「哲学実技のすすめ」

「哲学実技のすすめ」(中島義道/角川oneテーマ21)

→中島にとって哲学とは自分の「からだ」で「ほんとうのこと」を考えることだという。
いちおうこの定義が「正しい」ものとされるのは、
中島がドイツで博士号を取ったカント研究者だからだろう。
どうしてカントを研究している人が偉く「正しい」のかというと、
どうやらカントという人は西洋の世界では賢人や偉人として崇拝されているようなのである。
このため西洋哲学者らしいカントとやらの威光を借りて中島は島国で威張れるわけだ。
中島義道はカントの言うことだからと、あまり自分の「からだ」で考えることなく、
しつこいが西洋のカントに盲目的にしたがい「ほんとうのこと」を述べようとする。

たとえば、中島義道がよく例に出す話をすると――。
敵に追われた友人が自分の家にかくまってほしいとやってくる。
追手がやってきてその友人はいないかと尋ねられる。
西洋哲学者のカントは、
このときでさえ「ほんとうのこと」を言うのが「正しい」と思っているようである。
「いるのか/いないのか」の二分法の世界である。
どちらか「正しい」「ほんとうのこと」を答えるのが西洋のカントの流儀らしい。
日本には「嘘も方便」という法華経の教えがあるが、
西洋人はだいぶ窮屈な世界にお住まいのようで同情する。

わたしはこのとき「ほんとうのこと」を言わないのがこの場における「正しい」答えだと思う。
いきなりぶち切れたふりをして狂人のように金属バットを振り回してもいいだろう。
白痴(ちてきしょうがいしゃ)のふりをして追い返すのもまたいいのではないか。
「正しい」答えはこのときこの場に限定するなら人の数だけあるような気がする。
自分の「からだ」でギリギリまで「ほんとうのこと」を考えるのはたいせつだと思う。
しかし、その「ほんとうのこと」をどれだけ言わないでいられるかに
懐の深さや器の大きさのようなものが現れるのではないだろうか。
「ほんとうのこと」を言ったらおしまいになってしまうようなところが日本社会にはある。
カントの権威をたっぷり借りてベストセラー作家になった成功者の中島は、
自分だけは「ほんとうのこと」から逃げていないと英雄気取りで持論を展開する。
日本では「ほんとうのこと」を言うのは子どものすることとされている。
よしみっちゃん(中島の少年時代の愛称)のかん高い叫び声を聞け。
自分は世にも珍しい成功者になったが「ほんとうのこと」を言おう。

「ほんとうに世の中の人々は成功者が好きであり、
敗残者は嫌い、平凡な者も嫌いである。
それに対する疑いはほとんどない。
だからこそ、ぼくはここにいつまでもこだわりたいのだ。
みな無視する振りをしているが、ここには恐ろしく深い淵(ふち)が開かれていて、
人間の不平等が露出している。
前時代の身分による差別が能力による差別に変わっただけなのだから。
誰でも知っているように、
各人の能力は平等ではなく、各人の運命も平等ではないのだから」(P192)


さらに中島義道少年はたたみかける。王さまは裸だ。
みずから衣服を脱いで全裸になって小さなイチモツを見せびらかすことで、
成功者もまた王さまのごとくに裸であると叫んでしまうのである。
おれのものを見よ。見たらわかるだろう。こんなにちっぽけなんだぞ。
これがぼくの「からだ」である。

「これこそ、ぼくの「からだ」の言葉であって、なかなか伝えるのが難しいんだが、
次のようなことかなあ。
トコトン考えると、すべての社会的成功は偶然なんだ。
トコトン考えないから、その人の才覚とか努力とか言いたくなるが、それさえ
その人に具わった資質として偶然その人に与えられているのかもしれないじゃないか。
だから、よくよく考えると、成功者が称賛される理由はないし、
さらに副産物として金や地位を手に入れる理由はないんだよ」(P191)


おい、よしみっちゃん、早くパンツを履けよ。
いったいどうして男の子はすぐに素っ裸になりたがるのだろう。
言いたいことはわかったから、早く服を着なさい。さもないと風邪を引いてしまうよ。
西洋かぶれなのは好き嫌いは人それぞれゆえ構わないけれど、
わざわざ日本の往来でストリーキングをして貧相な「からだ」をさらすことはないではないか。
「見苦しいものをお見せして」という恥の感覚は中島義道にはないのだろうか。
中島のムスコがそんなに巨根なのか、少年時代はいっしょに風呂に入ったであろう、
現在博報堂勤務で成功した優秀なビジネスマンでもあるご子息にぜひうかがってみたい。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3775-b5c2dceb