山田太一講演会

6月15日、経堂のすずらん会館に山田太一さんの講演を聞きに行く。
主催は生活クラブ東京。タイトルは「時は立ちどまらない」。
以下にメモする講演内容はみなみな、
当方のダメダメな耳、ボケかけた記憶力、つたない表現力によります。
よって、まず現物とはまるで違うものになっているということをご認識のうえお読みください。

――タイトルの「時は立ちどまらない」というのは、
ちょうどこのドラマの仕事をしていたときに講演会のお話をいただいたものですから。
でも、ほんとに時って立ちどまりませんよね。
なんだかんだ言っていても時は立ちどまりませんから助かります。
もっともどんどんシワが増えちゃって、といいことばかりではありませんが(場内笑)。

最近ドラマで書いた人物は、2歳のときに父が死んでいるという設定にしたんです。
2歳で父親が死んで、母親はそれからずっと息子とふたりで住んでいる。
男親がいない育ち方をした、いま25歳という設定の男性をドラマで書きました。
こういうとき、僕は考えますね。
いったいどういうマイナスがあって、どういうプラスがあるのか。
2週間ほどまえ、テレビの座談会で中井貴一さんがこう言っていました。
自分は父が早く死んだので、男とのつきあい方が長らくわからなかった。
男が苦手だ。父がいなかったから年上の男性にどう接したらいいかわからない。

これは僕も思いましたですね。就職して年上の上司とどう接したらいいかわからない。
そういうとき、まだ父親がいたからわりあいうまくいったのかもしれません。
こう考えると、片親育ちというのはマイナスです。しかし、欠落はプラスでもあるのではないか。
むかしは片親しかいない家庭を欠陥家庭と言っていたんです。
いまでは信じられないでしょうが、お役所言葉でもそうでした。
だったら、その欠陥家庭を書いてみようじゃないか。
お父さんと息子ふたりの家族。お母さんと娘ふたりの家族。
このふたつの家族が交流していく「3人家族」というドラマを僕は書いたことがあります。
たしかに欠陥は事実を見ることをさえぎります。
でも、考えてみたら両親がきちんといる家庭も、そのために事実が見えていないことがあります。
欠陥家庭なら見えるような事実が、欠陥していない家族には見えない。
そう考えると、どっちも欠陥があるとも言えるのではないでしょうか。
欠陥、欠陥とひどいようなことを言いますが、
苦労があることで人間はものごとをいろいろ考えるようになります。

テレビ局はいい大学を出た成績優秀な人ばかり選びますでしょう。
でも、そうしちゃうと苦労の細かなニュアンスとかを理解できないんですね。
だから、僕は言ったことがあります。
ドラマ制作に採用するのは欠陥家族の子を優先したほうがいいんじゃないか、なんて。
両親がいない子がいたらもっといい(場内笑)。
きっとそうすれば、いろいろなものがこもる話ができるように思いますですね。

人生を振り返ってみますと、幸福な思いは意外なほど強く刻み込まれていないんです。
不幸のほうがずっと心に滲みこむ味のあるものになっています。
不幸、つまりマイナスをいまの社会がうまく使いこなせていないような気がします。
少しまえは、とか僕のような老人が言うと数十年まえだったりするんですが(場内笑)、
苦労自慢というのがございましたね。
たくさん苦労をした人のほうが尊敬される。いまはそういう価値観がまったくありません。
マイナスに対して再評価するゆとりのようなものが必要ではないかと思いますですね。
時は立ちどまりませんから、社会はがらりと変わってしまうことがあります。

いまはそうではないのでしょうが、フェミニズム。
フェミニズムが台頭してきたころは、それはもう教条主義ですごかったですね
女の子が女の子っぽくなるのは親のせいだからよくない。
男女平等に子どもは育てなければならない。
でもですね、うちは女の子がふたりいますが、ふたりのうちでも違うんですね。
子どもは白いカンバスだ、といったようなことも言われました。
白いカンバスだから親が自由に描きこむことができる。すべては親の責任だ。
まるで原理主義のようなことが言われていました。
フェミニズムの評論家は、うちの子は女の子だけど機関車で遊ぶ、とか言うんです。
じゃあ、うちの子はと言い返しても、お互いそんなもの証明不能でしょう。
だいぶやりこめられた記憶があります。
それだけ当時は男性上位だったんでしょうかね。
男と女は一緒ではなく、むしろ男と女が違うから恋愛したり結婚するような気もしますが。

