「ファンタジーを読む」

「ファンタジーを読む」(河合隼雄/講談社+α文庫)

→本当のタイトルは「ファンタジーを読む」ではなく「現実を読む」だと思う。
我われはたいてい現実というものがひとつあるに違いないと信じている。
このため、あいつは現実を知らない、だの、自分は現実を知らなかった、だのと言う。
しかし、あるのはそれぞれの現実だけかもしれないわけである。
それぞれの現実を言い換えたらば、ファンタジーや物語になるような気がする。
我われはあるいは現実など生きておらず、
それぞれのファンタジーを夢心地で生きているだけかもしれないのである。
現実はなんだって起こりうるのかもしれない。
いくら世間では就職難と言われていようがあっさり仕事をゲットするものもいよう。
四十を過ぎた独身のおっさんがいきなり二十代前半の子と結婚することもありうる。
傍目には順風満帆な人生を送っているエリートが死ぬほど悩んでいることもないとは言えまい。
いままで楽ちん人生だったものがいきなり現世地獄に落ちることもある。
これまで友人のひとりもいなかった人が明日親友にめぐりあうかもしれない。
本当の現実はなにが起こるかわからないのだ。
ならば、それは現実ではなくファンタジーと呼ぶほうが適切ではないだろうか。
現実がファンタジーならば、それは創作ということだ。
もしかしたら夜見る夢のほうが現実で、現実らしきものは夢かもしれない。
すべてはじつのところ夢まぼろしで本当のところは存在していないのかもしれない。
本当なんてないもかもしれない。すべてウソかもしれない。

「夢か現実か、ウソか真実か、そんな分類にこだわる必要はないし、
こだわってみても、「そんなことだれにわかるだろう?」というものである。
大切なことは、そんな分類を超えて、
人が「私が見たもの」と真に言えることなのである」(P306)


どうしたらみんなの現実ではなく、自分だけの現実が見えるのか。
河合隼雄は「私の死」を意識することだと言う。
これはアジテーション(扇動)に近い。「私の死」を強く意識して生きてみろ。
そのとき世間的な損得や善悪、正否などどうでもよくなりはしないか。
「どうで死ぬ身の一踊り」と覚悟してヘタでもいいからひとりで踊ってみろ。
みんなから笑われてもいいじゃないか。

「死に対する自覚をもって人間が生きているとき、そこには
「何もかも前もって決められていたのだ」と思いたくなるような
不思議なことが生じる。というよりは、
ものごとのそのような側面がよく見えるようになる、と言ってもいいのかもしれない。
人間にとって、死ほど運命を感じさせるものはない。
「何もかも前もって決められている」ように見えるなかで、
人間としてできる限りのことをすること。
怖くてたまらなくとも、するべきことをやり抜くこと」(P119)


真実とは探し当てるものではなく、ウソを重ねる努力をして(ファンタジーのように)
創作するものと考えたらどうなるだろう。
このとき、ひとりではなくウソにつきあってくれる人がいたらどれほど幸いか。
小津安二郎の映画「東京物語」の老夫婦のようなものである。
「うちらもまあまあ幸福なほうじゃな~」
「ほんとそうですな~」
真実がなんだ。真実なんてどこにある。
どうせどれもニセモノに過ぎぬ真実めいた諦観や絶望で満足するよりも、
やれるもんなら死ぬまでホンモノの虚構である希望で自分を騙してみろ。
これが一見温和な河合隼雄先生の過激な遺言だとわたしは思う。

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