「非社会的社交性」

「非社会的社交性 大人になるということ」(中島義道/講談社現代新書)

→自分がいま疑問に思っていることを中島義道哲学博士はじつにうまく言葉にしてくださる。
とはいえ、これを一般人に理解してもらうのはとても難しいと思う。
「そんなわけないだろう」と10歳年下の会社員にも叱られてしまいそうな考えである。
親しい人に必死で説明したことがあるけれど、あまりに子どもな考えなので、
内心笑われていたのかもしれない。
反応は、そりゃあそうかもしれないけれど、世の中それじゃやっていけないよ。
どうせほとんどの人にはわかってもらえないと思いながら、
中島博士やわたしが「ああん?」とつまづいてしまうところを簡潔に紹介したい。

(1)わからないという希望

中島義道は「本当のこと」と称して(本当のことは本当はないかもしれないのに!)
ネガティブなことをさも真理のように装ってウブな青年たちにまき散らしたのである。
そこまで多くはないとは思うが、まっとうな道を踏み外した若者もいたのではないか。
さすがに義道じいさんも、あひゃ、やりすぎたかな、と思ったのか、
本書では冒頭に若者に向けて希望に満ちたメッセージを送っている。
内容は「わからない」は大きな希望であること、である。
われわれはすぐにある人をこういう人(意地悪、温和等々)だと決めつける。
あの人は「○○」だから~~のようなことをする、と。
自分に対してもそうで僕私は「○○」だから「~~(ネガティブなこと)」なのだ、と。
だが、と中島義道がポジティブなことをいきなり言い始めるのでうろたえた。
引用文中の[カッコ]は当方のお節介な意味補充。

「だが、じつは一人の人間がなぜあるときある行為を実現するのか、
そのメカニズムは、まったくわからないのだ。
ある行為[成功・犯罪・失敗]の「原因」はほぼ無限大であり追跡不可能であるのに、
われわれは行為の「あとで」その一握りの要因を「動機」として選び出し、
「それらが行為を動かした」というお話をでっち上げているだけなのである。
動機ばかりではない。
じつは世の中で解決済みとされている因果律、意志、善悪、自由、存在など、
いったいこれらの概念が何を意味するのか、いまだに全然わかっていない。
[西洋]哲学をしてよかったことは、
世の中のほぼすべての事柄が厳密に考えれば何もわからないのだ、
ということが身体の底からわかったことである」(P4)


だとしたら、なぜあなたがいま貧乏なのか、その原因もまったくわからない。
同様になにゆえ、あなたがいまもてないのかその根本原因もわからない。
いま自分のことをダメだと思っている人は、悪い物語をでっち上げているだけではないか。
たとえば、親が悪い、社会が悪い、自分が悪いから、いまこのようにダメなのだと。
しかし、その原因がまったくもってわかっていないのならば、そこに希望はないか。
もしかしたら、絶望を見るのは(希望を見るのと同程度に)
(世の中のことはすべてわからないという)実相をわかっていないのではないか。
若いあなたは(年寄りでもいい)絶望しているかもしれない。

「だが、何が一人の人間の行為[成功/失敗]やあり方[幸福/不幸]を決定するかは、
じつのところまったくわからない。
だから、どんな人でもどんな瞬間でも、
「いままで」を完全に断ち切って新しいことを選べるのだ」(P6)


いまわたしたちは過去から自己を規定しているが、
その「過去→現在」のような因果律がないのならば、
たったいまからわれわれは自分を自由に定義することが西洋哲学上はできるということだ。
一見すると難しいが、これはだれでも「人間革命(創価学会)」できるということだ。
ネガティブな人ってけっこう創価学会で反転してちょーポジティブになるような気がする。

(2)過去も未来も存在しない

オリンピックの陸上で金メダルを取ったものは、ドヤ顔で後付けの説明をするだろう。
メダル確実と言われながら期待に応えられなかったものは失敗を分析して反省する。
競技を行ない記録が出てしまったあとは、どんなことをしても記録はくつがえされない。
過去(競技前)と現在(競技後)の関係など「本当のこと」を言えばわからないにもかかわらず、
選手から監督、評論家にスポーツ新聞までが好き勝手なことを言い、
過去と現在の穴を埋めようとする。
津波で死んだものと生き残ったものがいる。
それはきっとたまたまなのに生存者は自分がなぜ生きているかの物語をでっち上げ、
何度も何度も興奮して饒舌に語ることだろう。
すべてはたまたまそうなっただけかもしれないのに、
われわれは物語ることで過去と現在の深い底知れぬ穴を(下を見ないのが大人!)
ひょいと飛び越えた錯覚に陥っている。