そういうところでも、どういうところでも、本当はどうなっているんだろうか?
本当はどうなっているかを考えるようにするといいと思いますですね。
ところでサッカーはどうなりましたか? え、負けた?
僕は途中で経堂の講演会に行かなくちゃって出てきたのですが(場内笑)。
サッカーもそうでしょう。むかしはだれもサッカーになんか見向きもしませんでしたよね。
あんな小さなボールを大きなところで蹴り合っているのを見て、なにがおもしろいんだ?
なかなかゴールしないし、見ていてもぜんぜんおもしろくない。
こんなふうに言われていました。しかし、いまはどうでしょう。サッカー一色ですよね。
逆にサッカーを見ないほうがおかしいと言われそうなくらいです。
こういうところに怖さがあると思いますね。人間なんか簡単に変わっちゃうぞという怖さ。
サッカーの話をしましたが、野球だってそうでしょう。
肉体に秀でた人が速いボールを投げて、それをバッターが棒切れで当てようとする。
だから、なんだって言うんです。あんなもん非生産的じゃないですか(場内笑)。
考えてみたら、野球のなにがおもしろいんだ?
当たり前のことでも少し疑ってみると変に見えてくるということがあります。
なるべくなら事実に近くなったほうがいいのではないでしょうか。
戦争とか起こって過激な社会になったら、あらゆることが本当に近くなるでしょうね。
でもいまは平和だから本当のことが見えにくくなっています。
戦争中だったら命をかけてチョイスしなければならないことも、
いまの平和な時代なら「ま、どっちでもいいんじゃないの」みたいな(場内笑)。
だいたい氷のうえをきれいにすべったって、それがいったいなんなんですか?(場内笑)
氷のうえをすべっているだけなんですよ。
もちろん、必要なのはわかります。
(退屈な)生活を助ける(うるおす)装置として、ああいうのも必要なんでしょうけれど。
でもでも、でもですよ、本当のことを言ったら、
80%くらいのことはじつはどうでもいいことなのではないか?
そういうふうに疑ってみることです。本当はどうなんだろうと疑ってみる。

中学受験の国語問題として僕の文章が使われることがあります。
問題として出てから一部送ってくるんです。二部送ってこられても困りますが(場内笑)。
それを読んで思いましたね。
小学6年生が中年の考えをなんでわかる必要があるのか?(場内笑)
もっとレベルが高い予備校の問題に使われたときもそうです。
たとえば、このときの登場人物の気持はどうだったでしょう。
1.悲しい、2.苦しい、3.寂しい、4.嬉しい――。
正しい答えをどれかひとつ選べと言われます。
しかし、しかしです。
文学というのはそういうチョイスをしないで丸ごと把握することがたいせつなんです。
質のいい子はこう答えると思いますね。「ここに答えはないよ」
あるいは「ぜんぶ答えだよ」かもしれません。
でも、それじゃあ点を取れないでしょう。
だから、採点者の気持を探るようなことをしなければならなくなる。
まるでギャンブルのように問題作成者の気持を読んで「寂しい」を選択する。
こういうのはどこか神経症的な世界だと思いますですね。

数学もそうです。中学、高校と数学を習います。
僕なんか社会に出てから、小学校で教わった算数以外は必要としたことががありません。
一生知らなくても困らないことで、なんであんなに苦労しなくちゃならないのか?
これなんかもリアリティがないと思いますですね。
そりゃあ、ピアノの幼児教育のような特殊例はあるでしょうけれども。
大学を出たって、自分で必要なものはわずかじゃないですか。
歴史なんて大河ドラマに教わっているようなものでしょう。
あの歴史が正しいのかどうかはわかりませんが。
どこかリアルじゃないと思う。
人間が生きていくために役に立つものと教育がまったく違うものになっている。
まあ、これは何人もの人が声をあげていかなきゃ変わらないのでしょうが。
いや、何人くらいではダメか。変わりようがないのかもしれません。
無駄な勉強は変わらないかもしれない。

スマホはなかったら困るんでしょうか?
なんでもメールが来てすぐに返信しないと失礼に当たるのだとか。
僕はファックスは使うけれどスマホはもういいです。
いえ、メールをやってもいいんですけど、よけいな苦労をしょってしまう気がして。
なければないでいいわけでしょう。
メールをやるといろんな人に返事をしなくてはならなくなってしまいます。
ずっとスマホをやっていると、
いつ自分についてとか他者について考える時間があるんでしょうか。
いったい私たちが本当に求めているものはなんなんだ。
そういうところのリアリティがいまは失われているような気がしますですね。
本当はなにを求めているのか?

