「河合隼雄全対話2 ユング心理学と東洋思想」

「河合隼雄全対話2 ユング心理学と東洋思想」(河合隼雄/第三文明社)

→心理療法家の河合隼雄のすごさは不思議を感じ取る力の強さにあると思う。
不思議とは、思議(思考)の及ばないことである。「わからない」ことだ。
みんなが常識的思考(因果律)からわかったふりをして見逃していることを、
それは不思議ではないかと気づく直観の力が河合隼雄はとても鋭かった。
河合隼雄のクライエントは宗教的な体験をきっかけとして治ることが多かったという。
ならば宗教的体験とはなにか。不思議体験のことではないかと思う。
そうだとしたら、どうしたら治癒につながる不思議体験が起こるのか。
たえず不思議なことが起こっていないか気を配りながら待つしかないのだと思う。
それから不思議を信じることではないか。「わからない」を信じる。
みんながわかったふりをして生きているときに、河合隼雄は「わからない」を信じる。
この世の目に見える世界以外の「わからない」世界があることを信じる。
時計が指し示す以外の「とき」があることを信じる。
根底にある世界観は華厳思想のようだ。それはどういうものか。

「……すべてものはすべてのものと関連し合っています。個別化できない、
ひとつのものの背後にすべてのものがある、というように言えます」(P87)

「だからひとつの塵(ちり)も、自分も、
木もみんなひとつの宇宙の中に入っているわけでしょう」(P181)


一瞬また一瞬に起こることがすべて全体(宇宙)と通じ合っていると見なす。
一瞬に起こることを、それ以外のすべてを反映しているものとして見る。
「原因(過去)→結果(未来)」ではなく「一瞬←同時→一瞬」の広い結びつきに目を向ける。
「事象を経時的に見るんじゃなくて、共時的に、
ある一瞬にサッとすべてのことが関連を持った全体として生じる」ものとして見る。
つまり、「何が何の結果であるとかいうよりも、全体としての布置をみる」(P26)。
因果関係ではないものを見るとは具体的にはどういう態度を取るというのか。

「私にとっては、事象はもっと複雑で、
患者さんの来る日が晴れているか、雨が降っているか、
そんなことすべては、その人の治ってゆく過程に関連しているかもしれない
という態度をとっています」(P108)


こういう態度でクライエントに接していると不思議が見えるのだろう。
不思議とは人間には「わからない」こと、つまり奇跡のようなものだと思う。
河合隼雄は一見するとありふれた事象のなかから奇跡を見いだす。
そのときにクライエントは治るのだという。

「宗教体験なんかでもそうでしょうが、われわれの心理療法でも、
本当にある人が治るというか、パッと契機をつかむというのは、
因果的に説明できないわけですよ。因果的に説明できるのは簡単なもので。(中略)
ぼくはよく言うんだけど、非常に難しい事例というのは、
極端に言って奇跡で治るだけだと思いますわ。
だけど、奇跡が起きた瞬間に「そうだ!」と言わないと、それは効果を持たないんです。
言うなれば、神の声が聞こえてきたときに、
あれはおばけが言っていると思ったらだめなように、
それは神の声だという判断はしなくちゃなりませんよね。
そのときに、神の声がなぜ聞こえてきたかといったって、
聞こえてきたんだからしようがないわけでしょう。
いまぼくは「神の声」と言いましたけれども、それは端的に言ったんで、
実際に言うと、たとえば、息子のことで悩んでいる人のところへ友達が来て、
「なんやかんや言うたって、息子は息子やないか」と言った場合に、
その声を神の声として受けとめた人はそこから立ち上がれるし、
「息子は息子」なんてあたりまえやないかと思った人は、
何も立ち上がれないわけです。
ところが、そういう一瞬というのは、ものすごく大事なときに起こるんですね。
そのときに、「そうだ!」ということをぼくらは言うだけであって、
ぼくがそれをつくるわけじゃない」(P27)


しかし、実際問題、15年近い不眠症が心理療法で治るのかなあ?
現実問題として、30年近い吃音症が心理療法で治るのかなあ?
たとえばいつも自殺を考えている重度のうつ病患者が心理療法で治るのかなあ?
なにもする気がない無気力な人が心理療法で治るのかなあ?
これに対して河合隼雄は言う。

「不思議なことというのはよく起こるんですよ。
また、悪いほうの不思議なこともよく起こりましてね」(P28)

「そして不思議なことに、治るときに自殺したくなる人というのは多いですし、
周りの人が死んだりもしますね」(P30)


悪いほうの不思議なことがよく起こるのは経験から知っている。
よいほうの不思議なことも、まあ起こらないわけでもないと思う。
ある人が治るときに周りの人が死ぬというのはものすごい怖いことを言っているのではないか。
治そうとするということは、だれかの死を願っているということになるのだから。
しかし、だれかが死ぬくらいのことがないと心的疾患は治らないというのはわかる。
もし「治癒=周囲の死」であるならば、河合隼雄はまったく治そうとしていないのだと思う。
治そうとしない、つまり、なにもしないで待っていると、
たまたまクライエントの周りの人がお亡くなりになり(ときに奇跡が生じて)治ることがある。
もし塵のなかにも宇宙が宿っているならば、ある神経症も全体の反映ということになる。
自然に季節が変わるように全体もかならず無常ゆえ変化するから、
うまく待っていたらその変化と共時的に連係して神経症が治癒に到ることもあるのだろう。
あると思いたい。そういうことがあると信じたい。不思議を信じたい。信じようと思う。

おまけの話――。
本書で知ったが、河合隼雄も梅原猛も禅はあれじゃないかと思っているらしい。
好戦的な梅原猛ははっきり言っていて、敵を作らない河合隼雄は小声でつぶやいている。
なにをか。禅の悟ったという人はうさんくさい。
なぜなら禅で悟ったと言われている高僧の行動を見ても、ぜんぜんそうは見えないからだ。
まったくそうだとわたしも思う。

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