「当たり前のことに思われるかもしれないが、しかし、
じつはここには哲学上に大層興味のある問題が潜んでいる。
それは「予測」とか「意志」とか「因果律」という言葉で表されるもの、
すなわち現在と未来をつなぐ「糸」などまったくないのではないか、という疑いである。
「ある」のは現在だけではないか?
過去は宇宙の果てまで探してもどこにも(脳の中にも)ないし、
同じように、未来はどこにも(脳の中にも)僅(わず)かにもないのではないか?
しかし、人間はそれではひどく不安なので、
過去と現在と未来とをつなぐ「一つの糸」という幻想を拵(こしら)えたのではないか?
だが、その幻想が一挙に破れる時がある。
それは、私がある瞬間とっさに「そう」動いてしまった結果、
途方もない違いが生じた時である。
車で人を轢(ひ)いてしまった時、あるいは危機一髪でよけた時、
車に撥(は)ね飛ばされて大怪我をした時、あるいは危機一髪で助かった時、
誰にも(私自身にも)その時なぜ私がそう動いたのかはわからない」(P76)


過去と現在は(たとえば因果律などで)まったく接続していないのかもしれない。
同様、現在が未来につながっているというような考えも幻想なのかもしれない。
あるのはひたすらいまこの現在でしかなく、過去も未来も存在しえないのだとしたら――。
わたしの考えを書くと、「どっちも正しい」になるだろう。
「過去や未来が存在しない」という哲学者の中島義道の発言は「正しい」と思う。
しかし、みんなが連帯して共同で幻想にひたっているという現実がある以上、
「過去や未来が存在する」というのもまた同程度に「正しい」のではないか。
真理が「わからない」のだとしたら「過去や未来が存在しない」可能性はあるが、
絶対的にそうであると断言することはできないと思う。
しかし、「過去や未来が存在しない」と妄想してみるのは楽しいことである。
そういう考え方をすることで生きることが豊かになる人もいるのではないか。
過去や未来が存在しないのだとしたら
(これは中島の卓見ではなく東洋では釈迦が大昔に言っている常識だが)、
過去や未来のことで思い悩むのはバカらしいことになろう。
昨日の天気予報が雨なのにいま晴れているという経験ならみなさまもありませんか?

「すべての自然法則は「これまで」のデータから帰納法によって
「これから」も妥当するという目論見(もくろみ)によって構築されたものである。
しかし、どう考えてもその保証はない。
明日から自然法則がこれまでと異なっても、消滅しても一向に構わないのだ。
というわけで、じつは世界はただ「現にある」だけなのである」(P80)


いまいる親友(恋人)と明日絶交してしまうかもしれないが、
それはそのときにならないとわからないし、原因はなにかもたぶん特定できないだろうし、
いまからそれを防ごうとどれだけ親友(恋人)に親切にしようが、
それが功を奏するかはまったく完全にわからないことである。
おなじように、いまもてない男性が明日に美人女子大生から告白される可能性もありうる。
いま貧困にあえいでいる人がたったの1年後に億万長者になっていない保証もない。
そうかと思えば、明日富士山が爆発してわたしもあなたも死んでしまうかもしれない。
これは個人的な体験も入っているが、いま現にある世界はなんだって起こり得るのである。

(3)自由意志はフィクション

わたしはペーパーなのでやりたくても怖くてできないが、
飲酒運転をしたことのある人ならけっこうおられるのではないか?
あれは変な話で、酒を飲んだら車を運転するなというけれど、
酒を飲んで酩酊したら善悪の判断がもうろうとするから運転してしまうものなのである。
そして、99%の人が飲酒運転をしようが事故なんて起こさないのが
あまり大きな声では言えないが現実というものなのである。
100回飲酒運転したものが無事故であるにもかかわらず、
たった1回の飲酒運転で子どもを殺してしまう不運な人もいるのである。
それから、それから、殺意ならみな何度か抱いたことがあるでしょう?
わたしも気が短いからこいつぶっ殺してやろうかと思ったことはいくらでもある。
どうしてやっていなかったかはわからない。
おなじように殺意を抱いた人がたまたまその機会に恵まれやってしまうことがある。
この差はいったいなんなのであろうか?
そもそも殺人者と被害者のふたりが出逢ったしまったのも単なる偶然なのではないか。
小声でもらすが、わたしは犯罪者を裁く論理が中島博士とおなじでよくわからない。

