ご意見番の安心

人は不安に押しつぶされないためにご意見番を求めるのだと思う。
なんでもないことをご意見番に言われて、彼の肩書から安心を得るのだろう。
おなじことを平凡な庶民が言っても意味がない。
庶民は「○○がこう言っている」とたとえば居酒屋で相客と語り安心感を得る。
宗教の役割とは、このご意見番にほかならない。
人は日蓮の言葉だから正しいと思う。
ところが、日蓮の言葉だからといって正しい根拠はないのである。
せいぜい日蓮は中国の坊さんであるチギに正統性を依存しているくらいだ。
とはいえ、チギの正しさの根拠もない。
チギの正しさは法華経によっているから、正しさの根本は釈迦である。
釈迦が法華経を説いたならば、チギも日蓮も正しい。
親鸞の言葉が正しいと信じている人もいるだろう。
しかし、親鸞の正しさの根拠は究極的には師匠の法然である。
法然の正しさの根拠はこれまた中国の坊さんの善導(日本人はむかしから舶来品が大好き)。
とはいえ、善導が正しい根拠もせいぜい大乗仏典だから、まあ釈迦だろう。
わたしが好きな一遍は正しさの根拠を空也と阿弥陀経に依存している。
空也が正しい理由はないし、阿弥陀経を釈迦が説いたかも疑わしい。

そして、そもそもの釈迦がどうして正しいのかが最大のタブーなのである。
よくよく考えてみたら、釈迦が正しい根拠はどこにもない。
歴史上、多くの信者がいたからという多数決の正統性しか釈迦もお持ちにならぬ。
東洋だけではなく西洋の大工のせがれらしいイエスの正しさの根拠も多数決だ。
そうだとしたら、なにが言えるのか? 
もしかしたら絶対的に正しい発言は世界のどこにもないのかもしれない。
現代人は科学が正しいと主張するかもしれない。
ところが、考えてみよう。
50年前の科学的な真理でいまは誤りになっているものがどのくらいあるか。
ならば、いまの科学的真理も進歩とともに50年後には否定されうるということだ。
科学の正しさの根拠も、いま生きている人の多数決に依存しているわけである。
ということは、科学の正しさはせいぜい釈迦やイエスの教え程度ということになろう。
結論はどうなるか? 
日蓮を信じても、親鸞を信じても、一遍を信じても、釈迦を信じても、科学を信じても、
なんだってよろしい。ただしどれも絶対的真理ではないから喧嘩はやめましょうね。
言い換えたら、どれもみなみな絶対的真理だから、やっぱり喧嘩はやめましょう。

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