「心の扉を開く」

「心の扉を開く」(河合隼雄/岩波書店)

→河合隼雄さんの利権ってどうなっているんだろう。
本書は氏が晩年に行った読書推奨セミナーの内容を書籍化したもの。岩波書店刊。
なぜか今年の2月、新潮文庫から「こころの読書教室」という別タイトルの新刊として出た。
経緯はよく知らないけれど「河合隼雄賞」なぞといういかがわしい学術賞まで創設されている。
あのね、関係者のみなさん、ただでさえ河合隼雄さんはうさんくさいんだから、
そうまでして池田大作さんに似せなくてもいいと一読者に過ぎないわたしは思いますよ。
生前の河合隼雄が自分の名前の賞ができることを知ったら卒倒したと思う。
みんながみんな橋田寿賀子のような人間ではないのである。

本書はもっと本を読もうという企画からスタートしたセミナーのはずである。
終わりの質問コーナーで挙手して、こう発言していたらどうなったか。
「読書なんて意味がないと思います。実体験にかなうものはないのではないでしょうか?」
河合さんならどう答えていたか。
「そら、もう本当です。その通りでして。本なんかいくら読んでもあきまへん」
場内は爆笑したのではないかと思う。
別の人が挙手して、こう言ったとする。
「あたしは死のうとまで思ったとき、ある本に出会って死ぬのを思いとどまりました」
「そら、もう本当です。読書をすると、そういうことが起こります」
河合隼雄のすごさは絶対的真理がないことを実体験としてよく知っていることである。
絶対的真理(本当の本当)がないならば、氏の発言はすべて嘘になろう。
すべて嘘ならば、氏のあらゆる著述は本当と言ってもいいことになってしまう。
河合さんは自分から自分のことを嘘つきだと自己紹介しているのだから恐れ入る。

わたしは河合さんをイカサマ師かなにかと思っているが、いちおうの肩書は心理学者のようだ。
そもそも心理学ってなんだろう。河合さんの専門は深層心理学と言われている。
心の深い層の心理学ってことだ。
それから河合さんは臨床心理学の専門家だ。臨床とは実際に役立つということだ。
さて、われわれの日常生活と河合心理学はどのように関係するか。
われわれは日常生活で感情を殺している。

「腹が立ったら、その通りに怒ってますか。怒ってないことのほうが多いでしょう。
職場で、課長に腹が立って、後ろから蹴ったろかと思ったけれども、
「あはは」とか言うてみたりとか(笑)。
たとえば商売している人やったら、お客さんが来ると、感じの悪いお客さんでも、
「ありがとうございます」と言うて、やってますよね」(P12)


われわれは本音を殺して建前でうまくやっていこうとする。
人間には内部(本音)と外部(建前)がある。
このうち内部(本音)はいったいどうなっているのかを研究しようとしたのが深層心理学だ。
たとえば、積もり積もったストレス(抹殺した本音)は人間の身体にどのように影響するか。
また河合さんのは臨床心理学だから、外部(建前)がうまくいくことを基本的には目標とする。
しかし、内部(本音)にも相当な価値があることを認める。
外部(建前)が本当でたいせつならば、内部(本音)もまた本当で価値あるものなのである。

「つまり、人間の自我というのは、外とものすごく関係しなくてはならないし、
内とも関係しなくてはならない。ずっと両面作戦なのです。
外に適当にすることがある場合は、そっちに心がとられていきますから、
そんなに内のほうは開かない。
ところが、今のわれわれは、外のことをそんなに心配しなくてもいいわけです。
フリーターとかニートとかいいますけど、
背景にはそれなりに食えるということがあるわけです。
あれが、ぜんぜん食えんかったら、違うと思いますよ」(P31)


もしかしたら仕事が好きな人も嫌いな人もどこか外に逃げているかもしれないわけだ。
「仕事を辞める」が口癖のような人も、
退職後に暇になって自分の内部と向き合うのは恐ろしいから仕事を辞められない。
またほどほどに仕事をしていれば内部をまぎらわすことができるから健康的でもある。
外部と内部の世界の相違は、わかりやすさの程度にあると思う。
外部の世界は一見すると整然とした因果関係で成立しているかのような様相を呈している。
千円を払えば、10分後に750キロカロリーのうまいランチを食べられるというわけだ。
上司が部下に命令したら、部下は言われたように動くであろう。
「こうしたらこうなる」というのがわかりやすい、これが外部の世界である。
人間としての深みにはやや欠けるかもしれないが、
外部だけでうまく立ち回れたら、そういう人生もまたいいのだろう。

