善悪を超える

人間のどうしようもなさは善悪にとらわれざるをえないところだと思う。
わたしはどうしても自分が善で、だれかが悪だという考え方をしてしまう。
わが国が正しくて(善)どこかの国が間違っている(悪)だという思想も根はおなじだ。
だれかが自殺したのは、だれかのせいだという思い込みも善悪に依拠していよう。
創価学会が善で、だれか特定個人が悪だというのも、この世の狭い善悪の分別ではないか。
同様、創価学会が悪だというのも善悪にとらわれているおなじ穴のむじなだろう。
人間はどうしようもなく自分は善でだれかが悪だという考え方から逃れられない。
とはいえ、そのだれかだって人間なのだから、
自分は善で(たとえば)あなたやわたしを悪だと思うのは必然ではなかろうか。
相手の立場に立ってしまったら、相手が善で自分が悪としか思えなくなるだろう。
うつ病だ、うつ病、うつうつ、うつがやって来る。
自分が悪で周囲が善だと思うようになるのが、うつ病のきざしではあるまいか。
もしかしたら、よしんば、仮定の話だが、
あるいはいままで自分は善でだれかが悪だと思っていた人の一歩進歩したのが
うつ病という状態なのかもしれない。
が、だれかのせいで自分はうつ病になったと思う人も少なくないと思われるから、
そこまでうつ病患者さんを(病気はしんどいでしょうが)肯定的に評価したくない。
相手が善で自分は悪だと反省することもまた、
しょせんは善悪にとらわれたちっぽけな見方なのかもしれない。
もし善悪がなかったとしたらどういうことになろう。
だれが悪いわけでもない。こうなったことになにか特定の悪い原因があるわけではない。
善も悪もない。彼岸から見たら善も悪もないではないか。
たましいの話をしたら善も悪も薄っぺらい世界観にならないだろうか。
どうしたら善悪を超えられるのか。
善も悪も超えたものが、あるいは存在するのではないかと空想してみることだと思う。
「そこ」から見たら善も悪もないという絶対の境地。
その絶対は「死」であり「自然」であり「偶然」だとわたしは思う。
トラウマや被害妄想は善悪の物語である。
そうはいっても勝利物語も、
さらにそのうえをいく大勝利物語も善悪の物語にすぎないのである。
善である自分が悪であるなにものかに勝利(あるいは大勝利←ぷっ)した。
いったい善悪によらない物語とはどういう物語であろうか。
そこにヒントがあるような気がする。それは刑事ドラマでも嫁姑ドラマでもないだろう。
刑事も罪人もどちらも善である。嫁も姑もどちらも正しい。
ああ、善悪を超えることができたら! なにが善なんだよ、なにが悪なんだよ、笑わせんな!
善悪がないならば、人はなにをしてもいいことになる。
自殺をしても、殺人をしても、窃盗をしても、詐欺や脱税をしても、自己陶酔してもいい。
酒やタバコをのんでも、贅沢しても貧乏しても、ニートでもひきこもりでも精神病でもいい。
あなたも悪くないし、わたしも悪くない。あなたもわたしもとりたてて善ではない。

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