「河合隼雄全対話6 子どもという宇宙」

「河合隼雄全対話6 子どもという宇宙」(河合隼雄/第三文明社)

→河合隼雄がだれとでも対話をできたのは「どっちも正しい」を知っていたからだろう。
「どっちも正しい」を言い換えたら、「反対も真理」「絶対的真理はない」になる。
もう少しくだけた言い換えをしたら「答えは人それぞれ」くらいになるのだろうか。
河合隼雄も本音のところでは、
個性なんかないほうが出世できるという真理をよく知っていたのである。
個性がないことも個性ということを本書で河合隼雄はこっそり言っている。
自分なんかないほうがよほど世渡りもうまくいく。
自分の意見など持っていたら日本の社会で出世できるわけがないぞ。

「だって日本の一般社会、職場では、意見を率先して言って
イニシアチブを取るなんてことは、大変な危険を侵すことなんですから。
自分の意思表示をせず、いつも自分の意見を言わんように言わんように気をつけて、
組織の中で訓練されながら働いているんですもん。
そうしないと組織の中で生きていけないんですから」(P114)


組織内の出世レースは足のひっぱりあいだから目立ったらアウトのようなところがある。
かといって、出世したらいいのかもわからないし、出世したから心を病むようなこともある。
そういう状態になってはじめてカウンセリングを受けて、
ようやく自分のあたまで自分の人生を考えるようになるのだろう。
可能なのかわからないが、自分を一切消してうまく出世コースを逃げ切れば、
あまり深みのない人間で終わるだろうが、それもそれできっとそれほど悪くはないのだろう。
俗世間の価値観を疑わずテレビでも見ながら人生を逃げ切るのも悪くない。
たまたま逃げ切れなかったものがカウンセラーや精神科医のお世話になるのだろう。
精神科では逃亡失敗を病気(マイナス)と診断する一方で、
カウンセラーは逃げ足の遅さを個性や可能性(プラス)として見直すのだと思われる。
精神科とカウンセリングのどちらが正しいわけでもない。
ここでもまた「どっちも正しい」である。

「どっちも正しい」ならば、「人生は不平等」が究極の真理めいている一方、
「人生は平等」という正反対の考え方もそれなりに真理性があるのかもしれない。
もしかしたら出世した人生も出世とは縁のなかった人生もそう変わらないのかもしれない。
いや、河合隼雄が以下の引用で「人生は平等」と言っているのかどうかはわからない。
そうは言っていないのかもしれない。
河合隼雄の仕事は心に悩みを持った人の相談に乗ることである。
この発言は1986年だから晩年は変わっていた可能性も高いが、
この時期、還暦前の河合隼雄は自分の職業を「心の計理士」と思っていたという。
「心の計理士」とはどういうことか。

「患者さんが抱えている問題を、そっくりそのまま一緒に考えないといけないですから。
答えがないのが僕の答。というところから、スタートして、
患者さんが今抱えている問題と、しっかり自分で取組むようにしむけていくわけで、
別に治療したりはしないです。僕が心の計理士として計算してみると、
どの方も、ほぼ人生には損得がないものですねぇ。
だけど、僕のところへ来られる方は、
自分が損をしていると思い込んでおられるわけです」(P125)


相談者から話を聞きながら河合隼雄が計算してみるとほとんど損得はない。
たいがいの悩みは「どうして自分ばかりこうも辛いんだろう」になるのではないか。
しかし、それを河合隼雄が聞くと「損得はない」となってしまう。
そういう態度で聞きつづけると、いつしか相談者も苦悩と折り合いがつくのだろう。
こうして書き写してみてわかったが、やはり「人生は平等」とは言っていないようだ。
ひとりの人間の人生を全体として見るとほぼ損得はないと言っているわけだから。

しかし、まったく我われはどうして自分ばかり損をしていると、
精神医学的に言えば被害妄想のような考え方におちいりがちなのだろう。
人は鏡をいくら見ても自分が見えないから、
ときにカウンセリングのようなものを必要とするのかもしれない。
そう言えば、傍目から見たらスーパーラッキーな成功者も
「自分は損ばかりしている」と考えているようでげんなりすることがある。
たとえば哲学者のN、精神科医のK、「もてない男」のKである。
どこから見ても成功者なのに、彼らは自分が人よりも不遇だとかたくなに信じている。
そう考えるとやはり「人生は平等」もある程度の真理性はあるのかもしれない。

「長い目で見たらひとりの人生に損得はない」というのは真理かどうかわからないが、
そう考えていたら自暴自棄になることからは逃れられよう。
出世できなかったという損をしたような感じも生きていたら変わるのかもしれない。
得ばかりしているように見える人も心中では損ばかりと思っているのならば――。
人は損のほうばかり強く感じるというのはほぼ真理なのだろう。
いや、「どっちも正しい」、つまり絶対的真理などないならば、
すべてが真理ですべてが嘘なのだろう。
絶対的真理がないとは「真理はわからない」ということでもあるのだろう。
だれが得をしているのか損をしているのかだれにもわからないのが真相かもしれない。

「わからないことはわからないことでおいておけばいい。
むちゃくちゃにこじつけてわかってしまうと、もうだめですね。
非常に少しのわかったところと、
あと全部わからないということをそのままにしておくことをやらないと、
治療が進んでいかないですね。
それで私は、わからないということに、耐える力がないと、
われわれの商売はだめだと言っておるのですね」(P30)


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