「新しい教育と文化の探求」

「新しい教育と文化の探求 カウンセラーの提言」(河合隼雄/創元社)

→遅咲きの大学者であられる河合隼雄さんの極めて初期のエッセイ集を読む。
もしかしたら初期の著作ゆえうっかり事例報告を書いているのではないかという、
どこかよこしまで下世話な盗み見根性たっぷりの読書であった。

心理療法家の河合隼雄は人生指南をする人ではない。
こう生きたほうがいい、あれはしないほうがいいという意見をなるべく出さない人だった。
どんな生き方でもその人にあったものであればいいという懐の広い人であったと思う。
とはいえ、河合隼雄はそれでもホンモノの生き方はあると思っていたようだ。
借り物の人生ではなくホンモノの人生を生きろと扇動しているようなところがある。
では、どういう生き方が河合隼雄のいうホンモノになるのか。
それは自分のなかから出てきたものをたいせつにする生き方だと思う。
河合はユング学者であるから、このときの「自分」には意識も無意識も含まれている。
たいがい意識というものは借り物の考え(俗世間的価値観)に支配されやすい。
大半の意識はみなの共有する世間ルール、すなわち常識に支配されている。
たとえば10万円は100万円よりも少額である。たとえば1時間は3時間よりも短い。
しかし、実際そうではないわけでしょう?
なにかを夢中になってしていたときの3時間は、人に待たされた1時間よりも短い。
底辺労働者が稼いだ10万円は、億万長者が道で拾った100万円よりも高額だ。

これには主体的かどうかが大きく関係していると時間を例にとって河合は説明する。
待つのがなぜ異常に長く感じられるかというと受動的だからである。
たしかにわがつたなき経験を思い返しても、主体的か受動的かで時間の流れは大きく変わる。
単純労働のバイトでも受動的(やらされている!)と思うと時間がなかなか経たない。
反対に時給換算の単純労働のなかにあるおもしろみを見出し、
主体的に(自分から!)動くと時間経過が早い。
自分からやるという主体性がどれほど重要か!
マネージャー(労働管理者)は低賃金パートにガミガミ言ったらかえって逆効果になるのだろう。
しかし、仕事はそういうものだからあれこれ口出ししたくなるのは仕方がないのだろう。
教育の場合はどうだろう。
たとえば幼稚園で集団の輪のなかに入れない子どもがいたとする。
このとき安易に「○○ちゃん、みんなと仲良くしましょうね」と指導するのはどうなのか。
その子のことをじっと見守っているとあるとき子どもが自分から主体的に動き出すという。
みんながやっているブランコにその子が恐るおそるはじめて手を触れてみた「とき」。
友達の玩具をひったくったという「とき」は傍目には悪に見えるが本当にそうなのか。
「先生、こんなところに虫がいるよ」とその子が近寄ってきた「とき」の厚みはいかほどか。
たとえ仲間の輪には入れなくても珍しい石を発見して喜んでいる子どもの「とき」の輝き。
意識的にか無意識的にかはわからないにしろ、
ある人間が自分から主体的になにかしたいと動き出す「とき」の重みを河合は語る。
以下は教師と子どもの例で説明されているが、
おそらくカウンセラーとクライエントの関係の理想もそうだと河合は思っていた。
友人関係の理想も河合は書いていないが、あるいはそうかもしれない。
これを職場における上司と部下の理想とまでいったらきれいごとが過ぎるだろうけれど。

「子どもたちのこのような主体的な「とき」の体験を多くするためには、
私たち大人は、できるだけ不要な干渉をせずに、「とき」の熟するのを待たねばならない。
気の弱い子が自らブランコに手を触れるまでには、それ相応の時日を必要とする。
「待つ」ということはつらいことだとさきにのべた。
しかしこの場合、私たちは「待つ」ことの意味を知り、主体的に待つことができるのだ。
その間に無為に時が流れ、私たちは受動的に待っているのではない。
何もないように見えながら、その裏で時が熟していくのを私たちは知っているのである。
よき教師は、退屈せずに主体的に「待つ」ことを知っている。
そして、その「とき」がきたとき、私たちはそれを子どもたちと共有し、
意味を確かめ、経験をともにすることができる。
このとき感じられる「存在感」は、何時何分にどこにいたというような意味での存在を、
はるかに越えたものとなっているはずである」(P67)


