「働くということ」

「働くということ 実社会との出会い」(黒井千次/講談社現代新書)

→調べてみたら黒井千次ってまだ死んでいなかったのかあ。じゃあ、セーブしないとね。
本書は1982年刊のふっるくさ~い労働礼賛本である。
人は仕事(労働)を通してしか自己実現にいたらないとか大真面目に書いてある。
ほとんどの人にとって労働はやらなければならないことだから、
だったらその労働を神聖行為にまで持ち上げようという多数派の意向は理解できなくもない。
いやいや仕事をするよりも、
これは価値があるものだとおのれをだましながら労働したほうが精神衛生にもよかろう。
しっかしさ、著者のように盲目的に労働を礼賛するのはなにかに洗脳されているようで怖い。
身もふたもないことを言えば、働く意味なんて相対的に休日の価値が高まるくらいでしょう?
毎日働いているから休日のありがたみがわかる程度。
でもね、知り合いに15年近く働かず遊び続けているふざけたやつがいるけれど、
その人に聞いたらまったく退屈しないし楽しいってさ。
まあ、そういう人は天才レベルなわけで、われわれは労働をしなければならない。
けれども、労働が自己実現にいたる道だとか説教されると、え? と思っちゃう。
そもそもなぜ自己実現しなくちゃいけないのかも、
さらに自己実現とはなにかも本書には書かれていない。
労働を通して人は成長するというのなら、労働者はみんな人格者かっていうと違うよね?

本書は仕事(労働)の教科書のようなものだと思う。
みんなこういうふうに自己洗脳していやな仕事でもいやな顔をせずにやっているという。
バカにしたようなことを書いてきたが、本書にも一理あることはたしかなのである。
よくもまあ、こんなきれいごとをきれいに書けるものだとからかいたくもなるが、
著者の黒井千次は東京大学を卒業して一流企業に就職。
退職後は専業作家になり、その後も文壇の出世コースを順調に歩んだ名士だ。
きれいごとで生きていけるような人生に恵まれたいわば果報者である。
考えてみれば、なかなかきれいごとをきれいには言えないものではないか。
ついつい人生で挫折ばかりのわれわれは本音をのぞかせてしまう。
その点、本書のきれいごとは
東大卒の元一流会社員という経歴を持つ著者にしか書けない意味深さがあると思う。
忙しいみなさんはこんなむかしの本を読む暇はないはず。
代わりにわたくしめが本書を要約すると、労働の意義はふたつあるということになる。
1.仕事(労働)を遊びと考えたら、そこに自己実現にいたる道がある。
2.仕事(労働)は人と人を結びつける。

仕事を遊びと考えようっていうのは、よく知らんがビジネス本に書いてありそうじゃん。
たしかによく仕事のできる人は遊ぶように仕事をしているとも言える。
単純作業になるとゲーム感覚で遊んで、いや働いているとでも言おうか。
みなさまはテトリスというゲームをご存じですか?
あのテトリスこそ労働と遊びの境い目をなくしてしまう魔のゲームだと思う。
このまえバイト先の同僚と雑談しているとき、いましている単純作業はテトリスだと気づいた
いろいろな形の本をひたすら箱に詰め込んでいく作業である。
これってまさしくテトリスにほかならないのである。
とはいえ、さすがにテトリスからは自己実現にはいたらないと思う。
著者が15年勤務したという一流企業(富士重工業)の労働ならば、
もしかしたら自己実現への道筋ともなり、いまの黒井千次氏の得ているような地位
(毎日芸術賞、伊藤整文学賞選考委員、文化放送番組審議会委員長)
に到達することになるのかもしれないけれども、
それは当方は経験していないからわからない。
底辺労働を一度もしたことがない元一流会社員で、
現在は権力の最高峰にいる黒井千次氏は「労働=遊び(→自己実現)」を説く。
これを労働者がみなが信じてくれたら日本社会上層部にいらっしゃる方に都合がいいのだろう。
労働者がいやな顔をせずにせっせと働いてくれないと経営者は儲からない。
労働者が少ない稼ぎのなかから税金を払ってくれないと政治家は甘い汁を吸えない。
黒井千次は言う。労働者諸君、労働を遊びと思いたまえ。