ところが、外部からドカーンと内部の底に落ちてしまうものがいる。
それは一般的に心の病としてあらわれ、たとえば河合隼雄のような心理療法家に相談に行く。
内部の世界を外部とおなじものと考え、
いくら精神医学に頼ってもうまくいかないことがおそらく多々あるのだろう。
繰り返しになるが、外部の世界はわかりやすいが、内部の世界はよくわからない。
経済の仕組がよくわかり大儲けした経営者も、
なぜ自分の家族が突然不幸に見舞われたのかはわからない。
内部の世界は「原因→結果」というメカニズムで動いているのではないと考えたらどうか?
「原因→結果」以外の法則がわからないながらも心の奥底では働いているのではないか?
その存在は証明できないが、そうだとしたら見えてくる心の深い世界があるのではないか?
たとえば、友人が真っ青な顔で倒れる夢を見た翌日に
当人が死んでしまうというようなことがある。これはいったいどういうことなのか?
河合隼雄が注目するのは、こういう不思議な現象のわからないところである。
わからないことをわかろうとしないでわからないままたいせつにするという態度を取る。
なぜならわかりやすい外部の世界とは異なり、内部の世界はわからないからである。

「自分がこうやったから、こうなるんだとか、原因は何ですかとか、
原因を究明しましょうという世界で僕らは生きてるんですけれど、深い世界へいくほど、
「原因も何もあるか。あることはあるんやから」というのが起こる、
というか起こっていることが見えるといったほうがいいのかもしれません。
[吉本]ばななさんは、そういう共時的現象を、
すごくうまく書く力がある人だと僕は思います」(P105)


外部でわれわれがつながっているのは言うまでもない。
仕事場では大きな声であいさつして上司の命令にはやる気一杯で従わなくてはならない。
居酒屋でならば酔っぱらって女性バイトに多少卑猥な冗談を言っても構わない。
とはいえ、この場合のつながりは金銭を媒介としたものであることが多い。
河合隼雄が言うには、内部でも人間同士はつながっていると考えたらどうだろう。
さらに飛躍して深いところでは内部と外部もまたつながっているのではないかと指摘する。
これは真理の提示ではなく、
そう考えたら世界の見え方が変わるのではないかという、いわば騙しの技術である。
もし絶対的真理がないならば、世界は嘘だから、
だとしたら嘘の世界をどう見てもいいことになるだろう。
全員が共有する本当の世界などなかったら――。それぞれの世界しかないのだとしたら――。
河合隼雄は晩年に行き着いた「一即多多即一」(華厳経)の世界観を饒舌に語る。
内部も外部もふくめて、あらゆるものはあらゆるものと関係しているという世界観である。

「たとえば、ここ[セミナー会場]でも同じことがいえるのです。
私がここにいて、いま、ここにおられる人のことはある程度見て知ってるわけだけれども、
さっき言いましたね。どこかで戦争が行なわれているとか、
どこかで人が死んでいるとか、餓死している人がいるとか、
そういったことは僕は直接には知らない。知らないんだけど、
ほんとうはそういうことの全部、全部が呼応して、
私という人間を生かしてくれているのです。
私が私であるように、あるいは私という人間が成長するといってもいいんでしょうが、
私という人間が生きていくように、全世界が共鳴して、
私という人間を生かしてくれているんじゃないのかなというふうに、
僕は思ってるんですけど。
ただ、残念ながら人間である悲しさで、自分の周囲のことしかわかりません。
わかりませんけれど、自分一人の人間を生かすために、
世界でいろいろなことが起こっていると、考えてみるのもいいのじゃないでしょうか」(P68)


