「河合隼雄全対話9 母性社会日本を生きる」

「河合隼雄全対話9 母性社会日本を生きる」(河合隼雄/第三文明社)

→「存在そのもの」というのは、いいも悪いもないわけである。
人(自分、他人)や物は「存在そのもの」としては、いいも悪いもない。
「存在そのもの」にわれわれは勝手にプラスやマイナスのレッテルを張るわけである。
宝石なんかわたしにとっては缶ビール1本の価値もない石ころ(マイナス)だが、
人によっては億の金を支払ってまで手に入れたいもの(プラス)になる。
本当のところ「存在そのもの」としての宝石はプラスの意味もマイナスの意味もない。
われわれは人に対して「いい人」「悪い人」というレッテルを張る。
しかし、わたしにとって「悪い人」がべつの人には「いい人」であることも少なくないだろう。
犯罪者だってその家族には愛すべき「いい人」かもしれないのである。
他人のみならず、これは自分にも当てはまる。
われわれは自分のことを「ダメ」「まじめ」「暗い」「世渡り下手」などとレッテルを張る。
けれども、他人の目にはそうは映っていないかもしれないわけだ。
繰り返しになるが、「存在そのもの」としては自分も他人もプラスともマイナスとも言いがたい。
言い換えたら、「存在そのもの」はプラスでもマイナスでもない。
さらに換言すれば、「存在そのもの」はプラスでもマイナスでもある。
ならば、「存在そのもの」はいかなるものか。
「存在そのもの」はわからないものなのである。
われわれにはわからないのが「存在そのもの」だ。
わからないがためにプラスともマイナスとも言いうるのが「存在そのもの」であろう。
自分も他人もじつのところは、なにがなんだかまったくわからない存在である。
たとえば、われわれは自他を安易にポジティブ、ネガティブなどとラベリングするが、
本当のところはなにも見えていない。暗い人が明るかったりするのである。
いつも明るくふるまっている人が実際は匿名ブログに愚痴ばかり書いているかもしれない。

しつこいのはわかっているが繰り返すと、
「存在そのもの」はまるでなにがなんだがわからず、われわれの目には見通せない。
だとしたら、われわれには一見するとプラスに思えるものもマイナスかもしれない。
舌打ちしたくなるようなマイナスの事件も見ようによってはプラスかもしれない。
「存在そのもの」がコインの裏表のように
プラスとマイナスをあわせもっていると考えたらどうだろう?
プラスを集めれば集めるほど、見えない世界ではマイナスを集積させていることになる。
反対にマイナスだらけの状況というのは、
裏側から見たらプラスに満ちあふれていることにならないか。
だからかどうか、河合隼雄はこんなぶっ飛んだことを言う。
河合隼雄は嘘つきを自称しているが、
こんな発言を真に受けたら人生が破滅してしまうのではないか。

「人間のことを考える場合に、ぼくなんかとくに思うんですけど、
なんかプラスばかり追求する人って大体ろくなことがないでしょう、
(笑)芸術家にしろなんにしろね。
ためになるとか、まじめなやつは大体だめですよね。
なんかマイナスの方向に、極めていく人のほうが、ものすごい反転というかな……」(P17)


かといって、どちらの道がマイナスかもわからないのである。
河合のアジテーションを真に受けてマイナスを極めたいなどと獣道を分け入ったら、
あんがいそちらはプラスに通じているのかもしれないわけだから。
重要なのは、ふたつの道があったときに、
どちらがプラスかマイナスかはわからないということである。
Aの道とBの道のどちらがプラスでどちらがマイナスなのか。
可能ならばあれ(A)もこれ(B)も試してみたいが、それはできない相談である。
だが、プラスマイナスがわからない以上、あれ(A)もこれ(B)もとなってしまう。

「ただ、あれもこれもではなんにも言えなくなるし、動かなくなるし、変わらなくなるし。
だから、あれかこれかと言わざるをえない人間が、
あれもこれも状況のなかでどれだけ息が続くかというところで勝負があるみたいですね」(P46)


