「偶然とは何か」

「偶然とは何か ――その積極的意味」(竹内啓/岩波新書)

→難しいのでよくわからなかったが、わかった範囲で自分の言葉で説明する。
われわれは生きているかぎり選択する。
この選択の結果、幸福になったり不幸になったりするわけである。
人生の幸不幸をわけるのは偶然だが、
この偶然はいまは確率として一見すると可視的になっているような気がするかもしれない。
つまり、こういうことだ。

[選択]→確率×結果のもたらす利益=期待利益

われわれはだいたいの利益を想像して確率をかんがみ選択する。
たとえば、A子は金持の娘でどうやらおれに気があるようだからプロポーズしてみよう。
結果はまあ偶然で決まるわけだが選択の仕組みはこうである。
競馬もそうでしょう。おおよその確率と利益を天秤にかけて馬券を買う。
ところが、である。この選択の機能にはいろいろ厄介な事情がある。
まず確率の問題である。確率は本当にわかっているのかという問題がある。
われわれは選択するとき、だいたいの確率を計算するがそれは客観的なものか?
客観的な確率などサイコロくらいのもので人生の選択肢における客観確率は存在しない。
つまり、みんな主観確率(心理確率)でしかないのである。

[人生]→主観確率×結果のもたらす利益=期待利益
[サイコロ]→客観確率×結果のもたらす利益=期待利益


さらに言えば、人生においては「結果のもたらす利益」も主観的判断でしかない。
どのくらい利益が上がるかというのはやってみないとわからないということだ。
さらに、である。人生の場合、選択者が時間とともに変わることもありえる。
人間が求めるものは時間とともに変わっていく。
若いころは美しい妻を希望していても、年を取ったら優しい妻を望むかもしれない。
そう考えると人生における選択は、合理的な確率計算では表せないことになる。

[人生の選択]→主観確率(?)×結果のもたらす利益(?)=期待利益(変化する)

一般的に現代では運や不運をコントロールできるという錯覚がはびこっている。
このとき偶然は不確実性、損失はリスクと言い慣らされている。
だが、上記の式を見たらわかるよう偶然はまったくコントロールすることができない。
確率といっても大概は主観的なものだし、結果のもたらす利益もじつはよくわからない。
期待利益とはいえ、時間とともに変化するものである。
若いときは高収入が魅力で入社しても年を取ったら時間の価値のほうが高まるかもしれない。
同様、主観確率ごときでリスクをコントロールできると思ったら大間違い。
確率の低い難病にどうしてかなってしまう人もいるし、交通事故に遭う人は遭うものだ。
いくら確率を学問的に見たところでしょせん偶然に左右されるのが人生というもの。
リスクマネジメントなんて学問的に見たらできるはずもない。
確率1%なのに成功するものがいれば、80%の確率なのに失敗するものもいる。
あらゆる成功や失敗をわけるものは、じつのところ確率ではなく偶然である。

そもそも確率からして怪しいのではないか。
というのも、確率というのは頻度でしかないのである。
多数回、選択を行なってはじめて確率どおりの結果がもたらされる。
一回きりの選択の場合、頻度にすぎぬ確率はまったく結果に影響しないとも言いうる。
言い換えれば、確率は一回きりの事象には適用できない(かもしれない)。
また、たとえ確率に意味があるとしてもどうだろうか?
客観確率は何度も実験してみないと出てこないのである。
人生の選択はどれも一回かぎりだから(初婚、就活)何度も試行して確率は出せない。
一般的に客観確率のようなものが出ているものがあるかもしれない。
たとえばいまサイコロで5が連続して7回連続出ているというような。
この場合、いままでの試行では5の出る確率が100%だからと5に賭けたらどうなるか。
無限回の試行をしないと正確な客観確率は出てこないのである。
いま目に見えているような確率モドキは、たいへんな偏りのあるものかもしれない。
さて、話を戻して、われわれはいまどういう現実に向き合っているのか。

[人生の選択]→主観確率(?)×結果のもたらす利益(?)=期待利益(変化する)

いまの確率も主観的かつデータ不足のためインチキだし、
将来の自分の価値観はわからないから期待利益も当てにならない。
ならば、どう選択したらいいのか? たとえば、結婚はどうしたらいいのか?
これは著者も力説していたが、結婚は確率や利益など考えずに好きな人としたらいい。
リスクマネジメントなんて考えながら結婚するものではない。
そもそも確率だってあやふやだし、将来どうなるかなんてだれにもわからない。

以上、各個人の人生における偶然は確率ではとらえられないということを見てきた。
社会における偶然による運不運はどうしたらいいのか?
ここで著者のすすめるのが助け合いである。
人生はまったくの偶然によって金持になるものがいれば、
同様まったく偶然でしかない理由で貧困や病気に落ち込むものがいる。
これは努力が足らないためではなく偶然だから、
富裕層が貧者や病者を経済的に助ける社会のシステムを構築すべきである。
比較的わかりやすいので、ここは著者の言葉を引用してみよう。

「また自由主義経済学者は、自由な市場経済の結果はすべて自己責任であり、
それについて不満をいったり、あるいはそれを是正するような政府の干渉を
求めたりすることは、「市場の効率性」を損なうものであるという。
しかし、どのような社会においても、
人間は親から受け継いだ遺伝子や生まれた環境に大きく作用[左右では?]され、
それらは多く偶然といわざるをえない。
「市場競争」の結果もまた多く「偶然」に影響されるものであるとすれば、
その結果は常に各人の自己責任に帰すべきであるということも成り立たないはずである。
「運」や「不運」は、各人にとっては、結局は自ら引き受けなければならないもの
であるとしても、社会の中で、自分の「幸運」は当然自分の権利であり、
他人の「不運」はその人の「自己責任」であって知ったことではないとするのは、
道義的に正当とはいえないだろう。
「運」「不運」は、他人と分かち合うことによって、
「偶然の専制」を和らげるべきではなかろうか。
そうしてそのことが人々の間の共感を増すことになれば、
それはただ与える側の人のマイナス分が、受ける人のプラス分に等しくなるという
ゼロサムゲームではなく、人々の満足分の和が増大する
プラスサムゲームになるであろう」(P168)


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