「明恵 夢を生きる」

「明恵 夢を生きる」(河合隼雄/著作集9「仏教と夢」/岩波書店) *再読

→本書で河合隼雄はとにかく鎌倉時代のマイナー坊さんである明恵をほめちぎっている。
おそらく心理療法家の河合隼雄が明恵をすごいと思った背景には、
自身の臨床(相談)体験と夢体験が大きく影響しているのだろう。
しかし、ユング派にもかかかわらず河合はおのれの夢はほとんど公開しないし、
個人の内奥の秘密をたいせつにしたいという理由で事例報告もやらない。
よって、明恵の本当のすごさはたぶん河合隼雄にしかわからないのだと思う。
自分の夢やテレパシーに近い経験をしたことを公開したり、
あまたの不思議なクライエント体験を書けば明恵のすごさは立証できるのだろうが、
それをやったらいわゆる西洋学問から遠ざかるばかりだし自戒を破ることになってしまう。
わかりやすい文章を書くことでは定評がある著者にしては難解な本書を何度も繰り返し読み、
こういう裏事情が読み取れたしだいである。
以下に「本当のこと」を公開できない苦しい立場から
河合隼雄が著述する明恵のすごさを要約として列記する。
明恵のいったいどこが偉大なのか――。

・イデオロギーを打ち出したのではなくコスモロジーを深めたところ。
・夢に注目しただけではなく、夢を生きたところ。
・超能力やテレパシーのような奇跡体験を持ったが、それをまったく誇らなかったところ。
・一生不犯(ふぼん/女性と交わらないこと)を守ったとところ。
・深い「事事無碍(じじむげ)」の華厳世界を達観していたところ。
・「あるべきやうわ」という教え。

河合隼雄は本書で明恵の価値を再評価しろと言っているだけで、
断じて明恵のほうが親鸞や日蓮よりもすぐれているということは主張していない。
だが、ひそかにそのような矜持がなければ、
さすがにこのような思い入れたっぷりの本は書けないだろう。
明恵のどこが、たとえば親鸞や日蓮よりもすごいと著者が
(言うなれば無意識で)思っていたのか、わたしの言葉で説明したい。
河合隼雄はこう言いたかったのだろう。
つまり、親鸞の南無阿弥陀仏や日蓮の南無妙法蓮華経はイデオロギーである。
イデオロギーとは「これは正しい」と主張してしまうことだ。
「これは正しい」と言ってしまうと、「それ以外は誤り」になってしまう。
イデオロギー(理念、観念)はどれも新しくわかりやすいから耳目を引く。
イデオロギーは「これは善、これは悪」とわかりやすく世界を区分してしまう性質を持っている。
このため、(明恵に比して)親鸞や日蓮のイデオロギーは
仏教史といったものでも転機として注目(評価)されやすい。
しかし、イデオロギーは「これが正しい」(これ以外は誤り)とやるわけだから、
かならず不毛な衝突を生んでしまう。
そのうえ、イデオロギーには「自分こそ正しい」というどこか無反省な傲慢がつきまとう。
比較して明恵が注目したのは「存在そのもの」と言ってよい。
「存在そのもの」は(イデオロギーの説く)善悪や正邪を超えているではないか。
善悪や正邪があって存在が生まれるのではなく、
そういうイデオロギー(理念、観念)以前に測り知れない「存在そのもの」があるのではないか。
「存在そのもの」は善悪や正邪、
それどころか自他や物心(物質と精神)の区分さえあやふやな混沌である。
この矛盾に満ちた「存在そのもの」を、
夢や仏道修行(禅定・瞑想)を通して明恵はとらえることができた。
言い方を換えれば「あるがまま」の「存在そのもの」を明恵は深く凝視していた。
さらに明恵は自身さえも測り知れぬ「あるがまま」の「存在そのもの」の一部として認め、
しかしにもかかわらず「あるがまま」に安住(あるいは堕落)するのではなく、
「あるべきやうわ」を追い求めようという意志の力があった。
だから、明恵はすごいし偉いと河合隼雄は言うのだとわたしは思う。

繰り返しになるが、河合隼雄いわく、
イデオロギー的教義を持っていないところが明恵のすごさである。
明恵が安易なイデオロギー(理念、観念)の穴に落ちなかったのは、
善悪や正邪といったものを超える深い「存在そのもの」を見る目を持っていたからである。
自他や物心を超える深層の「存在そのもの」を見る目を、
夢体験や仏道修行を通じて身につけていたからである。
本書でいちばん刺激的だったのはここである。
何度でも繰り返したくなるが、「存在そのもの」は善悪や正邪を超えている。
この記述がある該当箇所を一部抜粋する。

