「わたしの南無阿弥陀仏」

「わたしの南無阿弥陀仏」(ひろさちや/佼成出版社)

→このまえ自販機に150円を入れたけれどほしいジュースがなかったからお金を戻した。
けれども、100円しか戻ってこないのね。50円を自販機に取られてしまった。
だからむかついたという話ではなく、
これはなにかラッキーの布石ではないかとムフフとしたという気持悪い人の体験談。
変な話だけど、世界ってさ、裏側がどうなっているのかまったく見えないよね。
世界というカーペットのようなものは一応見えるけれど、
縦糸と横糸がどのようにからまっていまのようになっているかはわからない。
もしかしたら50円をなくした不思議が、べつの不思議につながっているかもしれないわけだ。
そうではないかもしれないけれど、そう考えたらばたかが50円でクヨクヨしないで済む。

でもさあ実際のところ、だれも世界の裏側がどうなっているかはわからないでしょう?
どんなに努力しても報われない人って世界にはいくらでもいるよね。
で、確率0.1%の成功者が「勝てば官軍」の法則に忠実に、後付けで成功の要因を語り、
それが当面のところ真実として市場経済のうえでは流通してしまうわけだ。
だけどさ、本当は成功者が成功した理由はそうではないかもしれないわけだよね。
長生きすればするほど、この世の禍福のメカニズムがわからないことに気づく。
わからないことは不安だから人は成功者の講演会に足しげく通うのだろうけれど。
しかし、わからないことを信じることで不安を消すという方法もあるのである。
この世はどうなっているのか縦糸(因果関係)も横糸(共時関係)もさっぱりわからない。
だが、わからないからこそ、それは信じるに足るのではないか。
人にはわからないことをわかっている大きな存在がいるとしたらどうなるか。
人には「わからない」が、しかし――。

たぶん、この「わからない」が
人気仏教ライターひろさちや氏のいう南無阿弥陀仏になるのだと思う。
われわれには「わからない」けれど阿弥陀仏にはわかっているのだろうから、
お任せ(南無)しようではないかという考え方である。
善悪も損得も禍福も、阿弥陀仏から見たら、
われわれの目に映っているものとは様相が異なるのかもしれない。
そう信じることが、ひろさちや氏の南無阿弥陀仏だと思う。
目先の善、目先の得、目先の幸福があとの悪、損、不幸につながってしまうのかもしれない。
たとえば、通り魔事件があったとする。
われわれの目に見えるのは、犯人が悪で被害者がかわいそうということだけである。
しかし、ひろさちや氏の南無阿弥陀仏から見たらどうなるか。

「ある青年が、いきなり通りがかりの女性を出刃包丁で刺しました。
刺されてけがをした女性はその青年と会ったこともないというのです。
刺した本人も会ったこともないと言っています。
そんな事件がありました。報道されたのはこれだけです。
しかしわたしは、縁のつながりを想像して、別の物語をつくったのです。
ある主婦がスーパーに買い物に行った帰りに、線路の横に捨て猫を見つけた。
ああかわいそうにねと思ったが、
自分のマンションでは飼えないから、買ってきたミルクをやった。
そのときに、もしもミルクをあげなかったら、その猫は死んでいた。
それなのにミルクをもらったがために命をつなぎ止めることができた。
それで野良猫になった。その野良猫が発情期を迎えてぎゃーぎゃー鳴いた。
ところが、受験勉強をしていた青年がその猫の声に気を取られて、集中できず、
それで勉強ができなかった。
たまたまその晩勉強していた部分が大学入試試験に出たので、不合格になった。
そのためにふさぎこんで、精神を病んだ。
それで、通りがかりの主婦を刺した。その主婦が、猫にミルクをやった主婦だった……と。
猫の命を助けたというのは、いいことですね。
しかし、猫の命が助かったことが、青年にとっては悪いことだったのです。
とすると、何がいいことで何が悪いことなのか、
つまるところはわたしたちには見えないのです」(P164)


物語を続けるならば、この通り魔事件の良し悪しもわからない。
刺されても死んでいなかったら、この事件が主婦の人生をプラスに変えていくかもしれない。
死んでいたとしても、息子がこの事件に発奮して優秀な弁護士になるかもしれない。
もしこの事件がなかったら、息子はぐれて人様にご迷惑をかける不良になっていたのだが。
もし息子が母の死の理不尽に苦しみ、すぐれた宗教家になって多くの人を救ったとする。
そうだとしたら、通り魔の犯人は悪をなしたのか善をなしたのかわからなくなってしまう。
なにがなんのきっかけになるかは、じつのところわれわれにはわからないのだろう。
成功という結果からなにかの原因をねつ造するのはインチキである。
なぜなら大勢がその成功原因を実行しても、さらさら富も名声も得られないのだから。
こうしたら不幸になると一般的に言われていることも本当にそうなのかはわからない。
遊び暮らしていた人が芸術の分野で認められてしまうこともないわけではないのだから。
本当はわからないんだろうけれど、わからないんじゃやりきれないので、
人々は一見すると科学的な物語をたくさんつくって、それを信じて生きている。
しかし、わからないをそのままで認め、わからないことを信じて、
つまり南無阿弥陀仏(=わかんねえよ!)と思いながら生きていく、
ひろさちや氏のような人生作法があることも知っておいて悪くはないと思う。
あるときは慰めになるかもしれないからである。あるときとは失意のとき、悲しみのときだ。
喜びにあふれた人生を送っている方には南無阿弥陀仏は関係ないだろう。

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