「明恵上人集」

「明恵上人集」(久保田淳・山口明穂:校注/岩波文庫)

→内容は盛りだくさんで明恵の和歌、夢記、伝記、遺訓を収録する。
伝記は現代語訳と丁寧な解説がついている講談社学術文庫で読んだほうがいいと思う。
さて、果たして鎌倉時代の高僧だったらしい明恵は本当に偉いのか、である。
いまは河合隼雄が力のかぎりを尽くして持ち上げてしまったから偉人ということになっている。
河合隼雄が明恵の権威づけをするいっぽうで、
同時によく知られていない明恵のほうも河合隼雄のふしぎな権威の源泉になっている。
これは世渡り上手の河合隼雄がユングとのあいだでやったこととおなじと言えなくもないだろう。

一般的に明恵の偉いとされる理由は――。
1.よく修行をしてよく勉強した。
2.戒をよく守り当時でもめずらしい一生不犯(ふぼん/女性と交わらないこと)を貫いた。
3.権力者の北条泰時とマブダチ(あるいは師弟)の間柄であった。

よく修行(苦行)をしているから偉いというのは、まるで現代の社畜さんのようだ。
よく知らないけれど、社畜さんの世界では何日寝ていないかが自慢になるのでしょう?
もう何日家に帰っていないぞ、とかさ。
まったくお金にもならないサービス残業の時間を競争する社畜さんもいると聞く。
とっぴな発想に思われるかもしれないが、これは明恵のやったこととおなじではないか。
明恵は出世目的ではなしに、
人のやりたがらない苦しい仏道修行をやったから偉いということになっている気がする。
「明恵さんは何日も寝ないで座禅しているだって」と坊さん社会で話題になったことだろう。
でもそれってさ、まさしく社畜とおなじではないだろうか。
いや、明恵は仏のため、自分のために仏道修行をしているから社畜とは違うのか。
河合隼雄がやたら評価している一生不犯も、
もしかしたら明恵は女嫌いだったかもしれないわけで、そうだとしたら偉くもなんともない。
青年時代こそ高位高官を目指さなかったが、
結局中年期には権力者とつるんでいるのはどう解釈したらいいのか。

明恵は自分のための仏道修行こそしたが、他人のためにはいったいなにをしたのか。
乞われて弟子に教えを説いたのと高身分の貴族や武士の相談に乗ってやったくらいだろう。
たとえば踊り念仏の一遍と比べるとあまりにも下層民と縁がなさすぎるのである。
明恵が道端で貧農から「どうして生活がこうも苦しいのでしょう?」と問われたら、
果たしてどう答えていたか。「それは定業(宿業)のせいだからあきらめなされ」だと思う。
「これからどうしたらいいっぺか、和尚さん?」「あるべきようわ。貧民らしく生きなさい」
どう考えても明恵の烈しい仏道修行は自己満足でだれをも救いはしないのである。
これが捨て聖の一遍ならどう答えていたか。
「死んだらみんな極楽に往くんだから辛気くさい顔をしないで笑おうぜ、踊ろうぜ!」
いっときでも下層民を救ったのは絶対に明恵ではなく一遍のほうだったと思う。
しかし、そう、民衆史観みたいなものはインチキで、
ことさら下層民を救ったものが偉いという理由はどこにもない。
貴族や武士の懊悩(おうのう)のほうこそむしろ真実かもしれず、
あたかも現在の心理療法家のように
貴人たちの相談に乗ってやった明恵の功績をそう過小視するものでもあるまい。

明恵の教えといえば「あるべきようわ」が有名だが、これはいったいなにを意味するのか。
わたしもこの1ヶ月近く外見上はそれなりに忙しく時間に追われながら、
内面では「あるべきようわ」とはどういう意味か考えていた。
行き着いた結論は、明恵の「あるべきようわ」とは「自分で考えなさい」という意味ではないか。
その前提にあるのが現実のありようを見極めた明恵のある意味では冷たいまなざしである。
無学な貧農の息子が貴族になれるわけがないではないか。
生まれつき身体の弱いものが武士として名を馳せるのは難しいだろう。
ひとたび難病にかかってしまったら死ぬまで苦しみ続けるしかない。
いくら祈祷しても法華経を読誦しても、どうしようもない「無理なものは無理」な世界がある。
人は究極的には他人を救うことはできない。他人の身になるのは限界がある。
人は人を救えないが、仏さまならば人を救ってくださる。
その仏さまはどこかべつの場所にいるのではなくそれぞれの心のなかにいるのだ。
人は他人に救われるものではなく、自分で自分自身を救うしか道はない。
自分の定業(不幸、不遇)と折り合いをつけられるのは自分しかありえないではないか。
現実は夢のようなものさ、とセンチメンタルに詠って現実から目をそらすのはどうだろう。
現実が夢だと気づいたらば、その夢から醒めてものの真のありようを見てみたらどうか。
そのうえで「あるべきようわ」を自分で考えるところにこそ生きる味わいがあるのではないか。
あるとき明恵は叔父からこういう和歌を送られたという。
自分を仏道へと導いてくれたのがこの叔父である。