さて、たとえば南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経といったイデオロギー的教義は、
「これは正しい」というわかりやすさで多くの人をひきつけるけれど――。
(以下、引用文中の「コスモロジー」は「世界観、宇宙観、物語」くらいの意味だと思う)

「しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、
もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。
もっとも、矛盾などと言っているのは人間の浅はかな判断によるものであり、
存在そのものは善悪とか正邪とかを超えているのではなかろうか。
そして、仏教こそは、
もともとそのような存在そのものを踏まえて出現してきた宗教ではなかろうか。
従って、仏教は本来イデオロギー的ではなくコスモロジー的な性質を強くもっている。
コスモロジーは、そのなかにできるかぎりすべてのものを包含しようとする。
イデオロギーは、むしろ切り棄てることに力をもっている。
イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、
そこに完全な世界をつくろうとする。
この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となってくる。
しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、
そこには生に対する死、善に対する悪、
のような受け容れ難い反面が存在していることを認めざるを得ない。
そのような自分自身も入れ込んで世界をどうみるのか、
世界のなかに自分自身を、多くの矛盾とともにどう位置づけるのか、
これがコスモロジーの形成である。(……)
イデオロギーよりコスモロジーへの変換が現代において生じつつあると思われるので、
明恵に対する評価は急激に変化するのではないかと推察される」(P71)


忙しい人のために結論のようなものを最初に書いておいてタイトルに戻ろう。
本書のタイトルの「夢を生きる」とはどういうことか?
河合隼雄によると、「夢を生きる」とは、
ことさら夢を分析家に解釈してもらうことではないという。
いわく、「自分の夢を傍観者として「見る」のではなく、それを主体的に「体験」し、
深化して自らのものにする」ことが「夢を生きる」こと。
では、具体的に明恵はどのように夢を生きたというのか。
本書で河合は明恵の夢をいろいろ解釈しているが、
明恵の「人生の転機」になった夢について紹介したらわかりやすくなるだろう。

明恵は24歳のとき、
カミソリで右耳を切っているが彼はこの際どのような葛藤のただなかにいたか。
河合によると、明恵はみんなで修行するか、ひとりで修行するか迷っていたという。
ほかの学僧を見ているとみな出世を目指すものばかりで、
本当に仏道を追求しようという意気込みのあるものがいない。
このままだ流されて自分も仏道から離れていき、高位高官を求めてしまいそうである。
だいたい出世するものは見栄えがいいものである。
ならば、自分は右耳を切って片輪者(不具者)になれば出世と縁が切れるのではないか。
明恵はひとり仏像をまえにしてカミソリで右耳を切った。血が吹き出し仏具にかかった。
その晩の夢に明恵はインドの僧侶が出てくるのを見る。
仏教の本場インドの僧は「貴殿のしたことはきちんと書きとめましたよ」と明恵に告げる。
この夢を見たことで明恵は自分のしたことは間違っていなかったという確証を得る。
翌日、右耳が痛いのでわんわん泣きながら華厳経を読誦していると、
しだいに三昧(ざんまい/禅定・精神集中・深層意識)に入っていく。
このとき明恵のまえに文殊菩薩が現われる。
こうして明恵はおのれの一か八かの自傷行為はこれでよかったことを確信する。
結果として、みんなから離れてひとり山にこもり仏道修行をする決意を固める。
ここから10年近い「ひきこもり」をしながらの坐禅と読経の内向の時代が始まる。
河合隼雄によると、「夢を生きる」とはこういうことである。
夢で見たことを元手におのれの「あるべきやうわ」を選択することが
「夢を生きる」ということだ。

30歳を過ぎたころ明恵はインド渡航をくわだてるが、このとき春日明神からのお告げがくだる。
おそらくまた華厳経を読経しながら三昧に入っているときに夢で見たのだろう。
もはやインドにも明恵ほどの学僧はいないからわざわざ行くことはない。
そういうお告げであった。
明恵は知るよしもないが、じつのところ明恵がインド渡航を決意した年は、
世界史のうえでインド仏教がイスラームに滅ぼされたとされる年とおなじであった。
明恵はインドのことなど知る術もないにもかかわらず、
いまやインドにはろくな仏僧がいないことを夢(あるいは三昧)で知っていたのである。
このため、明恵はインド渡航を中止する。
この外界(インド仏教滅亡)と内界(明恵の夢)の一致に河合隼雄は感激する。

