「チロルの挽歌」

1992年にNHKで放送された山田太一ドラマ「チロルの挽歌」をYouTubeで違法視聴する。
「本当の愛情はなにか?」「男同士の友情と恋愛はどちらが大事か?」
といった複数のテーマらしきものが透けて見えるのだが、
そのどの問いにも作者はこれが「正しい」という答えを出していないのがよかった。
会社人間だった杉浦直樹は会社の汚職をひとりでかぶるかたちで服役する。
もちろん、出所後のポストは約束されていたから、それほどの英雄行為というわけでもない。
だが、杉浦直樹の1年9ヶ月の服役中に家内と息子が交通事故でいきなり死んでしまう。
出所した杉浦直樹は自殺を試みるが鉄道社員の高倉健に命を助けてもらう。
それどころか情に厚い高倉健は公私にわたって杉浦直樹のめんどうを見てあげる。
杉浦直樹はこのいわば恩人である高倉健を裏切って娘もいる夫人の大原麗子と駆け落ちする。

さて、北海道のある市にリゾート施設建設のために高倉健がやってくる。
いままで技術職一筋だった高倉健は望んでサービス業に就いたのである。
高倉健は自分を変えたいと思っていた。なんのためにか?
高倉健の赴任地にまったくたまたまの偶然にいたのが、
駆け落ちして所在不明の杉浦直樹と大原麗子だった、ふたりは小さな洋品店を営んでいた。
もし「正義」があるとすれば圧倒的に高倉健のほうにそれはあるだろう。
杉浦直樹と大原麗子のふたりには負い目がある。
しかし、力関係が明確に出てこないところがおもしろい。
なぜなら高倉健はいまだに大原麗子に未練たっぷりだからである
一方で大原麗子と杉浦直樹のほうは駆け落ちして4年も経てば、純粋ラブラブとは言いがたい。
大原麗子はかいがいしく高倉健の洗濯物を洗ってやったりするから関係は複雑である。

最後の一同集合シーンは圧巻だった。
いかにも山田太一ドラマらしく、それぞれが本音を言う。
大原麗子は仕事人間でちっとも自分に向き合ってくれない高倉健がいやになったという。
いっぽうで「大変なことがあった(服役、妻子の交通事故死)」があった杉浦直樹は、
びっくりするくらい本音で自分に向き合ってくれるので惹かれた。
さあ、大原麗子は高倉健と杉浦直樹のどちらを選択するのか?
ここでいかにも山田太一ドラマらしいドラマが生じる。
杉浦直樹が自分が消えるというのである。自分がこの町を出ていく。
(駆け落ちして)4年間、いい思いをさせてもらった。
いつも高倉健のお世話になってきたが、助けられてきたが、
ここは自分にいい恰好をさせてくれ。
それはよくないと高倉健はいう。この町を出ていくのは私のほうだ。
幸せにやっているふたりがこの町を出ていくことはない。
男ふたりが「いい恰好」をしはじめたことに怒るのが大原麗子である。
「自分たちばかりいい恰好しちゃって、私の気持はどうなるの?」
大原麗子は杉浦直樹も高倉健も選びたくないという。
どうにかして「年がい」を生かしてでも、この町で3人でうまくやっていけないか。
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の新しい第三の道を大原麗子は娘のまえで提案する。
「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の第三の道――。

1年後、レジャー施設のチロリアンワールド開園日である。
これまた全員集合でチロリアンワールドの開園式にみな駆り出されている。
娘の声(ナレーション)によると、いまは高倉健と大原麗子が同居しているらしい。
杉浦直樹の洋品店にたまに大原麗子がパートで行くという。
三人はそういう関係になっているという。
花火が盛大に打ち上げられ、開園を知らせる色とりどりの風船が青空に舞う――。

ストーリーを要約しただけで、
このドラマから味わった感動をなにも説明していないかもしれない。
みんながみんな建前と本音に一生懸命向き合っているのがよかった。
建前に終始するのはそれなりに苦しいながらもそれほどの葛藤はないのである、
おのれの本音に向き合ったときがいちばんその人の輝きが、
ほかならぬその人の苦しみから派生するように思う。
だれか異性を本当に愛していたら一緒になるのと消えるのとでは、
いったいどちらが本当の愛情か。
恋愛が「相手のため」にするものならば、「自分のため=都合」は引っ込めるべきではないか。
「ええ恰好しい」で生きるのはみなから評価される男らしい生き方だが本当にそれでいいのか。
いずれも「正しい」答えのない問いである。
この答えのない問いに高倉健、杉浦直樹、大原麗子がそれぞれ、
それぞれの「自分のため」と「他人のため」を考えながら
自己の本音を隠さずにいっていたのがよかった。
そういう場(シーン)をあまたの偶然のちからを借りながらまったく不自然ではなくつくった
山田太一のドラマ作劇術にわたしはいちばん感動したようなところがある。
この人は天才なんだ。
また改めて天才の秘密の一端でもでも覗き見たいという好奇心を強く刺激された。
以下、どこかなじみのあるいつもの山田太一ドラマのセリフである。

