「官能教育」

「官能教育」(植島啓司/幻冬舎新書)

→もてもての自称学者にして正体はフリーライターの植島啓司氏の新刊をいまごろ読む。
内容は中年夫婦への不純異性交遊のすすめである。
もてもてで快楽の限りを尽くした植島氏は、
まるで美食家が最後にお茶漬けのよさに気づくように、
キスをするかどうかくらいの恋愛のときめきがいちばん心地よいという結論に達したようだ。
人間はだれもがおのれの体験したことを真実だと思うものである。
このため、植島氏は既婚者の男女にキス程度から始める不純異性交遊をすすめるのだ。
軽い皮肉を言うと、自分の快楽を他人もそうだと思うという錯覚が作者にはあるようだ。
氏がそれぞれの真実にはあまり目を向けず、世界には唯一の真実があり、
なおかつ自分はそれを知っているというある種の傲慢から抜け出せないのは、
やはり学者くずれという経歴が影響しているのだと思われる。

よほど注意をしないと「すべき」という提言はしないほうがいいのではないか。
植島啓司さんのようなもてる人はいろいろな女性と楽しめばいいと思う。
なかにはそういうことにあまり関心がない男女も少数ながらいるのである。
というか、本当はみんな恋愛なんてどうでもいいはずなのにメディアが恋愛をあおりすぎる。
むかしは価値があったのかもしれないが、いまのインフレ化した恋愛はどこか汚らしい。
しかし、インフレ化したため大量生産、大量廃棄の商品となった恋愛は、
たとえば植島啓司氏のような御用学者がメディアに召し抱えられ大量販売されるわけだ。
既婚の中高年も「恋愛すべき」という自称宗教人類学者の植島氏の主張の根拠は――。
1.週刊誌の記事(いけてる中年女はみんな不倫しているぞ)
2.西洋の偉人さんの言葉(控えよみなのもの、紅毛思想が目に入らぬか)
3.うさんくさいネット記事の統計(みんなキス友がいるよ、時代に乗り遅れるな)
どこまで落ちていくんだ、植島啓司先生――。

人生は不平等である。本書は既婚者への不純異性交遊のすすめだ。
しかし、いまは(わたしをふくめて)たったひとりの配偶者にさえ恵まれない男女がけっこういる。
いっぽうで女性がひっきりなしに「抱いて」と近づいてくる植島氏は、
性の快楽を数的にも質的にも極限まで味わい尽したようだ。
その結果、女になるのが最上の性的悦楽だとこの官能学者は思うにいたった。
ひょっとするとそうではなく、
ただ植島さんの個人的性癖として寝取られるのが好きというだけかもしれないけれど。

「……いまやセックスの主人公は女であるという宣言である。
男は、彼女に襲いかかる連中の側に立ってともに女を犯す存在であったり、
彼らに犯される最愛の女の側に立って一緒に辱しめを受ける存在であったりしつつ、
右往左往しながら、なんとかしてその歓びをかすめとらんとするばかりなのである」(P144)


植島さん、死ぬのが怖くないのかなあ。
これだけ今回いい思いをしたんだから、生まれ変わりがあったとしたら、
今度はひでえ環境に生を享けそうな気がするんだけれど、他人事ながら。
しかし、まだまだなにが起こるかわからないんだ。
植島さんにもこれをお読みのみなさまにも、これから人生でなにが起こるかわからない。
これは真実である。
たとえ「人を喜ばせることが真実である」という定義にのっとっても疑いなく真実である。
人生は紙一重で、もしかしたら映画(「運命の女」)のようなことが起こるかもしれない。

「人生は本当に紙一重だと思う。
もしもあの日ソーホーへと出かけなかったら、強風でなかったら、
もしタクシーが拾えていたら、彼女の運命は変わっていたにちがいない。
人生ではささいなきっかけから思いもよらぬ世界へと入り込んでしまうことがある」(P120)


「人を喜ばせることが真実である」ならば、大半の映画は真実を映しているのだろう。
まあ、いくら真実でも「運命の女」などという陳腐なタイトルの恋愛映画は見たくないけれどね。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3743-627e7401