「明恵が春日明神の神託により渡天竺[インド渡航]の計画を中止した一二〇三年は、
いみじくも歴史家によってインド仏教滅亡の年とされている年なのである。(……)
明恵の渡天竺中止とインドにおける仏教滅亡の年が重なり、
この共時性にわれわれも心を打たれるのである」(P156)


出世よりも仏道修行に励みたいとおよそ10年の歳月を費やし、
さらにはインド渡航をくわだてた明恵に思いもよらぬ変化が外からやってくる。
出世などまったく興味がなかったのに後鳥羽院(旧天皇)から認められてしまったのだ。
高山寺をくださるというのである。もし引き受けたら大出世することになる。
おのれの仏道修行と布教(高山寺)のどちらを優先したらいいのか明恵は迷う。
河合隼雄によると、この外界の変化は内界の夢に現われているという。
明恵はこの時期、好物であった糖(あめ)に関する夢を見ている。
夢で明恵は糖の桶(おけ)をふたつ持っていた。そして、夢のなかで人に語る。
「以前持っていた自分の糖一桶はなくしてしまった。
しかしいま相応等起(そうおうとうき/事に応じて出現する)の糖が二桶ここにある」
明恵はさらに自分の夢の感想を書き記している。
このところ思うようにいかないことがあって気持が乱れていた。
思うようにはいかないものである。
しかし、相応等起のように思いもよらず得がたきものを得ることができた。
河合隼雄によると、これは一般によく見られる夢らしい。
なにかを得るためには、なにかを失わなければならない。
通常、意識は得たものにしか目がいかないが、
無意識は失ったものをしっかり認識しているとのことである。
孤独な修行か、それとも出世して布教するか、あるべきやうわ――。
明恵の変化は少しずつ生じていた。
29歳のときに「華厳唯心義」を著わしているいるそうだ。
これは華厳経のなかでもよく知られた「如心偈」を解釈したものとのこと。
勉強家の河合隼雄は「如心偈」の冒頭を紹介したのち、明恵の心境の変化をこう述べる。

「心の如く仏も亦しかり
仏の如く衆生しかり
心・仏及び衆生
この三、差別なし

これを見ると、世俗のみならず、他の僧たちも避けて、
ただ一人求道に励んでいた明恵が、
だんだんとその目を外界に向けてくることがよく理解される。
そこでは内界、外界などという区別はなく、
すべてのことは「仏」のこととして受けとめられるようになっていたのであろう」(P66)


ひとり仏道修行をして内界に目を向けていた明恵が、外界に視線を向けるようになった。
というよりもむしろそうではなく、華厳経の教えにしたがって内界を見つめているうちに、
内界も外界も区別がつけられないものであることをしだいに悟っていった。
内界は突き詰めると外界に通じているのだろう。

「つまり、プラスとマイナスは極点において一致し、
そこでは思いがけぬ反転現象が認められると主張するのである。
確かに、生と死、霊感と狂気、は紙一重のところで接しており、
われわれ臨床家はそのことを身をもって体験させられる。
あるいは、芸術家や宗教家もそのような体験を味わうことが多いであろう」(P200)


内界と外界の一致というのが本書のテーマのひとつであろう。
明恵は華厳宗の僧侶であったが、華厳の教えによるならば内界も外界もないことになる。
これを河合隼雄は多少現代的にこのような説明をする。
(引用文中の[カッコ]内の記述は例によって当方のお節介な意味補充)

「人間の意識は通常の生活においては、自[自分]と他[他人]、
もの[物質]とこころ[精神]、などをある程度区別している。
その区別を鮮明にし、合理性や論理的整合性の高い意識をつくりあげてゆくのが、
西洋に生じた意識の確立である。そのような観点からすると、
「意識閾を下げる」ことによって無意識の活動が強くなると言えるし、
異なった東洋的な考えによると、訓練によって深い意識へと到達してゆくと、
むしろ、自[内界]と他[外界]、もの[外界]とこころ[内界]などの境界があいまいとなり、
共時的現象を認知しやすい状態になる、と言うことができる」(P170)