「ある男が少女を誘拐して殺した時、
われわれは、彼はそう「しない」こともできたはずだと信じている。
これを実証することはできないが、これはあらゆる実証よりも強い信念である。
では、なぜこうした信念を持つのか?
ここですべてを逆転してみなければならない。
つまり、何か災いが起こったら、
われわれはそれを遡(さかのぼ)って「なかった」ことにはできないゆえ、
それに代わる報復として何かに責任を、
すなわち原因を帰して心の平衡を保とうとするのだ。
これは根源的欲望である。(……)
自由意志とは、人間の強迫観念から生まれた壮大なフィクションなのである」(P81)


これはプラスのことでもおなじだよね。
だれかが玉の輿にでも乗ったら、おんなトモダチたちはひそひそ原因を語り合うでしょう。
あの子はいつもぶりっ子しているからとか、家柄がいいのよねえとか。
社会的に成功した人については、本人も周囲もさもわかったような説明をする。
これは自由意志があるという前提に基づいての行為なのである。
もし自由意志がなく、過去も未来も現在と接続していないのならば、
すべてがいまたまたま現にある世界の現象になってしまうわけだ。
ここでまた注意したいが、中島の言う「自由意志はフィクション」は「正しい」と思う。
しかし同時にみんながそう信じている以上、
「自由意志はフィクションではない確固たるもの」という考えも「正しい」のである。
とはいえ、「自由意志がフィクション」だと考えたら、どんなにすっきりすることだろうか。
ならば、そういう反社会的な妄想をこっそりしてもいいのである。

(4)中島義道の弟子たち

なんでも中島博士は有料で私塾を開き、日本人に西洋哲学を教えているらしい。
その若い子たちのエピソードが本書で紹介されていたが、おもしろすぎる。
若い男が中島義道に認められたいとこの私塾に集まってくるとのこと。
中島義道ならば人とは違う「特別な僕」を理解してくれると思うのだろう。
で、そんな中島チルドレンは私塾でなにをやらかすかというと、
中島が著書でさんざん書き散らしてきた自分勝手な行動を真似して行なうのである。
みんな世間を知らないから(本と書き手は別ですぞ!)、
中島の傍若無人な振る舞いを真似たら中島に愛されると誤解しているのだと思われる。
もちろん、大学教授まで出世した妻子ある中島義道が常識人でないわけがない。
哲学者とはそういうものだが、中島義道もまた、いい意味でも悪い意味でも、
こう言っては悪いけれど「口だけの人」なのだと思う。
自分の私塾に集う若者たちの非常識な行動に中島が大人として怒りまくるのである。
そのエピソードがセコセコしくて腹を抱えて笑った。
あれだけ年賀状等の形式的社交を嫌っていた中島義道が大人ぶって怒る、怒る!
なんでもウィーンで音楽会とメシを奢ってやった塾生から礼状が来ないのを
かなり根に持っているようで、ああ、中島義道さんって本当はそういう人なのね、と笑えた。
それから中島義道は寿司屋で酒を飲みながら説教をするジジイなのである。
なんでも塾生に寿司を奢ってやったら、高いものを勝手に注文して自分より早く食う。
中島はこの行為に激怒して、そういうことはしちゃいけないとこんこんと説教したそうだ。
かわいそうな若者である。
中島の著作を真に受けたら、この人はそういうことをしても怒らないと思うのも無理はない。
寿司屋で説教された若者だって、
ほかの先輩にメシを奢ってもらうときはさすがにそんな無礼は働かないだろう。
中島の真似をして中島から気に入られたいと思うがために、
まったく正反対に中島の逆鱗に触れる塾生たち――。
中島義道さんとその周辺はおもしろすぎるぜ! 塾生たち、もっとやれ、もっとだ!

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3772-44c6ef72