「自分のなかから出てきたもの」をたいせつにする――。
相手の「自分のなかから出てきたもの」を重んじるのがホンモノの教師である。
ならば、相手ではなく自分のケースでも
「自分のなかから出てきたもの」にもっと目を向けたほうがいいのだろう。
意識からではなく、いうなれば無意識と呼ぶしかないようなものから、
ある「とき」にどうしてかわからないけれど出てきた気持をたいせつにする。
ここからは学のない、かといって大した人生体験も持たぬわたしの言葉で説明したい。
われわれはどうしてかわからないけれども「それ」をしてしまうことがある。
あるタイミングでふっと思いもしなかったことを言ってしまったりする。
人間は自分でも信じられないような意外な(意識外の)言動をするものである。
考えてみると、意識した言動よりも「それ」ら無意識的行動のほうがおもしろいのではないか。
俗っぽい話をしよう。あなたが男だと仮定して、どうしてか気になる女の子がいる。
このときどう話しかけようかなんて策を弄してはいけないのかもしれない。
いや、いろいろ作戦を練るのが人間だから、それはそれでいいのだろう。
だが、ほとんど絶対まあ思ったようにはいかないのではないかと思われる。
このようなときに無意識にまかせてしまうという手もあると思うのである。
どうせ知り合う人とは知り合うし、縁のない人とはどうあっても知り合えない。
そのように達観して生きていると、
ある「とき」ふっと思いがけないことをその女の子にいってしまうことがある。
そういう「とき」こそおもしろいのだと思う。
自分でも予期せぬことを意外な「とき」にほかならぬ自分自身がやってしまう。
この「自力」と「他力」が合致したような「とき」を主体的に待つのもまたおもしろい。
現実を自分の思うように変えたいというコントロールの手綱を離してしまうのである。
自分が意識せずにやってしまう「それ」をとにかく注意する。
「それ」を出さないように注意するのではなく、出てきたときに「それ」を大事にする。
「それ」は借り物に縛られた意識から生じたものではなく、
自分のなかから出てきたホンモノだからかなりうまくいくのではないかと思う。
正しくはそう河合隼雄が思っていたになるが、わたしも最近はそうではないかと思う。
これは親鸞のいう「はからわない(放っておく)」に極めて近い姿勢になるのだろうか、
より正確を期すならば「あるべきようわ(明恵の言葉)」を考えながら、
「それ」が自分のなかから出てくる「とき」を主体的に待つということになるのだろう。

本書に河合隼雄の臨床体験と思しきものが紹介されている。
クライエントは50歳近い会社の経営者。
することなすことなにもかもうまくいき、いまはお金にも不自由していないし、
家族にも恵まれている。
ところが、傍目からはたいそう幸福そうな本人が癌(がん)恐怖症になってしまった。
癌恐怖症とは、自分は癌ではないかとパニックになってなにもできなくなるノイローゼ。
果たして彼はどのように治っていったか。
めったに目にすることがない河合隼雄の臨床事例報告のひとつである。

「話を癌恐怖症の人にもどそう。
この人は心理療法を受けている期間中に思いがけない体験をする。
自家用車を自ら運転しているときに、誤って事故を起こしてしまったのだ。
運転には自信をもっていた人なので、これはまったく信じられないミスであったが、
この不慮の事故によって、彼が本当に恐れていたものが癌ではなく、
死そのものであることを悟るのである。
このような不思議な体験を心理療法を受けている間にする人は多いが、
必ずしも実際経験とはかぎらず、夢の中で「死の体験」をして驚く人もある」(P99)


どうして彼がその「とき」に「それ(交通事故)」を起こしたのかはわからない。
一般的な常識ではたまたま注意ミスだったんじゃないの程度で片づけられてしまう。
しかし、クライエントにとってはとても意味深い体験であり「とき」であった。
河合隼雄もその「とき」の「それ」の一回性の重み厚さをよく知っていたから、
クライエントの深い感情にかなり寄り添うことができたのではないかと思われる。
なにが原因でなにが結果という話ではなく(因果論ではなく)、
この「とき(共時性)」の「それ(無意識)」の奇跡的な働きによって
クライエントは立ち直るきっかけを見出すことができた。
かたわらにこの「とき(共時性)」の「それ(無意識)」の重要性に気づく人がいて、
まさにこのタイミングで「そうだ!」とクライエントに深く共感できたのがよかった。
交通事故といえば一般常識ではマイナスの事件である。
しかし、河合隼雄はこの「とき」の「それ」をマイナスとばかりは見ていなかった。
なぜそういう見方ができるのかといえば、全体のアレンジメントを考えていたからだろう。
どうしたら全体のアレンジメントを少しでも視野に入れることができるか。
河合隼雄によると、「アレンジメントをしたのはだれか」と自問することだという。
もしかしたら「それらは、名人のアレンジした庭園のように、
一木一草にいたるまで意味をもって存在している」のではないか。
心の病や交通事故、家族不和といったマイナスは本当にマイナスなのか。