これは「内向の時代」の明恵が内界を探ることで悟ったことでもあるのだろう。
もしかしたら自分と他人の区別はそれほどないのかもしれない。
もしかしたらものとこころの区別はそれほどないのかもしれない。
ならば、自分をたいせつにするということは他人をたいせつにすることだ。
同様に、こころをたいせつにするということはものをたいせつにすることだ。
そうだとしたら内界を重んじるためには、外界のこともしっかりやらなければならない。
経済行為、政治活動、社交は一見すると仏道修行の正反対に位置するようだが、
「内界=外界」ならば人交わりや金銭管理も仏道修行ということになろう。
おそらく、以上のように考えて明恵は京都の高山寺に入ったのだろう。
若いときは決して出世などするものかと思っていた明恵が人のうえに立つことを決める。
このとき明恵は34歳になっていた。
翌年、後鳥羽院から東大寺尊勝院の学頭に任命される。さらなる出世である。

「承久三(一二二一)年に起こった承久の乱、およびそれに続く一連の出来事は、
わが国の歴史において画期的なことであり、「革命的」と称することもできることであった。
(……) ある個人の内界における大きい変動が、
外界におけるそれと共時的に生起することは、あんがいよくあることのように思われる。
明恵の場合もそれに当てはまっており、承久二年における『夢記』の内容は、
明恵の内界の著しい変化を反映している」(P221)


さらりと河合先生はとんでもない非科学的なことを真剣な語り口に混ぜるのでおもしろい。
明恵の夢が、日本の大変革と連動していたというのだから。
しかし、本当に内界と外界が通じているならば、起こりえないことではないのだろう。
とはいえ、事件が起こってからならなんとでも後付けの説明は可能なことは注意したい。
ふたたび、とはいえ、経済学も社会学もすべて後付けの理論だから、
ことさら河合隼雄ばかりをインチキと糾弾するのはおかしいようにも思う。
さて、当時京都の高僧だった明恵は承久の乱でまた「あるべきやうわ」を問われることになる。
京都の高僧といえば、よくわからないが、いまでいう東大教授みたいなものだろう。
ご存じのように承久の乱とは、
後鳥羽院の率いる朝廷と鎌倉幕府の北条家がドンパチやらかした内乱である。
まさかお偉い天皇家の朝廷が負けるはずがないとみんな思っていたら、
まさかまさかで東国の田舎侍風情に気高い京都人がぺしゃんこにされてしまった。
負けた朝廷サイドの落人や子女が明恵のいる高山寺に逃げ込んできたわけである。
明恵はここでも大きな「あるべきやうわ」を問われることになる。
落人や公家の子女をかくまったら、今度は自分が北条家にやられてしまう危険性が生じる。
結果としては、明恵は自分に泣きついてきたものをかくまうことに決める。
当然、それはけしからんと北条家は怒るわけである。
明恵は捕まえられて当時、六波羅探題の北条泰時のまえに引っ立てられる。
このときの明恵が格好いいのである。北条泰時のまえで言い放つ。
お釈迦さまはその過去世で鳩になり、鷹に食われたというではないか。
お釈迦さまは(過去世で)飢えた虎にありがたき御身を与えたこともあった。
そこまでの大慈悲は無理だが、人をかくまうくらい仏教者なら当然のこと。
今後おなじことがあっても自分は頼ってきたものをかくまうだろう。

「是れ政道の為に難儀なる事に候はば、即時に愚僧が首をはねらるべし」

これが政治に反するというのなら、即刻この場でわが首をはねられよ。
「伝記」に書いてあることだから本当か嘘かはわからないけれども、
この命がけの発言を聞いて北条泰時は感涙にむせびその場で明恵に帰依したという。
明恵の「あるべきやうわ」は右耳を切ったときもそうだったが、
身体をはって命がけでどちらかを選択するということなのだろう。
これは一見すると美談だが、斜めから見るとちょっと問題がなくもないのである。
というのも、明恵は後鳥羽院に引き上げてもらったわけである。
にもかかわらず、敵側の北条泰時とまで明恵は仲良くしてしまった。
明恵の行為はある意味では裏切りと言えなくもないのである。
明恵はあたかも決して敵をつくらなかった河合隼雄のようなところがある。
河合隼雄は政府とも岩波書店とも創価学会ともうまくやったのだから、
これはさすが明恵に師事するだけのことはあると(余談になるが)言えよう。