「見ることはみな常ならぬうき世かな 夢かと見ゆるほどのはかなさ」

すべては無常で喜びも悲しみも栄華も転落も移ろいゆくこの現実のはかなさは、
まるで夢のように見えるのではないか、くらいの意味だろう。
これに明恵はどう返したか。

「長き夢の夢を夢とぞ知る君や さめて迷へる人を助けむ」

さらに目覚めよ、である。
徹底的に夢ではないリアルを見つめて、夢に惑っている人の耳元で空砲を鳴らそう。
明恵が自分の「あるべきようわ」を考えるよすがとしたのがおのれの夜見る夢である。
明恵は「夢記(ゆめのき)」という自分が見た夢の記録を残している。
夢の専門家ということになっている河合隼雄がやたらこの「夢記」を評価している。
夢の価値がいまいちわからない当方は「夢記」が退屈で何度も寝そうになった。

結局、明恵というのはどの程度の僧だったのだろうか。
ファンである河合隼雄が異常なほど評価しているため、目が曇らされて実像が見えない。
あんがいマゾっけの強い女嫌いの修行中毒者くらいが正体かもしれないのである。
でもまあ、悟るというのは自分で悟るしかないのだから、
おのれの「あるべきようわ」を自分で考えろとしごく当たり前のことを言っている坊さんだ。
文学的価値はまるでわからないが明恵の和歌で好きなものを紹介したい。
ある日、みんなで河までピクニックに出かけたという。

「清滝河のほとりい出でて、同輩もろとも遊ぶあひだ、
にはかに夕立すれば、古き板を取り重ね、木の枝に渡しき。
その下に集りゐたる有様わりなきに、雨なさけなくしきりになれば、
防ぎあへず、人々もみな濡れたるけしきをかしくて、かくなむ

旅の空かりの宿りと思へども、あらまほしきはこのすまひかな」(P12)


いま書籍倉庫で時給850円のアルバイトをしているが、この感覚がよくわかるのである。
ほとんどつながりもない国籍、性別、年代多様な人が一箇所に集って働いている。
さっきまでカンカン照りだったのに、休憩時間になると豪雨になっている。
このとき休憩に出てきたそれぞれ多様な人が「雨だね」という感覚で一瞬つながるのである。
雨のおかげでかりそめの連帯のようなものを感じることができる。
それぞれ生まれ持ったものは多様でそれぞれどうしようもないけれども、
一緒に雨宿りしているとき、雨だけは平等に降っていることに気づき安心をおぼえる。
「どうしようもない」ことでわれわれがつながっていることにとても理想的な世界を見てしまう。
現世というのは旅先の「借りの宿」のようなものだが、
こうして雨に降られてみんなでひとかたまりになっていると、
ぞんがいこの世も悪くないものに思えるという感慨を明恵は詠っているのだと思う。
これは掛け値なしにいい。

それから男同士の歌の交換もいい。
以下は、真偽はわからないけれど権力者の北条泰時から送られた歌ということになっている。

「思ひやる心は常にかようふとも 知らずや君がことつてもなき」

常にあなたさまのことを思っていますが、
言伝(ことづて)がないのはわが思いをご存じないというということでしょうか。
これに明恵はどう答えたか。なかなかにくい返歌を送るのである。

「人知れず思ふ心のかよふこそ いふにまされるしるべなるらめ」

こっそり心の通い合っているほうが、言葉にするよりも味わいのあるものではないですか。

だいぶ時間をかけてつきあったが、いまだに明恵がどういう人なのかわからない。
ただ烈しい人だったということはなんとなくわかる。
13歳で自殺未遂をして、24歳で右耳を切り取ってしまうような人である。
30歳を超えたころには釈迦の生まれたインドに渡ろうと二度計画したという。
どうにでもなりやがれという捨て鉢なところもあったと思われる。
たしかにすべてが定業であるならば、恐れるものはないことになる。

「浮雲はところ定めぬものなれば 荒き風をもなにかいとはむ」

以下は遺訓からの抜粋だが、ここでも明恵の鼻息は荒い。

「仏の御前に向ひ参らせて一分の徳もなくば、生きて何かせんと思ひき。
我は武士の家に生を受けたれば、武士にばし成りたらましかば、
纔(わづか)の此の世の一旦の恥見じとて、とくに死すべきぞかし。
仏法に入りたらんからに、けきたなき心あらじ。
仏法の中にて又大強(だいかう)の者にならざらんやと思ひき」(P212)


「とく死なんこそ本意なれ(早く死ぬのは本望)」は踊り念仏の一遍の名言だが、
明恵の烈しい言葉からも似たような決意を感じることができる。
少しでも長生きできたら、なんて思っているやつはきっとなにもできないのだろう。

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