「ここで、われわれは排除するのではなく、それを受け容れることを学ばねばならない。
すべて、あること、生じていることを、全体として受けとること。それによってこそ、
われわれはそこに巧妙なアレンジメントが存在していることに気づかされるのである。
このような立場をとると、今まで見えなかったものが見えはじめ、
不幸と思い、不合理と感じる事象が、
全体としてアレンジメントをなしていることがわかるのである。(中略)
人間であるかぎり、すべてのことがアレンジメントとして理解されるはずもない。
われわれはいくら考えても不可解な事象に包まれている。
その不可解なことに対してさえ、「アレンジしたのはだれか」とあえて問うことが、
すなわち、生きるということでもあろう」(P200)


「アレンジしたのはだれか」という問いは、河合隼雄ファンならとっくにご存じの、
氏が日本の師匠とまでいった明恵の「あるべきようわ」に通じるものであろう。
全体のアレンジメントを考えたら、マイナスはマイナスでないかもしれない――。

本書でいちばん有益な示唆となったのは、
この記事の最初に書いた自分のなかから出てきたものを大事にするという作法だ。
するつもりがなかったのに、ふと身体が動いてしてしまった「それ」はおもしろい。
ふだんわれわれは意識であれこれ考えて判断した結果として行動しているけれども、
「なるようになれ」「なるようにしかならん」「どうにでもなりやがれ」「あとは野となれ山となれ」
と脳(意識)ならぬ身体(主に口だろう)の動くままに動くのもいいのだろう。
借り物(権威)に頼るのではなく、無意識まで含めたうえでの自分をたいせつにする。
以上のような人生作法はわたしが主体的に河合隼雄から盗み取ったものといってもよい。
河合隼雄は「盗む」というマイナス行為にもプラスの面があるという。

「盗みの主体的な意味を明らかに示してくれるのは、
昔の話によくあるような、剣の極意などを盗む話である。
有名な剣の達人に入門するが先生はなかなか教えてくれない。
一生懸命になって努力を続けるがどうしてもわからない。
ところが、ある日先生が一人で稽古しているとき、それを盗み見して極意を悟ってしまう。
すると、先生がちゃんとそれを知っていて祝福してくれるのである。
剣の極意などというものは、教えてください、はい教えましょう
などと言って伝えられるものではない。先生はあくまで隠して教えようとしない。
にもかかわらず、何とかそれを知ろうと、主体的にいろいろな努力と工夫を
重ねたものだけが、それを「盗みとる」ことができるのである。
達人はそのように考えているので、何も教えようとせず、
弟子が盗みとったとき初めて、それを祝福してくれるのである。
話が横道にそれて恐縮だが、最近の教育の現場では、
このような意味での真剣なやりとりがなくなってきたようで寂しいことである。
若者たちは「教えてもらう」ことや「指導してもらう」ことを
要求することに熱心すぎて、極意を盗みとる意欲をもっていないようである。
いちばん大切なものは、簡単に授けたり、もらったりできるものではないはずである」(P211)


しかしまあ、なんでも教えたがるバカが世の中にはうようよいるのである。
てめえがおもしろかっただけの漫画をネット上で顔も知らぬこちらに対して、
信じられないことに感謝のしるしだといって読めと強制してくるアホなやつがいる。
自分はシナリオを書いたこともないくせに、
厚顔にも人様にシナリオを教えたがっている恥知らずのババアをひとり知っている。
本当のことをいったら、この人に大声で怒鳴られたことはいまでも忘れられない。
どうしてある種の人たちは、自分が人の役に立てると傲岸不遜にも思えるのだろう?
そもそもどうして人の役に立ちたいなんて思うのか。
いや、河合青年が臨床心理学を学んだ動機は、人の役に立ちたかったから、なのである。
人の役に立ちたくて臨床心理学を学んだ河合隼雄は、結局なにがわかったのか。

「余計なことをしたために強い依頼心をおこさせたり、
その人の自ら立ち上がる力を阻害してしまったりすることが多い。
それに、いったい何をすることが、その人の役に立つかなどということは、
本当のところめったにわからないのである。
そのときによいと思ってしたことが後で悪い結果につながることも多い。
一個の人間の成長に役立つ最良の方法など私にわかるはずがないという確信と、
この人は自分でそれを必ず見いだすだろうという確信に支えられ、
われわれは苦しむ人を前にして無為にいる強さをもつことができる」(P194)


COMMENT

Dスタ福井駅前 URL @
09/12 17:35
. 何でも教えたがるバカで悪かったですね。
直接言わずにこんなところに書くくらいなら、コメントいただければ嬉しいとか書かないでください。
心の歪んだ可哀相な人^_^
Mac URL @
09/13 23:11
. The cure is worse than the disease
ちゅうこっちゃな。
URL @
09/14 11:49
コメント?. あなたはどんなコメントを期待してコメント欄を開けているのだろう。
Yonda? URL @
09/16 12:16
犬さんへ. 

なにも期待してませんね。
むかしはかわいい女の子と知り合えないかなとかありましたが。








 

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