「よくわかるお経の本」

「よくわかるお経の本」(由木義文/講談社ことばの新書)

→日本の坊さんが行事で読み上げるお経は今年の1月に大半を固め読みした。
あれから9ヶ月経って、こちらの身辺にもいろいろあり、わずかながら読書体験も増した。
いまお経を読んだらどう思うかという好奇心から、
しかしおなじ本を再読するのは芸がないので、別の本で坊主読誦用のお経を再読する。
むろん、好奇心からだけではない。
完全に落ちぶれてしまった人生をどうにかしたいという思いがいまだあるのである。
とはいえ、どうしたら人生が好転するかまるでわからないのである。
もう自己啓発の嘘はばれかかっているでしょう?
人生はこうしたらこうなるなんていう法則は本当はないのだと思う。
人生がうまくいっている人は成功法則のようなものを得意げに語るが、
そんなものはたんに運がよかっただけじゃないか、と言うこともできないわけではない。
人生はなにがどうなっているのかさっぱりわからない。
このことに深く思い当ったときに、
ときに人は意味がよくわからないお経に目を向けるのかもしれない。
少なくともわたしはそういう思いからお経に関心を持った。
言うまでもないことだが、お経にはすべて意味がいちおうのところ存在する。
今年の1月にそれはじっくり勉強したので今回の読書は復習だから楽だった。

お経の感想を書くというのも変なものだが、いま思ったことをつらつら書き連ねてみたい。
きっとお経というのはどこまでも意味が正確にはつかめないところに意味があるのだと思う。
つまり、「わからない」ところに意味がある。
人生の究極の答え、意味は「わからない」がために、
よく「わからない」お経を唱える意味が逆説的にあるのではないだろうか。
「わからない」ことを確認するとでも言おうか。
問い、なぜお経を読むのですかか? 答え、わかりません。
じゃあ、なんでわからないことをするのか? だって、人生もよくわからないではないか。
お経のなかでいちばん退屈でつまらない意味不明なものは阿弥陀経だが、
わたしの好きな踊り念仏の一遍がもっとも愛したのが阿弥陀経である。

よくさ、大乗仏教は利他をすすめているから小乗仏教(釈迦仏教)よりもすぐれている、
という説を耳にすることはありませんか?
利他をすすめる大乗仏教は、自利だけの小乗仏教よりも偉いという論法である。
わたしもこれまでなんとなくその説が「正しい」かのような気がしていた。
しかし、あれ? とこのたび思ったのである。
小乗仏教(釈迦仏教)の自利というのは要するに「自分のため」という意味である。
これに比するならば大乗仏教の利他は「他人のため」という意味になろう。
そうだとしたら「他人のため」に生きるのはそんなに立派なのだろうか?
「自分のため」に生きるほうがはるかに困難な道なのではないか?
いまの日本で言うならば、
みんな本当のところ芸術家のように「自分のため」に孤独に生きられないわけでしょう?
そういう孤独な自己探求の道は能力ない庶民には不可能だから、
そのために「家族のため」「会社のため」「恋人のため」に生きている、と言えなくもない。
釈迦も一遍も測り知れないほど深い孤独をうちに秘めた人だったような気がする。
一方でいまの日本の職業坊主(大乗仏教)ほどうさんくさくて偽善的な存在はない。
酒を飲み女を抱く坊さんがさ、一丁前に「他人のため」に生きましょうなんて説教するんだから。
「人に親切にしましょう」「布施の心を大事にしましょう」とか虫唾が走らないか?
布施の心って意地悪な見方をしたら、うちら坊さんに金を一銭でも多く寄越せって話じゃん。
笑わせんな、大人をバカにすんなよって話だ。

浄土宗の法然というやつは実際のところそれほど大した宗教家ではなかったのではないか。
なぜなら、しょせんは「正しい」ことにこだわった秀才エリートに過ぎないからだ。
法然は専修念仏(念仏だけで救われる)の教えを説いた鎌倉新仏教の僧侶だ。
専修念仏の根拠は唐(中国)の善導という坊さんが書いた「観経疏(かんぎょうしょ)」一文だ。
本書にその一文の訳が載っているので引用する。

「一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称え、行・住・坐・臥に、
時間の長い短いを問わず、常に忘れない。これを正定業という。
というのは、これは阿弥陀仏の願にかなっているからである」(P44)


要するに、念仏は「正しい」行為だと中国の偉い坊さんが「観経疏」で言っている。
「観経疏」というのは観無量寿経というお経についての解釈である。
この観無量寿経もやたら正邪にこだわっているように読めなくもない。
たとえば、ここである。