たとえば、ニート、ひきこもり、うつ、リストカット、摂食障害といった流行病がある。
それぞれの人は全体(宇宙)との関連でそうならざるをえないと考える。
なにが原因でなったと考えるのではなく、全体的に共時的に現象は生じていると見る。
そうすると、該当者はそれほど負の循環に落ち込まなくてもいいことになろう。
うつもノイローゼも全体との関連で自分が引き受けなければならなかった役割なのだから。
このように考えると、治らなくてもそう悲観的にならずに済むだろう。
しかし、治るときは治る。なぜならば、自然は刻々と変化しているからである。
春が来れば十代の少女が高校を卒業して大学に入るだろう。
この変化の流れもまた全体と関連しているわけだから、
うまくその変化に乗れば問題症状が解消することも絶対にないとは言えないだろう。
とはいえ、原因ばかり考えていると、重要な変化のきざしを見落としてしまうことになる。
どうしたら変化に敏感になれるのか。
魂(たましい)を見ようとすることではないかと思う。
魂とは見えないものだから、見えないものを見ようとするのがいいのだろう。
魂を見るとは、目に映るものは見ないで、見えないものを見ようとすることだ。
顔の美醜、給料の多寡、資産の有無、学歴の高低、会社の格、
そんなものにはとらわれずにいることがたぶん魂を見るということだと思う。
河合隼雄はどのように魂を見ていたか。

「私たちは自分はひとりで生きていると思っているけれども、
「そんなことはない。奥さんの力が大きいですよ」といったこともあるけれど、
必ずしもそういうことではなくて、私の家にいる蛇とか蛙とか、そういうのもみな協力して、
全部が協力して私の生は全うされていくのだというふうに考えられないか。
そうすると、やはり、魂ということはそう簡単なものではないのではないか。
魂を抜きにすると、誰が僕のために食べ物を作ってくれたとか、誰がお金をくれたとか、
そういうことばかり思うのですが、そんなんじゃなくて、というふうに思ったら、
人間が生きているということ、あるいは、人間だけではなくて、
ねずみが生きていることも、ハトが生きていることも、全部すごくて、
そういうのの、みんなのつながりとして魂があるということになりはしないか。
ひょっとすると、魂というのは、魂という限り、
私やあなた方とつながっているというだけではなくて、木とも蛙とも何とでも全部、
つながっているということになるのではないかという気がしてきますね」(P147)


絶対的真理はないなどというと人はみなバラバラになってしまったように感じるけれど、
魂というものがあるのだとすれば、
人間同士のみならず動物とも樹木ともつながっていることになる。
本当に魂の話をしたら、愛用のコップ、寝具やぬいぐるみのようなものとさえも、
われわれは切り離されているわけではないことになるだろう。
魂の話をしたら、なにがプラスでなにがマイナスかわからなくなるときもあるに違いない。
いや、そもそもの魂がわからないものだから、
魂のことを考えたらみんなわからなくなってしまう。
なにがいいことで、なにが悪いのか。なにが得で、なにが損失なのかもわからない。
ただし、人が生きている以上、変化はかならず生じるといってよい。
あの河合隼雄でさえあっけなくお亡くなりになってしまったのだから死は絶対的真理に近い。
河合隼雄が死んだとき、多くの秘密がこの世から消え失せたことだろう。
心理療法家はクライエントから聞いた秘密をもらさない人であった。
河合隼雄が死んでもうすぐ7年になるが、いったいなにが変わったのだろう。
人が死なないとわからないことがある。ならば、どの死にも意味があるはずである。

「人間ていうのは、ほんとうに大事なことがわかるときは、
絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います。
何かを得るために何かを失わなければならない。
失うのが惜しかったら、やっぱり獲得できない。
しかし、その失うものが命だったり、幸福だったりするから、大変難しいんですが」(P145)


命を失った瞬間、われわれはもっとも重要な真理を理解することになるのではないか?
もしその真理を生前に知っていたら、と歯ぎしりするほど悔しがる可能性もないとは言えまい。
われわれはみなだれもが死後に魂と正面から向き合うことになるのではないだろうか?

COMMENT

coco URL @
05/18 23:02
共時的現象. yonda?さんがくしゃみをすると
どこかで星が爆発するのです♪
Yonda? URL @
05/19 21:13
cocoさんへ. 

嘘つきの河合隼雄さんの言っていることって本当なんですかね。
もし本当ならばこちらに多少の変化がありましたから、
そちらの方面にも変化が波及していないとおかしいことになるのですが。
でも、あの人は嘘つきだからなあ。
またメールいたします。








 

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