「おっぱいバレー」

よもやま評論家の小谷野敦さんが「現代の『二十四の瞳』」と
絶賛している映画「おっぱいバレー」をジェイコムで録画視聴する。
小谷野さんがすすめていなかったら絶対に見ないタイトルだった。
あまりもあまりにもわかりやすすぎるストーリーラインに、
これを好きだと世間様に公開できるのはさすが自称「正直者」だと感心した。
これみんなさあ、映画館で見るとき「おっぱいバレーをおとな一枚ください」とか言ったわけ?
映像オンチのわたしは洋画のみならず邦画でもたまにストーリーについていけなくなるから、
このわかりやすさはとてもいいと思う。

「試合で勝ったらおっぱいを見せてあげる」と中学国語教師の綾瀬はるかが
バカ部と言われている男子バレー部の生徒に約束する。
映画のかなりのところまで綾瀬はるかのおっぱい一本(二房?)で引っ張ってしまうのは、
現代のフェミニストにある意味で喧嘩を売っているわけで(女なんておっぱいがすべて!)
とても勇気があるとは思うけれど、
そういう女性はそもそもこんなタイトルの映画を見ないだろうから、
ずるいのか確信犯なのかなにも考えていないのかわからない。
しっかし、綾瀬はるかのおっぱいなんかそんなに見たいのかなあ。
映画館で1800円も払って見る価値のあるものだとは、おっさんは思わない(失礼!)。
この映画の舞台は昭和54年だそうだが、
思えばおっぱいの価値どころかお○○○の視聴価格でさえもこの30年で暴落したもんだ。

しかし、一般のおっぱいの価格こそ下がったが、
貴殿の好きな人のおっぱいの価値はプライスレスだろう。
このため、ときに男はおっぱいの魅力にあらがえず奇跡のようながんばりを見せるのだろう。
男はこの子のおっぱいを見たいと脳内で対象を幾度もひんむきながら
周囲のだれもが信じられないようながんばりを見せることがあるのだから哀しい動物である。
「おっぱいバレー」はそういう現実をうまくすくいとっているとも言えよう。

途中で気づいたが、
これは法華経をテーマにした映画と言ってもよい(意識的にか無意識的にか)。
映画関係者に創価学会の要人(あるいは富豪)でもいたのだろうか?
ダメな男子バレー部員は「綾瀬はるかのおっぱい」目当てに懸命の努力をする。
その過程で「がんばることのすばらしさを身をもって知った」(仲村トオル)。
これは法華経のテーマのひとつである「嘘をついてもいい」ではないか。
法華経にこういう物語がある。
火事の家にいる息子3人を助けるために、
親はそれぞれのほしいものをプレゼントすると嘘をつく(これが綾瀬はるかのおっぱい)。
長旅に疲れた一団のために休憩場所の蜃気楼(しんきろう)を見せ、
この仮の目的を目指してがんばろうと叱咤する(綾瀬はるかのおっぱい)。
毒を飲んで苦しむ子どもたちのために親の医者が嘘をつく(おっぱい、おっぱい)。
最高真理(綾瀬はるかのおっぱい)を説く(見せる)と言いながら
最後まで見せないのはまさに法華経と言ってよい。

あきれるほどのわかりやすさ、お約束の順守にシナリオ・センター臭を感じた。
脚本はあの人だったので、ああ、おれの勘も鈍っていないなあ。
ラストは山田太一脚本映画「少年時代」へのオマージュのつもりなのだろう。
自分がない脚本家は時代の創価学会的風潮にうまく適応できるのだろう。
「がんばることのすばらしさを伝えたい」とか企画書には書いてあるのかしら。
綾瀬はるかは言う。

「このおっぱいはあたしだけのものじゃないの。
これはみんなの夢なの」


設定年代こそ古いが(1979年)、
努力、勝利、夢、希望、あきらめない等々が絶対正義になった現代(2009年)
らしい映画である。
しつこいが、小谷野敦さんがすすめてくれなかったら絶対に見なかったと思う。
今晩、この映画を見たことはわたしにとってとても意味深い体験だった。
とはいえ、「悲しみの絶対量」が足らないから、
「おっぱいバレー」を「現代の『二十四の瞳』」とまで評するのは大げさではないか。

(追記)小谷野さんは「無煙映画」(喫煙シーンのない映画のことですか?)と書いていたが、
ジェイコム放送版は「海岸食堂」と「立ち飲み屋」のシーンで
底辺労働者らしきもの数人がいかにもな時代的小道具めかしてタバコを吸っていた。

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