してみて、あれれと気づいたことがある。
浄土宗の法然は唐の善導という坊さんが書いた「観経疏」の一文をヒントにして
専修念仏(念仏のみで救われる)を思いついた、ということに公式的にはなっている。
しかし、それは嘘じゃないかあ。
法然は観音経から念仏救済(南無阿弥陀仏)の方法を盗んだのではなかろうか。
具体的には、こういうところである。

「一心称観世音菩薩名号」(P37)
(一心に観世音菩薩の名号を称すべし)

「南無観世音菩薩。称其名故。即得解脱」(P38)
(南無観世音菩薩と言わんに、其の名を称するが故に、即ち解脱することを得ん)

「若有衆生。恭敬礼拝観世音菩薩。福不唐捐。
是故衆生。皆応受持観世音菩薩名号」(P42)
(若し衆生有りて、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福唐捐(えん)ならじ。
是の故に衆生、皆応(まさ)に観世音菩薩の名号を受持すべし)


ちなみに観世音菩薩(観音菩薩、観音さま)は、
阿弥陀如来(阿弥陀仏)の子分みたいなものである。
観音菩薩は阿弥陀仏の指示でこの世にいるわれわれ凡夫を救いに来ているらしい。
ならば、南無阿弥陀仏と観音経(法華経)の南無観世音菩薩はおなじ意味にならないか。
そして、日蓮が説いたのが南無妙法蓮華経である。
日蓮はもし法華経(観音経)を正確に読解していたら、
南無観世音菩薩と言っていたのではないか。
少なくとも南無妙法蓮華経は法華経に書いてないが南無観世音菩薩は記述されている。
おそらく怒りっぽい日蓮大聖人様も「南無妙法蓮華経=南無観世音菩薩」に
そこまで反対されなかったのではないかと思う。
とすれば、南無阿弥陀仏は南無観世音菩薩とほぼ等しいのだから――。

☆「南無妙法蓮華経=南無観世音菩薩=南無阿弥陀仏」

まさかまさかのこれを言っても、それほど間違いではないことにはならないだろうか?
はっきり言って、わたしのなかでは南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経もおなじである。
そうそう、人気作家の瀬戸内寂聴氏は観音信仰者で南無観世音菩薩と唱えているそうだ。
三つのうちどれを唱えても意味はおなじだとしたら、
おなじ仏教者同士で喧嘩する必要がなくなる。

さて観世音菩薩(観音さま)はどうして娑婆(しゃば)世界にやってきたのか。
もちろん、法を説くためであり、われわれ凡夫をお救いくださるためなのだが、
観音さまはじつのところもうひとつの理由があってこの世にいらしているのである。

「遊此娑婆世界」(P49)

観音さまはこの娑婆世界に遊びにきていらっしゃるのでもある。
創価学会二代目会長の戸田城聖はおもしろいやつで、
博打的投機人かつ山師で女好きのアルコール中毒、つまり快楽主義者だったらしいが、
ときおり自分はこの世に観世音菩薩のように遊びにきたのだとうそぶいていたという。
わたしは創価学会とはなんの関係もないが戸田城聖はおもしろいと思う(名誉会長よりも)。
さて、話を戻して、観世音菩薩はどのようにしてわれわれを救うかの説明がおもしろい。
観音さまはいろいろなものに姿を変えてわれわれをお救いくださるという。
ときには阿修羅(犯罪者)や売女(ばいた/娼婦)、障害児、鬼上司に姿を変えて
われわれをお救いくださるという。
もしかしたら、あなたの配偶者や友人、子どもは観音さまの化身かもしれない。
それどころか、あなたの大嫌いな上司、大嫌いな同僚も
いろいろな縁のしがらみのなかであなたを救うためにいる観音菩薩の化身なのかもしれない。
ならば、あなたやわたしも観世音菩薩の化身という可能性も考えられる。
繰り返すが、観音さまはなんのために娑婆にやってきたのか?
1.説法、2.救済、3.遊ぶ――。われわれはもっと遊んでもいいのかもしれない。

禅宗のお経の本なのに観音経の話ばかりしてしまった。禅の話をしよう。
「修証義」というのは明治時代に曹洞宗が出した布教のための案内書である。
まえに読んだときは大したことはないと不遜にも思ったが、
このたび読み返すとなかなかいいことも書いてあるではないか。

「愚人謂(おも)わくは利他を先とせば自らが利省かれぶべしと、
爾(しか)には非(あら)ざるなり。利行は一方なり」(P130)


バカな人は利他(他人のため)をしたら自分の利益が少なくなると思う。
しかしそうではなく、「他人のため」と「自分のため」はおなじことである。
まあ、きれいごとと言ってしまえばそれまでだが一理ないこともない。
みんなけっこう「自分のため」に「他人のため」のことをしているような気がする。
そして、「自分のため」にしていることが
結果的に「他人のため」になっていることも少なくないのではないか。
「自分のため」に「他人のため」にする親切は偽善がない人間のかなりよろしい行動だ。
「自分のため」しか考えていないやつも正直でわかりやすくそれはそれでよい。
あんまり明確にこれは「自分のため」、
あれは「他人のため」と区別しないほうがいいのかもしれない。

曹洞宗の布教パンフレットが上記に紹介した「修証義」である。
これに対して臨済宗のおなじような布教パンフレットが「宗門安心章」らしい。
せっかく読んだのだから心に残ったところを書き写しておくのも悪くないだろう。

「たまたま信心おこせども、自心仏と知らざれば、ただ徒(いたず)らに狂奔し、
傍家波々地に、仏を求め、法を求めて止むときなし。憐れというも愚かなり」(P176)


どこかに「正しい」情報や成功マニュアルがあるのではないかと狂奔するのではなく、
わが心の奥底にこそ仏が眠っていることを信じて自分で考えようという意味だと思う。
仏法もだれかから教わるものではなく、自分で気がつくものなのだろう。
だれかに「正しい」説教や指導を求めるのではなく、自心こそ仏よと信じて生きていくしかない。

「病不自信の所にあり」(P185)

迷いは自信がないから生じるって、まあ当たり前のことだよなあ。
どうしたら自信が生まれるのか。
仏はどこかほかにいるのではなくわが心にいると気づくしかないだろう。
自分は他人には決してなれなく、それぞれがそれぞれおのれの道を行くしかないが、
しかし観音さまのような存在がきっと付き添ってくれているのだからそう不安になることはない。
自信がありすぎる人も不愉快だけれど、自信がなさすぎる人も見ていて痛々しくなる。
他人なんかどうせ自分を愛してくれないんだから、自分が自分を愛するしかないのだけれど。
よしんば他人が自分を愛してくれるとしたら、
それは当人が自身を愛しているからにほかならない。
自信というのは自分を信じることかあ。
もし自分の心の奥底に仏がいるとしたら、その仏さまを信じられるのかもしれない。
こんなけっこう自信たっぷりなことを書いてきたけれど、
ぼそっと白状するとわたしは自分のなかに仏なんているとはちょっと思えない。

COMMENT

太秦鳴門 URL @
10/28 19:37
. 教えに執着するのも煩悩?








 

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