テレビをつけたらコマーシャルがやっていますでしょう。
これはシジミ3千粒のエキスがどうだのと。え? と思いませんか?
なんでシジミが3千粒も必要なんだろう(場内笑)。
そんな必要ないんじゃないか。お味噌汁にシジミはいくつ入っていますか。
化粧品の広告もそうです。画面に出ますでしょう。
「これはぜんぶ個人の感想です」って。なにそれ? と思いませんか?
だって、それはだったら「これは嘘です」って言っているようなものなのですから。
そうでしょう? 「個人の感想」って言っているんだから(場内笑)。
すごい変だなって僕は思う。
私たちの社会がなんか異様なものになりつつあるのではないか。
本当はどうなっているのか? 本当はいったいどうなっているのか?
リアリティが失われているのではないか?
カラオケでも点がつきますよね。
あれはカラオケ機械のなかに基準があって、その通りに歌うと高得点になるらしいです。
しかし、その基準で歌わないほうがいい歌になっていることもあるでしょう?
どっかで事実と違うようになっている気がする。
人間は元々なんだったのか? 人間は元々はどういう存在か?

自分の家に子どもが産まれてくるとがらりと変わりますですね。
子どもが産まれてくるというのは、出産に無関係な男の感想かもしれませんが。
女性は産まれてくるどころじゃなく、もっと生々しい感覚がおありでしょう。
子どもはそれまでの価値観を持たないで生まれてくるんですね。
赤ちゃんはたえず見ていなきゃなんない大変さがあります。
それまで「人の世話をしない、世話にもならない」なんて洒落たことを言っていても、
いざ赤ちゃんが産まれたらそんなことを言っていられません。
僕は子どもにリアリティをたたきこまれましたですね。
子どもを育てることは、基本的なことを教えてくれます。
たとえば、生存になにが大事か? とか(場内笑)。
子どもが産まれた喜びというのは、それはもう大変なものでした。
子どもがこう手をあげて自分のところに飛び込んでくる。
体当たりしようというんじゃありませんよ(場内笑)。
抱きついてくるわけです。そのとき思いましたもん。こんな幸福があるのかって。
ここまでいい思いをしたんだから、あとはどうぐれようが、元はもう十分に取ったと思いました。
でも、子どもを育てるのは大変です。
デパートに子どもなしで夫婦ふたりで行けたらどんなに幸福か。
そういうやっかいさはありましたけれど。
子育てをしている人に言いたいのは、いまは大変でしょうがそれは一瞬なんですね。
永久に続くような感じがするでしょうが、あとから振り返ればほんの一瞬。
子どもはすぐに親から離れていきます。
またそれが成長するということなのですけれど。

夕方、歩いていると、僕は散歩をするんです。怖いのが後ろから来る自転車です。
もうなにも言わずにびゅんびゅん通り過ぎていきますから。
常に後ろを注意していますね。おかげで老化を防げているのかもしれません(場内笑)。
でも、あれはなんて言うんでしたっけ? ママチャリ?
まえとうしろのカゴに子どもを乗せて走ってくるお母さんの自転車には腹が立ちません。
いえ、もちろんぶつけられたら怒りますよ(場内笑)。

子どもが鍛えてくれるということがかなりあると思います。
いまは言葉がふわふわしているのではないでしょうか。
それはなぜか。どうして言葉がふわふわしているのか。
本当の事実によって言葉を裁いていないからではないだろうか。
そう僕は思いますね。
いまは「たしかにきれいな言葉だけど空疎じゃないか」
と言葉を弾き飛ばすようなリアリティがない。
「イマジン」でジョン・レノンは理想論を歌っています。
とてもいい歌だと思いますし、僕もジョン・レノンは好きですよ。
歌いますよね。みんながそう思えば、国籍もない、性別もない、うんぬん。
それはきれいな言葉ですが、じゃあ、1週間中東の人を家に泊められるか。
中東と言ったのはとくに理由はないんですが、1週間は持たないでしょう。
これは東北の被災者でもおなじです。