20代は自分の仏道修行にしか興味がなかった明恵がえらい変わりようだが、
北条家とも通じた明恵は承久の乱で負けた朝廷方貴族の子女のために善妙寺を建てる。
河合隼雄は書いていないが、寺を建てるということは当然お金がかかるわけである。
尼さんは働かないから寺を維持するだけでも金は湯水のように出ていっただろう。
おそらく明恵は仏道のみならず実務のほうでもそうとう鍛えられたはずである。
河合隼雄が注目するのは、明恵の金ではなく女のほうである。
ただただ明恵の夢だけを根拠として(すげえな、おい!)、
この時期に明恵と貴族の子女のあいだに恋愛もどきがあったのではないかと推測する。
そのうえで河合隼雄は明恵の一生不犯を高く評価するのである。
うがった見方をすると、
心理療法家の河合隼雄も女性クライエントにはだいぶ苦労したのではないか。
カウンセラーは異性のクライエントから転移感情(恋愛感情)を持たれることが多いと聞く。
というよりむしろ、感情転移がなかったら治らないくらいに心理療法に必要なものだろう。
河合隼雄の西洋の師であるユングはあっさり感情転移に敗北してしまったわけだ。
ユングに愛人が何人もいたことはよく知られている。
河合隼雄はどうだったか。もちろん、あまたの恋愛感情を女人からぶつけられたことだろう。
果たしてユングのように公私混同してクライエントと寝たのかどうか。
わたしは河合隼雄はユングの悪い真似はたぶんしていないと思う。
根拠は河合が一生不犯の明恵を日本の師として尊敬しているからである。
とてつもない不幸な、しかし美女から関係を求められたら断るのは難しいだろう。
いちおう心理療法のルールでは公私混同は禁じられているが、
それが本当に「正しい」のかはわからないのである。
もしかしたら、女性クライエントと烈しい恋愛に落ちることが
「たましい」を豊かにするかもしれないではないか。師匠のユングもそうしている。
女性との不義の関係でもたらされる「新しい自分」に
河合隼雄が興味を持たなかったわけがない。
結局、たぶん河合はこの本を書くまでギリギリのところで自戒を破っていなかったと思う。
そして、それが本当に自分の人生においてよかったのか迷いがあったのではないか。
自分は臆病者ではないかという反省もあったことだろうし、
同時にこれでよかったのだという職業心理療法家としての自負もあったことだろう。

河合隼雄は「あるべきやうわ」を突き詰めながら一生不犯を貫いた明恵を発見したとき、
一種の救済のようなものを感じたのではないかと思われる。
いや、ユング心理学者の河合隼雄は明恵の存在にではなく、
ある夢に救われたのかもしれない。それはこういう夢である。
明恵は夢でめったにいないような美女から誘惑されるが、この女を捨ててしまう。
女は「捨てないで」と追ってきてなお誘ってくるが、それでも明恵は冷たく女を後にし去る。
目が覚めたとき、明恵はあの女こそ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)だったと思う。
自分は仏さまを捨ててしまったと思う。
こういう夢を見たということは、不犯を貫いたのではなかと河合は思ったに違いない。
高僧は美女に迫られたとき、どうしたらいいのか?
カウンセラーは女性クライエントから求愛されたらどうしたらいいのか?
この問いへの明恵と河合隼雄の答えは「あるべきやうわ」を考え続けることである。
以下は河合隼雄が美女に翻弄されているシーンを思い浮かべながら読むとおもしろい。
不謹慎なことを書いたが、これが明恵と河合隼雄の「あるべきやうわ」だ。

「……ある女性が僧に対して親しく寄ってくるとき、
その僧は重大な葛藤にさらされることになる。
僧[心理療法家]としての戒[ルール]を守るためには女性を拒否しなくてはならないし、
しかし、一方でそれは仏[たましい]の女性的側面を拒否することにもなるのである。
この葛藤に対して、おそらく万人共通の「正しい」選択というのは無いのではなかろうか。
人間にとって可能なことは、自分にとって「これだ」と思うことに
全存在を賭けてコミットすると同時に、その選択によって失うもの
―選択に伴う影の側面―について十分意識することではなかろうか。
選択には、かなしみや損失が伴うが、そこで決断できぬ人は、
己の生を生きたことにならないと言える。
[夢のなかで]無情に貴女を捨てた後に、「女は毘盧遮那也。即ち是、定めて妃也」
と明言した明恵の態度に、彼の宗教者としての決断と、
その決断の意味の自覚を見ることができる。
このようなときに「正しい」選択は無い、と述べた。
要はいかに決断し、いかにその意味を知るか、ということになると思われる。
この選択に際して、明恵は戒をとったのであるが、
彼とは逆の選択を行なったのが、彼と同時代に生きた親鸞である、
と言えるのではないだろうか」(P241)


