「ダウト」

「ダウト」(ジョン・パトリック・シャンリィ/鈴木小百合、井澤眞知子訳/白水社)

→戯曲。アメリカ産。2005年、トニー賞&ピューリッツァー賞を受賞した米国話題作。
自分を善にする手っ取り早い方法は、
だれかを悪人に仕立てあげ弾劾することなのかもしれない。
善悪というのは相対的なものだから(あるいは相対的なものだとしたら)、
善人になりたかったら悪を見つけて「ダウト(疑いあり)」と言えばよろしい。
どれだけ悪を攻撃できるかが、おのれの善の証(あかし)になってしまう。
そうだとしたら、善人になるためには悪人をつくるしかないということにならないか?
新興宗教団体(たとえば創価学会)が悪役をつくって総がかりで攻撃するのは、
自らの善を誇るにはそうするしかないからなのかもしれない。
善人になるためには悪をたたくしかないのかもしれない。
国際政治にはまったく疎いが、アメリカが善なのはイラクが悪だからでしょう?
こういう善悪の構造を傑作芝居として成立させた作者の手腕には感心する。
さすがは天才ユージン・オニールを祖に持つアメリカ現代演劇である。

この芝居ではだれが「ダウト(疑いあり)」と言い善人ぶるのか。
カトリック学校の校長である、いかにも更年期障害といったシスターである。
このシスターばばあは、30代後半の神父を怪しいと攻撃するのである。
舞台の時代は1964年。シスターよりも神父のほうがはるかに立場が上だった。
どうして古くさく厳格な50代とも60代とも見える校長のシスターが神父を攻撃するのか。
神父が学校で唯一の黒人生徒(12歳)に親切にするからである。
あれは神父が少年愛の嗜好の持ち主で、黒人生徒を性的虐待しているに違いない。
シスターは自信満々でおのれの善を誇り、神父先生を弾劾する。
神父は旧時代的なものが嫌いで教会を変えようという進歩的な野心ある先生だった。
自称善人のシスターと、自称善人の神父の対決はじつに迫力がある。

シスターと黒人生徒の母親との会話もおもしろい。
母親はおもしろいことを言うのである。
たしかにうちの息子は同性愛の気があるのかもしれないと認めてしまう。
しかし、どうしてそれがいけないのか。
うちの息子は黒人だから公立学校でもいじめに遭った。
だが、この学校に来て黒人生徒は息子だけなのに神父先生が親切にしてくれた。
たとえ同性愛だったとしても双方が納得していたらいいのではないか。
自分は真実はどうであれ、うちの息子に目をかけてくれた神父先生に感謝している。
更年期障害(?)のシスター校長は納得しない。
真実を明らかにして、悪人たる神父を追放しなければならない。
シスターの「ダウト(疑いあり)」の根拠はおのれの経験だけである。
にもかかわらず、証拠があると嘘をついて神父の悪評を高める。
すべてはおのれが正義でありたいために!
結局、神父は狂信的なシスターに恐れをなして移動願いを出す。
かといって左遷されたわけではなく栄転である。
教会上層部はシスターの告発をまるで認めなかったのである。
芝居の最後で新米教師(シスター)が独善的な校長に言い放つ。「ダウト(疑いあり)」

巻末に著者のインタビューが掲載されていたが、たしかに作者は、
真実は老シスターと神父のどちらにあるのか劇中では示していないのである。
そこは観客に任せたいと。
さあ、演出家も務めた劇作家は、役者にはどう説明していたか。
老シスターには神父が少年愛の性的嗜好の持ち主かどうか、その真実は言っていないという。
あえて言わないほうが追及の迫力が増すからというのが、その理由である。
だが、神父役には真実を伝えたという。ただしそれは公開しない。
あくまでも観客にゆだねたいのだろう。
わたしの個人的判断では、「ダウト(疑いあり)」は老シスターだと思う。
善人ぶりたいがために、
おばあさん校長先生は進歩的な神父先生を悪に見立てたとしか思えない。

こういう傑作戯曲を読むとほんとうに生きていてよかったと思う。
ただし実際の芝居を見に行くことはなかなか難しい。
休日のためすることもなく、1日に戯曲を4つ読んだのであった。
そのうち(平均5千円支払って)芝居で見てもいいと思えるのは本作だけであった。
いや、この作品でさえ5千円払っていたら、どんな酷評をするかわからない。
古本屋で250円で買ったから、こうまで激賞できるのかもしれない。
とはいえ、ほんとうにいい劇作だった。テーマは真実とはなにか?
これはわたしのテーマでもあるから、こんなにおもしろかったのだろう。

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