自分の悲しみは人に肩代わりしてもらえないんですね。
たとえば、自分の息子を亡くした悲しみ。これはもうだれも肩代わりできません。
救援物資を持って来た人が、あなたの悲しみはわかりますと言う。
そりゃあ、ものをもらうから「ありがとう」とは言うでしょう。
しかし、悲しみをだれかと共有するということはできません。
結局、人間はみんなひとりで死んでいくんです。
ひとりで死んでいくのが当たり前にならなければならないと僕は思いますですね。
よく言うでしょう。亭主が死ぬと妻が元気になるとか(高齢女性ばかりの場内爆笑)。
僕も近所でそういうケースをよく見かけます。
でも、なにかで見ましたが亭主が死ぬと奥さんのほうもダメージを受けるらしいです。
いまはもう戦争を知っている人も少なくなりましたが、戦争では多くの人が死にました。
僕も母と兄ふたりを戦争で亡くしました。
爆弾に遭ったわけじゃないけれども、薬のなさ、貧しさは戦争の影響ですからね。
いろんな不幸がありました。
このためか戦中や戦後すぐの映画には決まり文句があったんです。
「死んだら終わりよ」「なにがあっても生き抜くのよ」
それで戦争が終わり、しばらく経ったらどうなったか。
「ただ生きているだけじゃダメよ」「豊かに生きなきゃダメよ」(場内笑)
こんなふうに時代が変わると価値観も変わってしまいます。

現代はたとえば脳にダメージがあって、もう話せない人とかおられますでしょう。
胃ろうをしていてものを食べることもできない。会話も無理。
なにからなにまで人の世話にならなければ生きていけないような人。
私たちはこういう人に対して思いますよね。
これで生きていてなんの意味があるんだろうかとか、ねえ?(場内、気まずい雰囲気)
あ、ねえ? とか、ねえねえ? なんて言っちゃいけないのか(場内笑)。
NHKの「放浪老人」で胃ろうをしながら生きながらえている老人にインタビューするんです。
まだ生きたいですか? 
身よりもいない会話もできないものも食べられない老人は生きたいと意志を表明します。
もちろん、生きたくないなんて言ったらNHKでは放送できませんけれど。
僕なんかは思いましたね。それでも生きたいのか。その人の気持がわからなかった。
しかし、考えてみたらどうでしょうか。
よく言いますでしょう。
意味がある生き方じゃなきゃダメだ。
楽しみを見つけている人しか生きる価値がない。
こういうのはすべて本当は間違っているのではないか。

たとえばこのへんでふらふらしている人がいる。
一方で豪華客船に乗っている人がいたとします。
ふつうは豪華客船のほうの人が充実した生を送っていると考えがちです。
しかし、もしかしたら近所をふらふらしている人のほうが豊かな世界を持っているかもしれない。
そうでしょう? どうしてそうじゃないと言い切れるでしょうか?
いまは情報のプッシュが多いでしょう。
たとえば、教養を積まなきゃ、とか。ああ、もう教養の価値はないか(場内笑)。
こうしたほうがいい、ああしたほうがいい、いろんな情報のプッシュがあります。
しかし、そういうプッシュは空疎な価値観ではないでしょうか。
温泉に行こうなんてそうでしょう。
「ためしてガッテン」によると、温泉に入ると逆に疲れるらしいですよ
「じゃあ、どうして疲れちゃいけないの?」と聞かれると困りますが(場内笑)。
温泉に行きますと料理がずらりと出てくるでしょう。
あれはどこかきちがいじみていますよね。リアリティがない。
本当の満足は別にあるのではないか?
家内から温泉に行こうと言われますでしょう。
うちでゴロゴロしているほうがいい、と僕は答えますもん(場内笑)。
それでも行こうと言われて行くこともあるんです。
温泉に入って部屋に戻る。ゴロゴロしながらテレビをつける。
なんだ、うちとおなじことをやってるんじゃないか、と気づく(場内笑)。

「温泉に行こう」ばかりではありません。
事実というのは少し揺さぶると嘘ばっかりではないか?
その嘘にとらわれて生きているところが私たちにはないだろうか?
たいせつなのは――。
ひとりひとりが世界の嘘とは関係なく、自分のリアリティを探すことではないでしょうか?
リアリティは喜びと言い換えてもいいでしょう。
なにが自分にとって本当の喜びなのかをリアルに考えてみる。
世界の嘘とはつきあわず自分のリアリティをたいせつにしてみる。
とはいえ、これは自分のリアリティの話であって、人には押しつけないほうがいいと思います。
というのも、人に圧迫を与える「よいこと」がありますでしょう。
みんな若返らなきゃならない、とか。
私たちの価値観は、あまり自由ではありません。
美しいバラを見ると、あれだけきれいなんだから食べてもおいしいだろうと思っちゃいます。
実際はバラはきれいだが食べられない。
きれいな人なんかもそうで、きれいだから頭がよさそうに見えるかもしれない。
しかし、きれいな人が実際に頭もよいかといったら、
かならずしもそういうわけではありませんよね(場内笑)。