「此(こ)の観をなすをば名づけて、正観とし、
若(も)し他観するをば、名づけて邪観とする」(P84)


なぜ「正しい」ことを言うやつが嫌いかというと、
「正しい」は「正しくない」すなわち「邪」や「邪悪」をなりゆき上つくってしまうからである。
自分は「正しい」と思っていると、だれかを「邪悪」なやつだと裁くことになろう。
正義というのは悪や邪を産み出す戦争の思想なのである。
法然は独特な仏教解釈をした秀才だが、後世に戦争の要因をつくった因業な人物でもある。
法然が念仏こそ「正しい」なぞと言わなければ、起きなかった戦争もあるのではないか。
「正しい」ことを言うやつは自分は「偉い」だのと思いがちで、その臭みが好きになれない。
ちなみに踊り念仏の一遍は、
「何(いず)れを正義とし、何れを邪義と判ずべからず」と言っている()。
このため、わたしは一遍のほうが法然よりも宗教的に深いのではないかと思っている。
とはいえ、法然が専修念仏の解釈をしなければ
一遍の踊り念仏は生まれなかったのも事実ゆえ、
坊さんと坊さんの優劣を比較することがどれほど意味のあることなのかはわからない。
しかしまあ、法然という男は死ぬ間際にも「正しい」ことを言っていやがる。
浄土宗で読む「一枚起請文」の末文にこうある。

「滅後の邪義をふせがんがために、所存を記し畢(おわんぬ)」(P204)

「自分は常に「正しい」ことを言ってきたが、
死後に間違ったことを言うやつが出てくると困るからこれを書いておくぞ」という意味だ。
より正確を期せば、そういう解釈もできなくはないという話。
しかし、そう考えると、なーんか法然さん、いやなやつじゃないかなあ。

法然の弟子に(だが一番弟子ではない)親鸞という女好きの坊さんがいる。
親鸞は教団を結成する遺志はまるでなかったが、子孫に腹黒いやつが多く、
とくに8代目だかの蓮如という悪人は権力欲が強大で、
ほとんどこの蓮如が設立したと言えるのがいまも栄える浄土真宗である。
人の考えは変わるものだから今後も変わりうるだろうが、浄土真宗ってひどくねえか?
まず浄土真宗で重んじられている「正信念仏偈」というものがある。
これはアホの親鸞が書いた意味不明の書物「教行信証」の一部である。
親鸞をアホと言ったら怒られるかもしれないが、親鸞は愚禿(ぐとく)と自称している。
自分から「わいアホでんねん」と言っているやつを、
こちらがアホと呼ぼうがバカと呼ぼうが構わぬではないか。
で、漢文をろくに読み書きできなかったらしいアホの親鸞がインテリぶって書いたのが
「教行信証」で、その中の一部を「正信念仏偈」として浄土真宗の信徒は
ありがたがって読んでいるらしい。
この「正信念仏偈」略して「正信偈」がまたひどい代物なのである。
ひと言で要約したら「肩書大合唱」のようなものである。
歴史上の高僧の名前をずらずら並びあげて、だからおれは「正しい」と言っているようなものだ。
もっと俗っぽい話に言い換えたら、よくさ、いるじゃない?
有名人と知り合いであることをやたら自慢して威張るおバカさん。
あいつと飲んだことがある、あいつとゴルフに行った、とかえんえんと語る手合いである。
浄土真宗が重んじる「正信念仏偈」はそういう俗物的ないかがわしさを有する。
でね、この「正信念仏偈」の末文がまたひどいのである。

「道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと」(P138)

これはどういう意味かわたしなりの解釈をしてみよう。
いいか、おまえら考えんなよ。
おまえらなんか足元にも及ばないような偉い人たちが言ったことなんだから、
何度でも繰り返すがおまえらは自分のあたまでなんか考える必要はないんだ。
考えるな、考えちゃいけない、
おまえらはな、盲目的におれら坊さんの言うことを信じていたらいいんだ、わかったか!
こういう意味だと解釈できないこともないのである。
一般に日本からは独創的な発見は生まれにくいというが、
それは長いあいだ浄土真宗のような奴隷養成宗教が幅をきかせていたからではないか。
「正信念仏偈」は信徒に自分のあたまで考えんな、
上の言うことには黙って従え、と言っているのである。
こんなものを毎日読んでいたらまったく自分のあたまでものを考えないバカになるだろう。
「正信念仏偈」は社員を社畜にするために毎朝声に出して読む社訓のようなものだ。
むかしわたしもある派遣先で毎日、気持悪い社訓を読んだことがあるが、
みんなあんなものは内心ではバカにしていただろうと考えると、
ならばどうしておなじような「正信念仏偈」はありがたがって読まれるのだろう。
「バッカじゃ~ん」と言ったら日本最大派閥らしい浄土真宗に怒られるのかしら。

