「仏教と夢」

「仏教と夢」(河合隼雄/著作集9「仏教と夢」/岩波書店)

→カウンセラーの大ボスである河合隼雄さんは、明恵を通じて華厳の教えに触れて
どうやらものすごい高みまで行ってしまったようなのである。
カウンセリングの仕事は、クライエント(有料相談者)の悩みを聞くことである。
で、カウンセラーとクライエント、ふたりで悩みの解決に向けて「同行二人」のようなことをする。
一定程度の時間を経て、クライエントが自立していけるようになったらカウンセリングの終了だ。
「明恵 夢を生きる」を書いて以降(書きながら)、
河合はクライエントの悩みをどのように聞くようになったか。
けっこうすごいことを言っているのである。
華厳のいうように世界が「事事無碍(じじむげ)」で、
あらゆるものが理の「挙体性起」だとしたら――。

「クライエントの述べるひとつひとつのことは、極めて「深い三昧のうちにある」
と思うと共に、それらのことはすべてあまり大したことでもないのである」(ⅶ)


すべてが世界を荘厳するための毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の意図ならば、
その悩みも無意味に生じているのではなく、
世界全体との関係を深く見るならば、
どこかでうまくアレンジメントされているともとらえることができるのだろう。

河合隼雄は本書で華厳哲学の説明をしたあとで、
やらないと宣言している事例報告をひとつしている。
もちろん、内容の細部は変えてあるのだろう。
息子の非行に困って写経にはまった母親の話だが、
直観でこれのオリジナルは創価学会ではないかと思う。
そうだとして河合隼雄の事例報告を紹介すると――。
母親は息子の非行をなんとかしようといろいろ努力したがどうにもならなかったという。
そこで創価学会に入信した。
母親は仲間と勤行(学会活動)しているうちに生きがいを見出してしまい、
機関紙(誌)にも文章を投稿するようになる。
彼女の文章を読んだ多くの学会員は信心を鼓舞されたことだろう。
しかし、息子の非行はさっぱり止むことがなかった。

この親子を見ていて河合隼雄は多くのことを考えさせられたという。
この母親にとっては子どもが帰ってきたときに、「おかえり」と温かい言葉をかけ、
暖かい食物を用意し、黙ってそこに坐っているよりも、
宗教の修行をして、活動内容を機関紙(誌)に投稿するほうがはるかに容易である。
河合はうっかり「正しい」ことを言いそうになる。
「学会活動をするのと食事をつくるのと、どちらが宗教的ですか」
そう説教のひとつもしたくなったが、
そんな「正しい」説教をしたがっている自分が既に偽宗教家に陥っていることに気づく。
下手な説教などするより自分が「黙ってそこに坐っている」ことのほうが、よほどいいだろう。

「人にはそれぞれ道があって、簡単に善し悪しは断定できない。
この母親は一応、既成の宗派に属し、
彼女が日常生活と考えることを軽視する方法によって、宗教性を追求しようとし、
息子は非行を重ねることによって、母親の宗教心を深めることに協力している。
少し残念なことに、親子ともに自分たちのしていることの意味がわからないので、
無用の反省や自責の念に悩まされていることである。
しかし、ここでわれわれが少し自覚すると、道はそれぞれ異なるにしろ、
現代人は特定の宗教団体に属すると否とにかかわらず、
極めて宗教的な生き方をしているし、また必要性も高いことがわかるであろう」(P320)


対人関係のトラブルで創価学会などの宗教団体に入った人も少なくないだろう。
しかし、それは見方を少し変えると、
にっくきあいつのために自分は宗教性を追求することができている、
ということになろう。
極論を言えば、犯罪者だって刑務所に重々しい顔つきで通う牧師や僧侶の宗教性に
どんな大きな役割を果たしていることか。
マイナスのこともなるべく全体を見ようと努めるならば、
それなりにそのマイナスがうまくアレンジメントされていることに気づくのかもしれない。

話は飛躍するが――。
どれだけ多くの矛盾を抱え込めるかで、その人の器が決まるのだろう。
「どっちも正しい」ことをどれだけ認められるかで精神性の高さが決まる。
創価学会も日蓮正宗も親鸞会も幸福の科学もマスコミ科学もそれぞれに正しい。
医学も占いもそれぞれに正しい。あの人もこの人もそれぞれ正しい。

☆「人にはそれぞれ道があって、簡単に善し悪しは断定できない」

人のことをとやかく言うまえに問題は自分だろう。
自分がどれだけ多くの矛盾(生と死、男と女、物と心)を抱えながら
世界でひとりしかいない「私」を豊かに生きるか。
せっかく生まれてきたのだから「私」を深めたほうがおもしろい。
そのためには――。

「ここで、実際に一人の人間が生きている状態を考えると、彼にとって大切なことは、
自然科学とかイデオロギーとか、何かひとつのものをよりどころにするのではなく、
自分という存在を含めたコスモロジー[物語]を構築することではなかろうか。
まず自分を除外して、自分抜きの「現実」を正しく認識し、
そこから得た正しい結論を適用する、というような、
一神論の神になぞらった方法をとるのではなく、自分を最初から含めた世界像をもつ。
自分、つまり「私」というのは実に多様であり、矛盾に満ちている。
そのコスモロジーのなかに、いわゆる科学もいわゆる宗教も含まれるのであろう。
しかし、そこに、万人に通用するモデルを見出すことは不可能であろう。
これまで述べてきたことからわかるように、そのようなものは存在しない。
ただ、その人にとって、そのときに、正しいと思われるモデルは見出されるであろうし、
そのために、われわれは努力しなくてはならない」(P327)


ものすごい俗っぽい話をすると、芝居(物語)には悪役が必要なことも少なくない。
だとしたら、あなたやわたしの嫌いな人というのは、
われわれの生きる物語(芝居)にとって必要不可欠かもしれず、
もちろん嫌いなやつは大いに憎んでいいのだが、
憎みながらちょっと感謝するような余裕を持ってもそれほど悪くはないのかもしれない。

COMMENT

aaa URL @
08/20 21:13
yondaさんのブログを読んで。. とても参考になりました。
河合隼雄の本、読んでみます。
Yonda? URL @
08/20 23:58
aaaさんへ. 

河合隼雄は嘘つきだから(自称ですよ)よくよくご注意ください。
実際にお読みになられたら、
わたしの誤読がばれそうで怖いであります。
炎暑なのに、ブルブルッ。








 

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