戦争のリアリティというのは、戦争を知らない人にはなかなかわかりません。
じつは戦争中フィリピン人を日本兵はたくさん殺したそうです。
でもフィリピン人は中国の人みたいに言わないですよね。
言わない人にだいぶ助けられているところがあるのではないでしょうか。
ひとたび戦争が起こってしまったら、なかなか局外に立てなくなります。
小林秀雄がこういうことを言っていました。
「戦争が起こったら僕は一兵士として戦争に行くしかない」
ワールドカップみたいにワーッとなっちゃうともう反対の声をあげられないんです。
なにもないときは戦争反対と言えても、いざどこかの国からミサイルを撃ち込まれたらどうか。
何十人が死んだとする。この何十人を相手国との交渉で手打ちにするなんて無理ですよ。
一気に戦争に走ってしまうでしょう。
イギリスのフォースターという作家がこういうことを言っています。
「自分は信条など(自分の信条も相手の信条も)どうでもいいと思っていても、
いざヒットラーが信条を言ってきたら、突きつけてきたら、
こちらも信条を持たなければならなくなる」
それではそろそろ時間になりましたようなので――。

(質疑応答)
この講演会では事前に質問用紙が配られ休憩時間に集められた。
山のような質問用紙を手にしてそこはかとなく当惑する山田太一さん。
まず主催もとの男性社員さん(?)が特権を生かし(?)子育てについて口頭で質問する。
彼は「タケシです」とだけ名乗った。
1.中学3年生の娘がいるけれど、妻と教育方針が異なるがどうしたらいいか?
2.会社はきれいごとばかりで本音がないがどうしたらいいか?(おいおい、内部告発かよ)
3.これからの日本はどうしたらいいと思うか?
山田太一さんのお答えは、親は子と一緒にいるだけで教育になっているのではないか。
基本的にかわいがっていたらいい、というもの。
会社批判は意識的にか無意識的にかスルー。
「これからの日本はどうしたらいいか?」に山田太一さんがどう答えたかは忘れちゃった。
おそらく当方が「これからの日本」とかどうでもいいからだろう。
正直それどころじゃなく、日本よりなによりまず自分のことだからさ、ごめんちょ。

その後、山田太一さんは質問用紙を持て余したようにパラパラめぐりながら――。
読書の効用はですね、とある質問に答え始める。
自分が読書を始めたきっかけは現実からの逃避であったが、いつしか癖になってしまった。
本は他人のおすすめを読むのもいいが、自力で探すのも楽しい。
そのためには立ち読みをすることだ。
どこでもいいからパラパラ読んでみたら、その文章の質のようなものがわかるだろうから、
それで読むかどうかを決めたらばいい。
本はたえず疑いながら読むとおもしろい。
本(の内容)を信じるよりも自分(の感覚)を信じて読書をするといい。
最近、読んでおもしろかったのは中公新書の「ハンナ・アーレント」(矢野久美子)。
でも、向き不向きがあるからだれが読んでもおもしろいわけじゃないと思う。
また質問用紙の束をパラパラめくりながら、
自分のドラマのなかでもっとも自信作は? の問いに答える。
たくさん書きましたから、どれがいちばんと順位をつけたくありません。
おそらく質問の内容は身の上相談の嵐だったような気がする。
山田太一さんは質問をほとんど無視してこんなことをおっしゃる――。

人(ひと)の為(ため)と書くと偽(にせ)という言葉になりますでしょう。
どうしてそうなるんでしょうね。しかし、うまくできていると思います。
人の為と書くと偽物になってしまう。
あまりいろいろ期待しないほうがいいと思いますですね。
先ほども申し上げましたように結局はひとりで死んでいくんですから。
これで質疑応答を切り上げ、講演会は終了と相成りました。

(注)へたをすると山田太一さんの講演内容ではなく、
すべてこちらの妄想かもしれませんのでご注意あれ。
誤字脱字失礼。少しずつ修正していきます。

聞き手:土屋顕史(Yonda?)

(参考)過去の山田太一講演会↓
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