もう人生どうなってもいいので(これを絶対他力というのだよ真宗門徒諸君!)
恐れ知らずにも本音をぶちまけると、
親鸞関係で天才と言えるのは「歎異抄」を書いた唯円だけではないか。
唯円は親鸞以上に他力思想を理解することができた親鸞の優秀な弟子である。
唯円が自分の念仏信仰を親鸞の言葉として書いたのが「歎異抄」である。
いまの言葉でいえば、唯円は親鸞のゴーストライターになるのかもしれない。
浄土真宗の重要思想は、ほとんど唯円の「歎異抄」によっているのだが、
親鸞の血族たちは手柄を横取りするために長らく唯円の存在を抹殺していた。
わたしから言わせたら、唯円は法然や親鸞など比較にならぬほどの、
踊り念仏の一遍レベルの宗教的天才ということになる。
「人を殺してもええんや」なんて書くんだから(「歎異抄」)唯円は怖すぎる。
ちなみに一遍は「自殺してもいい」と言っている。
むしろ「早く死んだほうがいい」「自殺できるならしたほうがいい」のほうが正しい解釈か。
すべては前世の宿業で決まっているならば殺人も自殺も個人に責任はないのである。
死後に極楽浄土に往けるのならば、殺人や自殺は善業になるではないか。
お経に話を戻すと、阿弥陀経は死後礼賛の本だから自殺を否定する内容ではない。
観無量寿経には自殺を肯定する以下の一文がある。

「この観を作す者は、身を他世に捨てて、諸仏のみ前に生じて、
無生忍(むしょうにん/悟り=安心立命)を得ん」(P82)


これは捨身(自殺)のすすめと読めなくもない。
この世は捨てて、少しでも早く浄土に往き諸仏にまみえたほうがいいという思想だ。
法華経にも似た表現がある(如来寿量品第十六)。

「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」(P160)

少しでも長生きしたいと効かない健康食品を
ばかすか摂取するジジイやババアはまったく法華経を理解していないと言えよう。
「不自惜身命」は命を惜しむなとも、命がけでなにかをしてみろとも解釈できる。
本書の著者は以下の現代語訳をつけている。

「ひたすら仏にお会いしたいと願い、自らの命も惜しむことがない」(P160)

うすぎたねえ浄土真宗に話を戻すと、腹黒い蓮如がひでえ文章を書いているのである。
「白骨の御文」として知られる、じつに書き手の根性の悪さがよくわかる低劣な脅迫文だ。
強く強調したいので繰り返すが、蓮如の「御文」は悪らつ姑息な脅迫文である。
内容は「あんたも明日死ぬかもしれんで、イヒヒ」である。
それから「死んだらどうなるか怖くないか、どうすんだ、おいおいおい」と続ける。
ここでストップするのだから日本史上一二を争う悪人の蓮如はずる賢い。
「うちらに金を払え」はあえて文章には書かないのだから、本当に金儲けの天才だ。
死の恐怖をあおりたてて信徒から金を奪おうという賤しい精神の結晶が「白骨の御文」である。
新興宗教の金儲けのテクニックを発明した元祖が蓮如という天才ビジネスマンだ。
本当のことを言えば(え?)、
死んだらみんな浄土に往けるのだから坊さんに一銭たりとも金を払う必要はないのである。
蓮如や親鸞など比較にならぬ天才仏教者の唯円は「歎異抄」にはっきりそう書いている。

長々とくだらぬ意見を書き連ねてきたが、最後にお経ベストワンを発表したい。
これは現在のもので将来的に変わることも大いにありうる。
じつのところ、いまいちばんいいと思うお経はむかし大嫌いだった法華経なのである。
「自我偈」とも呼ばれる法華経の「如来寿量品第十六」がベストワンだ。
このお経の内容はひと言で要約したら「嘘をついてもいい」である。
他人や自分を救うためには嘘をついてもいい。
そもそも法華経自体が釈迦とは縁もゆかりもない後代に創作されたお経である。
偽物の分際でうちらのほうが本物だと居直ったのが法華経である。
どうしてそんなことをしてもいいかと言えば、人を救うためなら「嘘も方便」なのである。
愛する子どもを救うためなら医者の父が自分は死んだと嘘をついて薬を飲ませてもいい。
法華経は嘘のかたまりと言ってよかろう。