あなたの嫌いな上司が善人なのか悪人なのかはわからない。
会社に残ったほうがいいのか退職したほうがいいのかはわからない。
安易にだれかの助言にしたがわず、自分のわからないという感覚をたいせつにする。
河合は「たましい」というわけのわからないものを晩年に強調していたが、
「たましい」から見たらなにがいいことか悪いことかはわからない。
そもそも河合自身も「たましい」がなんなのかわからないと述懐している。
「たましい(ソールメーキング)」とは――。

「自分でもわけのわからないことをよく言ってるわけで、もっと開き直って言うと、
自分でもわけのわからないことを大切にしようとしているというのが、
一番いい形だと思っているんです。男でも女でも、
いいか悪いかを割り切ったとたんに、失うものが必ずあるでしょう。
下手すると、いいことと悪いことと分けて、
いいことを頑張ってくればいい人になる、とみんな思ってたわけですよね。
それをもうやめたらいいんじゃないか、ということですね」(P123)


自分でもわけがわからないものをたいせつにしよう!
本書は対話集だが大学者の河合隼雄とテレビライターの山田太一の意見交換がある。
ここがおもしろかった。いきなり話がものすごく飛躍しているのである。
おそらくこういう大きな飛躍が本来対話の魅力になるのだろう。
テレビライターの山田太一は、自分でもわけのわからないものを重んじて創作しているという。
それを引き継いで、河合隼雄はすごいことを言っている。
山田太一の創作作法は――。

「山田――頭の中で強引に作る時もあるわけですが、
そういう時はなかなかうまくいかないですね。
自分でも非常にうまくいったと思う時は、肩の力も抜けていて、
まるで自分の力じゃなかったような気がする。それは不思議なものですね。
河合――その微妙な一瞬というのが、ふれあいの妙味なんですね。
そういうのが人と人との関係の中に生まれたとしたら、
これはほんとに感謝すべきことだし、文字通り「有り難い」ことで、めったに起こりません。
野球の打率でも三割というのはものすごいのだから、
ぼくら十人の人に会うて三人の役に立てば、もって瞑すべしですわ」(P149)


創作のみならず人間関係もまたあたまのなかであれこれ考えるよりも、
肩の力を抜いて自分の力ではないものに任せていたほうがいい。
そういうときに人間関係における真のふれあいのようなものが生じるが、
しかしけれども、そのような人と人の奇跡はめったに起こるものではない。
そしてそして、河合隼雄は気がゆるんだのかぽろりと本音をもらしているのである。
カウンセラーのボス猿たる河合隼雄の心理療法でさえ効果があるのは3割程度である。
なぜなら、河合隼雄自身がこう言っているからだ。
「ぼくら十人の人に会うて三人の役に立てば、もって瞑すべし[満足]ですわ」――。
世のカウンセラーのみなさんはこれを知ったら安堵するのではないか。
ユング研究所仕込みの河合隼雄の心理療法でさえ3割にしか効果がないのである。
クライエント半分くらいに効果があれば彼(女)はたいそう立派なカウンセラーだろう。
しかしまあ、3割かあ。3割とはねえ。ふふふ、3割かよ。
とはいえ考えてみたら、たとえ3割でもありがたいことなのだろう。
自分でもわけがわからないものをたいせつにしていたら3割の奇跡が起こるかもしれない。
すぐに物事のプラスマイナスを判断せずにわからないという感覚を保持していよう。
プラスやマイナスのレッテルを張って安心するのもときにはいいが、
本当はマイナスはプラスでプラスはマイナスかもしれないというおそれを抱こう。
世界は、人間は、他者は、それどころか自分も、
本当はなにもかもいっさいまるでわかっていないのかもしれない。

本書に司馬遼太郎との対話が収録されているが、
司馬が踊り念仏の一遍を絶賛していたので驚いた。
「いま強いて古い日本にモデルを求めようとするなら、
一遍しかいないかもしれません」とまで言っている。
瀬戸内寂聴さんだけではなく司馬遼太郎も一遍のファンだったのか。
みなさまにはどうでもいいことだが、
わたしもむかしの坊さんのなかでは一遍がいちばん好きなので嬉しくなった。

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