親鸞の他力信仰は「あるがまま」という言葉に結晶されるだろう。
たとえば美女に迫られたら、
「据え膳食わぬは男の恥」と「あるがまま」の感情に身を任せるのが念仏だろう。
絶対他力信仰とは「あるがまま」に自然の流れに身を任せることである。
またそれが「正しい」という一種のイデオロギーでもあろう。
すべては阿弥陀仏のお計らいなんだから逆らわないというのが念仏信仰である。
すべて阿弥陀仏にお任せして「あるがまま」を受け容れるのが「正しい」と念仏者は考える。
しかし、明恵は「あるがまま」に任せるのではなく「あるべきやうわ」を自問せよと説く。
このときの「ある」はじつのところ三世因果説が大きく関係している。
親鸞の他力信仰はすべてが前世からの宿命で「どうしようもない」というあきらめである。
「どうしようもない」のだから「あるがまま」阿弥陀仏に任せよ。結果、安心が得られる。
かといって、「あるべきやうわ」の明恵が三世因果説を信じていなかったわけではない。
河合隼雄は巧妙にごまかしているが、明恵は親鸞以上に三世因果説を強く信じている。
これは伝記や明恵の書いたものをじかに読めばだれでもわかることである。
河合隼雄は怪しく思われるのを懸念して、どの著書でも前世には言及していない。
どのみち河合隼雄のところまで来るボロボロのお客さんの不幸なんて
前世を考えるしか折り合いがつかないと思うが、それでも河合自身は前世に言及しない。
その河合隼雄が明恵の本では一箇所だけ前世について語っているのである。
「あるべきやうわ」を考えるとは、前世や後生まで想像してみることであると。
さすがに明恵が定業(じょうごう)を狂信していたことを河合も無視できなかったのだろう。

さて、人生で迷ったとき、どうしたらいいのか?
本を読めば答えが書いてあるのか(自己啓発書)?
先輩や上司に相談してその答えに従えばいいのか? 教祖さまにしたがうべきなのか?
なにかしらの凝り固まったイデオロギーに殉じるべきなのか?
たとえば、念仏を唱えながら「あるがまま」阿弥陀仏さまにお任せする。
たとえば、日蓮大聖人さまを真似て南無妙法蓮華経と声をかぎりに唱題する。
むろん、絶対的に「正しい」答えなどあろうわけがないからどれもいいのだろうけれど、
いきいきと生きるためには明恵のように「あるべきやうわ」
を自分で考えるのもまたいいのではないかと河合隼雄は提案する。
おそらく、河合自身も迷ったときは念仏や題目にすがらず(それもまたいいと思いながらも)、
自分の尊敬する明恵のように「あるべきやうわ」を考え続けるのだろう。
さあ、肝心かなめの「あるべきやうわ」とはなにか?

「明恵が「あるべきように」とせずに「あるべきやうわ」としていることは、
「あるべきように」生きるというのではなく、
時により事により、その時その場において「あるべきやうわ何か」
という問いかけを行い、その答を生きようとする、
極めて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。(……)
人間にとって現在の「あるべきやうわ」の問いかけは、
過去や未来についての考えを引き起こし、
それは前世や後生に関することにまで発展することがあるのである」(P189)


恩人の後鳥羽院をある面で裏切って北条泰時と仲良くした明恵の選択は、
朝廷関係者と幕府関係者それぞれの行ないが前世からの定業であると考えたらば、
ほかに取る手立てがなく、結果的にはいちばんよかったかもしれないのである。
天皇崇拝というイデオロギーを持っていたら、ああはうまくいかなかっただろう。
「勝てば官軍」式の処世術をポリシーにしていたら、朝廷側は多くの死者を出していた。
明恵が「あるべきやうわ」を考えながら、
その時その場の自分の答えを生き抜いた結果が歴史となったわけである。

