「菜根譚の読み方」

「菜根譚の読み方」(ひろさちや/日経ビジネス文庫)

→小谷野敦さんがどこかで毛嫌いしているのを見かけた気がするから期待して読んだ。
どうしてか小谷野さんが嫌いなものをこちらが好むことが多いのである。
小谷野さんが悪口をしきりに書いていた忘れられた(もうだれも知らない)文芸評論家、
亀井勝一郎を古書で買い求めて読んだらじつに味わいの深いものであった。
あの、あれな、ああいう(以上ひそひそ声で)小谷野さんが否定する「菜根譚」である。
さぞすごい名著ではないかとずいぶん期待したものである。

「菜根譚(さいこんたん)」は中国の古典ということになっている人生指南書、世渡り読本だ。
本場の中国ではまったく読まれず、
日本の政治屋や豪商といった連中から長年愛されてきたらしい。
なんの根拠もなく直観で暴論を言い放つが、
これは日本人(のたぶん職業禅僧)が
中国の権威を借りて書いたいわゆる偽書ではないかと思う。
いまでいうビジネス本(自己啓発書)のようなものだが、
著者とされている中国人の実績がまったくないのである。
たとえるならシナリオを一度も書いたことがないババアが書いた、
偉そうな上から目線の脚本指導書のようなものである。

人生の選択に正しい答えのようなものはあるのだろうか。
わたしはよく知らない人から頼んでもいない助言をされるのが嫌いだ。
ブログのコメント欄でわかったような助言を匿名の人からされると、ときに殺意さえいだく。
とはいえ、こちらも悩める身、前世からの因縁か、
どうしてかふしぎと馬の合う人に電話で相談することがある。
「こうしようと思っていますが、どうでしょうか?」
相手はわたしが助言嫌いであるのを知っている、
そのことを知っているのに聞いてしまう。
答えようがない問いだと思う。あるときの答えが天才レベルにうまいとあとあとまで残った。
「ヨンダさんの心のなかから、そういう反応が出てきたのなら、そうしたほうがいいと思う」
とても役立つ助言であった。

さてさて――。
もし絶対的真理(唯一の真実)がないのだとしたら、聖典や古典の意味はなんになるのか。
人生のあらゆる選択肢においてしょせんは正しい答えなどないのだとしたら
(まあ結果はたまたま偶然にそうなっただけ)、
最終的にはどちらかに賭けるしかなくなる。そのとき、どこに賭けるかだ。
他人に賭けるよりも、自分で自分の考えに全身で賭けたほうがいい。
なぜなら他人の考えに賭けると、失敗したときに責任転嫁、逆恨みをしてしまうからだ。
しかし、なかなか自分に全身全霊でもって賭けることはできない。
そこまで自分に自信を持てないからである。
このときに役立つのが聖典や古典といったものではないのだろうか。
読めばおわかりになるはずですが(はい、お時間がないですよね)、
いわゆる聖典や古典には常識のような平凡なことしか書いていない、とも言いうる。
けれども、いや、このため、そこに自分と似た考えを見つけると嬉しくなる。
結果として聖典や古典にもこう書いてあるのだからと、
全身全霊で一生懸命に自分の選んだ道に向き合えるようになる。これがいい。

無学な苦労人や低学歴の商売人が権威を求めてむさぼり読む「菜根譚」に
書かれた真実とはよくもわるくも、まあそんなものなのだと思うが、それでいいのだろう。
たとえば以下のようなことが真実だったらどんなにいいことか。
いや、真実であると信じようと思う。

「伏すこと久しきは、飛ぶこと必ず高く、開くこと先なるは、謝すること独り早し。
此れを知らば、以て蹭蹬(そうとう)の憂いを免るべく、
以て躁急(そうきゅう)の念を消すべし。
(長いあいだ伏せていた力をたくわえていた鳥は、いったん飛び立つと高く飛び、
他に先がけて咲いた花は散るのもまた早い。
この道理さえわきまえていると、途中で足場を失ってよろめく心配もないし、
成功をあせる気持もなくなる」(P302)