いきなり話は飛躍するが、
西洋キリスト教は唯一絶対真理(「正しい」こと)を指向するところにその特徴がある。
このためキリスト教世界から真理を求める西洋近代科学が誕生したとも言えよう。
これに比して、はなから真理など問題にしない嘘だらけの法華経は
西洋近代思想を超越するインチキ(=嘘)パワーを内部に秘めている可能性がある。
日本人がなかなか本当のことを言わないのは法華経が根にあるからではないか。
法華経は自分こそ「正しい」と言いながら、ぜんぜん正しくないところがおもしろい。
ぬけぬけと真っ赤な嘘をおおまじめに言い放つ法華経は日本人の魂の故郷かもしれない。
法華経の内容は「嘘も方便」「嘘のすすめ」と解釈することもできよう。
大乗仏典というのはすべて嘘だが、
そのなかでも法華経は嘘の真っ赤な光彩がひときわ目立つ。
法華経が「正しい」からいいのではなく、そのインチキくささがたまらなくいいのである。
法華経を読むと現世利益があると宣伝しているのは有名新興宗教団体S学会だが、
法華経と和解したせいか、このところ周囲にいい流れが来ている気がするのである。
友人もいい仕事にありついて忙しいというし、
そのほか流れの変化を感じることがないと言ったら嘘になろう。
この調子で行けばわたしのところにも幸運が来そうだが、もちろんそれはわからない。
そうそう、法華経の一箇所にこう書いてある。
「世界の「正しい」真実はおまえらなぞにわかるはずがなく、
仏のみが知っておるんだよ、ガハハ」
それはどこかと言えば法華経の「方便品第二」のここである。

「唯(ただ)仏と仏と及(いま)し能(よ)く諸法の実相を究尽したまえり」(P155)

人間には「正しい」ことは「わからない」というのは、かなり「正しい」とわたしは思う。
お経を読んだらば功徳があるかどうかはわからないが、
西洋科学が絶対にないというのが「正しい」わけでもないのである。
インチキ健康食品をのんだらガンが治るケースも絶対にないわけではないと思う。
しかし、インチキ健康食品をのんだら絶対にガンが治るわけでは断じてない。
法華経はインチキ健康食品のようなものではないか。
インチキ健康食品のメリットは「治るかも」という希望が生まれることである。
わたしは「正しい」ことよりも嘘やインチキのほうを好むところがどこかにある。
あんがい観音経(法華経の一部)を毎日唱えたら福運に恵まれるかもしれない。
恵まれないかもしれないし本当のところ「正しい」ことは「わからない」。



※右の文庫本は新刊でバイト先の書籍倉庫でわたしが手ずから世に出した本である。
暇なとき立ち読みさせてもらった。その影響でこのたびお経の本を読む気になった。
みんな、本屋さんで買ってね(アマゾンでもいいけれど)♪

COMMENT

Mac URL @
10/26 23:46
. 法華経のサンスクリットの原典には諸法実相という言葉はないよ。
鳩摩羅什が「ダルマター」を諸法実相と訳したんだけど、意味は属性とか性質とか、そういうもんらしい。
属性を離れた物そのものがあるのでもなく、ないのでもない。結局「空」ってことらしい。
でも諸法は実相を現わしているってのはホントだと思うよ。
Yonda? URL @
10/27 00:05
Macさんへ. 

まだわからないの?
わたしは「正しい」ことなんてどうでもいいとこれほどまでに書いてきているのに。
きみさ、聞きかじった「正しい」ことを言ってしまったという恥ずかしさはありませんか?
ないんだろうなあ。
人間なんて、そんなものさ。
「正しい」ことを言って威張りたい。

正直、きみの意見なんてどうでもいいんですよ。
わたしはあなたが嫌いだ。
できたらコメントをしないでほしい。
どうしてもなにか言いたいなら実名記入のうえでメールをください。
むかつくメールだったら返信しない。
山田犬一 URL @
10/27 06:40
. 弱ったなあ、うちも真宗なんですが。

そこまで書いて結局現世利益なんですか。時間を返してほしいです。
太秦鳴門 URL @
10/27 13:17
ゼロ思考. わたしはいつも「正しさ」を無意識に追い求めていました。

「正しさ」を追い求めなくていいことに気づけたことに感謝です。








 

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