「そんな偶然あるかな?」
「少しは人の気持をわかれよ」
「まじめて仕事ばかり。女はうちを守れ」
「あの人はあたしを大事にしてくれた」
「なんでも会社のために尽くす。誇りもなにもない会社員か? そりゃ女房に逃げられるわ」
「またあなたに助けられるのはかなわない」
「人間ってしょうがないことをしちまうもんじゃないんですか」
「(あんたは)女の気持がぜんぜんわかんない」
「神っていうか仏っていうか、そういうものはあるんだね」
「いまでも(大原麗子に)未練がある。こっちの魅力で取り戻そう。変わろうと思った」
「女は目先の動物だ」
「おれにだって誇りはあるんだよ」
「日曜にひとりは辛い」


このドラマを最終的に解決するのはいつもの山田太一らしくお金である。
リゾート建設に反対していた半田牧場が
経営難(借金)から市に対して折れたことがきっかけとなった。
お金がなければ愛も恋も友情も家族も、
どんな美辞麗句もなにもないという極めて「正しい」現実認識を山田太一は有している。
「チロルの挽歌」は男らしい仕事人間の高倉健が女のために仕事を辞めようとする話である。
山田太一ファンは圧倒的に女性が多いが、
お茶の間の主婦はこの物語に拍手喝采したのではないか。
あの高倉健さんが古女房のために仕事を放り捨てるのだから。
「あんたもちっとは家族サービスしなさいよ」
と亭主を怒鳴るには十分なドラマになったことだろう。
ひとつ山田太一の恋愛観がおもしろかった、
杉浦直樹が駆け落ちした大原麗子にいうのである。

「自分じゃわかんないかもしれないが、おまえは(高倉健のところに)戻りたがってるんだ」

もしかしたらわれわれの本心は自分自身よりも他人のほうがよく見えるのかもしれない。
言い換えたら、われわれは自分がなぜそれをするのかは結局のところよくわからない。
とすると、自分は意識せずにだれかを好きになっているということもなくはないだろう。
人から指摘されてはじめて、
自分がだれかに恋愛感情を持っていることに気づくこともなくはない。
やけに親切にしてしまう相手というのは、
もしかしたらあなたが惚れている相手なのかもしれない。
恋愛や失恋がなかったら人生は退屈が過ぎるのだろう。
だから、いくら小市民の細々しい生活の綾を描写する山田太一ドラマでも恋愛は頻出する。
じつにいいドラマを見たと思う。本当に感動した。

COMMENT

- URL @
10/18 01:47
小谷野敦. 山田太一コメント、大変でしたね。動揺のせいか「チルトの挽歌」なんて書いてます。それほど名作とは思わなかった。あれは大原麗子が高倉健に未練たっぷりなところがミソでは。あと後半で白鳥靖代の娘が出てきて唖然とする。
Yonda? URL @
10/18 18:11
小谷野敦さんへ. 

間違い探しがびっくりするくらいうまいですね。東大はそういう間違い探し系の問題は少なかったはずですから、小谷野さんは本来は私大型の人間なのかもしれません。人のミスを指摘すると嫌われることが多いですが(わたしはそれほどでもない)、考えてみたら人に嫌われたって別に構わないですよね。

小説や映画ドラマ、つまり広義の物語は受け手の人生体験(物語)によって評価が大きく分かれるようなところがございます。むろん、小谷野さんはとっくにそのことをご存じでしょうが。

「大原麗子が高倉健に未練たっぷり」という解釈は「正しい」わけではありませんが「おもしろい」と思いました。「正しい」解釈はこの世に存在しません。女ってさあ、好きな男の気を引くためにわざと別の男と親しくしているところを見せつけるような性悪な部分がありますよね。しかし、これも「正しい」法則ではなく、これを勘違いしてしまうと彼氏がいる女にストーカーをする羽目に陥ってしまいます。

白鳥靖代の娘は前半にもいちおう出て来ていますから、伏線としてはうまくいっているのではないでしょうか? 山田太一ドラマは、人と人がいきなり逢うことで劇的状況を巧みにつくりだします。人生に劇的なことはないかなあ。めちゃくちゃになってもいいから劇的なドラマチックなことを求めてしまう。こちらにはそういう安定が嫌いな、世間的には下劣とされる潜在的願望がございます。おそらく、小谷野さんと根底で通じているものでしょう。








 

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