明恵の「あるべきやうわ」はわたしの言葉で言えば「一滴の自力」のようなものだ。
親鸞の絶対他力信仰は「どうしようもない」「あるがまま」になると思う。
日蓮はよくわからんが、創価学会の自力主義から考えると「なせばなる」ではないか。
明恵が親鸞と日蓮のどちらに近いかと言えば、他力の親鸞のほうだろう。
ほとんど定業やら毘盧遮那仏の意向やらで決まっているけれども、
それでも人間は無力ではなく、せめて「あるべきようわ」
を考えることくらいならできるというのが明恵の信仰だと思う。
これは華厳宗の世界の見方である事事無碍(じじむげ)も関係している。
事事無碍というのは、思いっきりわかりやすく言えばぜんぶホトケということだと思う。
自他の相違もものとこころの区別もなく、それらはぜんぶホトケの現われである。
ホトケという理が、あるときは石になったり携帯電話になったりあなたになったりする。
いろいろな人やものが存在(ある)しているようにわれわれの目には見えるけれども、
深層ではみんなホトケという理から発生している事に過ぎない(これを挙体性起という)。
もっとわかりやすく事事無碍を説明するなら、海にたとえるといいのかもしれない。
(実際、華厳経では世界を蓮華蔵世界海と説明しているわけだから)
海水の一滴は少量だけれども海全体でもあるわけである。
海ではどこかで波が起こると、どういうわけか別のところで波が生じるようなことがある。
つまり、海全体としてはすべてがすべてに共時的に影響しあっているわけだ。
川のように一定方向に流れるわけではなく、海というのはわけがわからない。
しかし、一滴の海水の動きがどこかの大漁や水難と関係しているわけである。
海はぜんぶつながっているわけだから、
本当に海そのものが見えていたら日本海に浮かびながらアラビア海のことがわかるはずだ。
これが明恵のテレパシー体験の根拠となる華厳経の世界観である。

親鸞の他力は川のようなもので自力では流れに逆らえない。
しかし、明恵の華厳思想ではぜんぶがぜんぶに共時的に影響しあっていると見るから、
ある人が「あるべきやうわ」を考え続けていることが、
かならずどこかしらの変化にむすびつくと信じられるわけである。
つまり、人間はまったくの無力ではないというささやかな希望が生まれる。
「あるべきやうわ」の自力は、河合隼雄の言葉を借りるならば
「甘いぜんざいに入れられた少量の塩のようなもの」である。
甘さ(他力)を引き立てるためにあるような少量の塩(自力)だ。
それでもないよりはましだろうというのが「あるべきやうわ」の気がする。
断じてお題目をあげたら自力でなんでもできるというような甘い(?)世界観ではない。
圧倒的な定業(宿業)の力を認めながら、
それでも「あるべきやうわ」を考えるところに生きている味わいがあると明恵は考えた。
いや、さすがに明恵はそこまで明るくこの世を見ていなかっただろうが、
明恵がそういう高僧だったらばどんなにいいだろうと河合隼雄が思ったのである。
本書の明恵はむろんのこと、
河合隼雄が自己(セルフ、たましい)を投影したところの明恵である。
それは以下の文章の明恵を河合隼雄に換えたらば、そのまま通じることでもわかろう。

「明恵は欲望を拒否したり、抑圧したのではなく、それを肯定しつつ、
なお戒を守るという困難な課題に取り組んだのである。
ここに明恵の偉大さがある」(P115)


「内界と外界、合理と非合理、父性と母性などの、人間にとっての多くの二元性を、
どちらにも偏らずに統合的に見てゆこうとする明恵の態度は、
彼の言動のあちこちに示されている」(P174)


明恵の部分を河合隼雄に換えたらば、そのままこの心理療法家の説明になってしまう。

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COMMENT

coco URL @
08/16 21:46
面白かった♪. 明恵カウンセラーと親鸞カウンセラーでは
どちらが流行るかしらん・・・
Yonda? URL @
08/17 11:42
cocoさんへ. 

国家公認の高僧の明恵に対して、
親鸞は僧籍を剥奪されたただのゴロツキでしたからね。
お客さんの量は桁違いだったでしょう。
もちろん、明恵の勝ち。

この本はよく読むと、明恵を隠れみのにすることで、
日本二代派閥の親鸞一派と日蓮一派に喧嘩を売っているようにも思えます。
よく読まないとわからないような仕掛けになっていますけれど。
けっこうむかしにこんな過激な本を河合さんたらもう……。
よけいファンになってしまいました。

苦労して書いた長文記事なので、
おもしろかったと言ってくださり嬉しかったです。
持つべきものは、であります。








 

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