死は不幸か?

本当のことを言ってはいけないと嘘つきの河合隼雄さんがつねづねおっしゃっていた。
いくらアクセス数の少ないブログとはいえ、自分でもこれを言っていいのかわからない。
もしかしたらすぐに削除するかもしれません。
果たして本当に死というのは多くの人が思っているように悼まねばならぬ不幸なのか。
というのも、いまこの記事をお読みの方のなかで死んだことのある人はいないでしょう。
それなのに、どうして死は不幸だとこの世の論理だけで決めつけるのだろうか。
死は不幸というのは、もしかしたら多数派がキープしているだけの錯覚なのではないか。
あるいは死んだらこの世以上の幸福バラ色の世界におもむけるとは考えられないだろうか。
根拠は仏典の阿弥陀経にそう書いてある。
このため時宗の一遍は「とく死なんこそ本意なれ」と言っている。早く死んだほうがいい。
浄土真宗の親鸞が殺人をそれほどの罪(悪)ではないと思っていたのは(「歎異抄」)、
死んだらみんな極楽に往けると信じていたからだと思う。
死を救済だと思えたら(信じられたら)、これほど救われることはないのである。
まず自死遺族が救われよう。
自死遺族がなぜ苦しむかといったら自殺は悪徳だという社会通念があるからである。
もし死が恵みならば、自殺した愛する家族は間違っていなかったことになる。
不幸は比較できるものではないが、自死遺族と被災者遺族のどちらが苦しいか。
被災者遺族の愛する家族がお亡くなりになったのは天災(自然)のせいである。
いっぽうで自死遺族は、
家族の死は自分のせいではないかという自責の念を死ぬまで背負わねばならない。
家族が津波で死んだことは人に言えるが、家族が自殺したことは隠さなければならない。
被災者遺族にはみんなが同情してくれよう。
自死遺族には、あの家はねえヒソヒソという差別の待っていることが多い。
とはいえ、もし死が不幸でないならば、どちらも悲しまなくてよくなることになる。
お亡くなりになった人たちは、この娑婆(しゃば)なぞよりはるかにいい世界にいまおられる。
あの偉いお釈迦さまが説いた阿弥陀経にそう書いてあるのだから本当である。
法然、親鸞、一遍の信じた阿弥陀経にそのような記述があるのだから死は不幸ではない。
むしろ、これでよかったのだ。いまのままそのまんまでいい。すべてはうまくいっている。
もう一度言う。すべてはうまくいっている。ならば、悲しむ必要などどこにあろうか。

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