「「労働」と「遊び」を互いに背反するものと考えるのではなく、
むしろ相互補完的な人間の営みとして受けとめようとする姿勢こそが重要なのだ
「労働」の中には「遊び」がひそんでおり、「遊び」の底には
自己実現を核とする「労働」が沈んでいる事実が忘れられてはならないのである。
「労働」が疎ましく「遊び」は好ましい、という単純な感覚論をもってしては、
「労働」そのものはおろか、「遊び」の本質さえ掴みそこなうことになるだろう。
つまり、「労働」のあり方が正確におさえられていなければ、
「遊び」のありようも探れぬわけである」(P145)


わたしの言葉に言い換えたら、みんな労働も遊びも本当にしているかい?
ってことになるのだと思う。
もしやわれわれは月曜日から金曜日までひたすら(労働でなく)我慢をして、
土日に(遊びではなく)消費をしているだけではないのか?
本当の労働も本当の遊びも味わっていないのではないか?
おっと、少し「労働教」に洗脳されてしまったかもしれない。
上記のような論理の先にあるのがワタミの「24時間死ぬまで働け」である(笑)。

著者のもうひとつの主張は、労働は人と人を連帯させるということだ。
それぞれ孤独な人間は労働を通してわずかながらでも人と触れ合えるのではないか。
幼稚な言い方をすれば、みんなでひとつのことをするのは楽しいってことだと思う。
人と協力して働くことで他者のありがたみに触れることができるとでも言おうか。
わかりやすく言えば、労働を通して、もし働いていなかったら
絶対に縁がなかった人と多少なりとも交渉を持てるということになるだろう。
いろんな人とわずかなものにしろ感情の交流を持てるのが労働のよろしさだ。
以下の著者の説明はわかりやすい。

「たとえば、ある部署のメンバーが共同して一つの業務に取り組む時、
各自の机に向って別々の仕事をしていた折には見られない特殊な雰囲気が
あたりに生まれてくるのは間々経験することである。
他の職場の者が次々と退社して周囲が暗くなり、
そこだけ明りの灯されている職場で残業を続けていると、
平素はあまり関心を持っていなかった同僚が急に親しいものに感じられたり、
いつもはむしろ悪意をもって対していた職場の人間が
昼の間は見せなかった思いがけない顔をちらりとのぞかせたりする。
それは昼休みや帰り道に、
気の合った者同士が行きつけの店に腰を下して上役の悪口を言い合う際の、
ほっと気が楽になるような親しみとは別種の感情なのである。
腹が減り、疲れていても、そんな時にふと感じられる温かさは容易に忘れられない。
もしも一つの共同の仕事をしているのでなければ感じることのなかった親しみが
そこに生み出されるのだとしたら、仕事そのものが
自然の内に人と人を結びつけているのに他なるまい」(P171)


そうかといってプライベートでのつきあいが生まれるかといったら、
大半はそういうふうにはならないのだが(仕事だけの関係)、
しかし労働中の労働者同士の触れ合いは、
彼(女)にとって存外賃金以上の意味を持っているのかもしれない。
著者はきっとそう思っているのだろうし、
そこだけは東大卒や一流会社員が(嫉妬から)嫌いなわたしも同意したい。
さあ、月曜日! いまから労働だ! 遅刻しちゃうぜ!

COMMENT

小谷野敦 URL @
09/29 21:58
. 最高裁判事の息子ってとこがミソでは?
Yonda? URL @
09/30 07:10
小谷野敦さんへ. 

「目ぼしい訃報」予備軍の存在にはわたしも小谷野さんとおなじように胸を躍らせているところがあります。早く(以下自主規制)。








 

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