実際は一度も飛び立つことのない不具の鳥もいよう。
生涯、大空を飛ぶことができないカゴのなかの鳥もいることだろう。
咲かない花はいくらだってあるし、そもそも雑草として生まれてきたら終わりである。
しかし、そうではないと思いたいではないか。
真実とはそうであってほしいことだから、真実は人それぞれでいいのである。

「貞士は福を儌(もと)むるに心なし。
天即ち無心の処に就いて、その衷(ちゅう)を牖(みちび)く。
儉人(けんじん)は禍を避くるに意を着く。
天即ち着意の中に就いて、その魄(はく)を奪う。
見るべし、天の機権の最も神(しん)なるを。
人の智功は何の益かあらん。
(節操の固い人物は、幸福を求めようとする心がない。
そこで天は、この無心に報いるに、その人物のまごころを導いて福を授ける。
陰険な人間は、不幸を避けようとして汲々としている。
そこで天は、その心につけこんで、その人のたましいをおどして不幸を与える。
これでわかるであろう、天のはたらきはなんと霊妙不可思議なことか。
人間の浅はかな智恵など、なんの役に立とうか」(P117)


あんまり大きな声では言えないが、古典のいいところは意味がよくわからないところである。
自分勝手に好きな解釈をして、その自分の真実に全身全霊で賭けてしまえばいいのだろう。
ひろさちやさんも上記の名文句(?)を好き勝手に解釈しているが、そこがいい。
古典なぞ絶対的に正しい解釈などないのだから(現代文もそうですけれど)、
自分の好きなように解釈してそれを生かせばそれで十分なのだと思う。
ひろ氏の解釈は――。

「蜘蛛の巣に捉えられた虫は、ジタバタするからかえって網にからまるのである。
人間も不幸から逃げようとすれば、かえって泥沼にはまってしまう。
ええい、ままよと、
どっかりと不幸の中で胡坐(あぐら)をかけば、むしろ精神的に楽になる。
そうしたとき、周囲の状況がよくわかり、不幸から脱出できるかもしれない」(P117)


ひろさちやさんは聖典の文句を好き勝手に解釈するプロフェッショナルだと思う。
次の原文→ひろ氏の訳→ひろ氏の解釈は、もはや芸術的なレベルに達していると思う。
まずほどよく意味不明の原文から。

「我、人に功あらば念(おも)うべからず。而(しか)して過ちは則ち念わざるべからず。
人、我に恩あらば忘るべからず。而して怨みは則ち忘れざるべからず」(P80)


なんのこっちゃい? ひろさん、訳してよ。

「人に施した恩恵は、おぼえていてはいけない。
だが、人にかけた迷惑はおぼえていないといけない。
人から受けた恩義は、忘れてはいけない。
だが、人から受けた怨みは忘れてしまわないといけない」(P80)


ぶっちゃけ、ぜんぜん意味がわからないでしょう?
これをどう解釈するのはあなたしだいで正しい答えはない。
ひろさんの解釈はもはや原文と関係ない独創的なものだが、まったくそうだと同感してしまった。

「もう少し意地悪い言い方をすれば、人に恩恵を施してはならないのである。
恩を施されると、どうも借金をかかえているようで気が重い。
それで、恩人に対して恨みごころをいだくようになるケースが多い。
恩を仇で返されたといった嘆きのことばをよく耳にするが、
それはこういう心理がなせるわざだと思う。
それでわたしは、ちょっと意地悪く、
恩は売らないほうがよいと考えるのであるが、『菜根譚』はわりと紳士的である」(P80)


正しい答えなんてないんだから、聖典古典も好きなように解釈してよろしい。
正しい答えなんてないんだから、好きなように生きればよろしい。
一見すると怪しげなひろさちや先生から教わった真理のひとつである。

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