「子どもと学校」

「子どもと学校」(河合隼雄/岩波新書)

→心理療法家の河合隼雄さんの深さはいったいなんによっているのだろうか。
いわゆる浅い人間というのがいるでしょう。なんにでも一家言あるやつというか。
どんな社会問題に対しても、ありきたりな「俺はこう思う」を示さずにはいられない。
こういう手合いはブログが大好きで、
なんにでも月並みな「俺はこう思う」を披露して得意になっている。
さも自分があるかのようにふるまっているが、
意見や提言はどこかで聞いたような浅いものばかりである。
一言居士だかなんだか知らないが、ブログのコメント欄での不毛な論争を
さも民主主義的な対話でもあるかのように勘違いして嬉々としている。
わたしがいちばん嫌いなタイプの浅ましい人間である。
なぜ河合隼雄さんが好きかといったら、一家言ある一言居士タイプと正反対だからだろう。
いったい河合隼雄さんはどのような考え方をしているのか。

たとえば、自殺をしてはいけないという一般に流布した原理がある。
しかし、「死にたい」と訴えてくるクライアントに心理療法家が
「死んではいけない」「あなたが死ぬと僕は悲しい」「さみしいことを言うなあ」
「次の予約まで1週間待ってみよう」「自殺したら地獄に落ちる」といったような、
その人定番の決まり文句を行ったところで、それは別の原理を言ったに過ぎない。
もちろん、言い方によってはときに自殺を止められることもあるだろう。
しかし、人はそれぞれまったく違うから毎回うまくいく原理というものはないだろう。
たぶん河合隼雄さんはその人その人に合わせて対応を変えていたのだと思う。
「死にたい」と言われたらこう答えるというようなマニュアルは持ち合わせていなかった。
そんなマニュアルは実際の臨床では使えないことを熟知していたのが河合さんの深さである。

マニュアルの反意語のひとつは個性であろう。
マニュアルはすべての人に均一な対応を求めるが、
個性は人それぞれを認めることから生じる。
原理というのは、マニュアルに近いだろう。
ならば、どうしたらマニュアル(原理)を抜け出して、おのれの個性を持てるか。
「自殺してはいけない」も「自殺してもいい」もどちらとも原理である。
どちらかを迷わずに「俺はこう思う」と主張するのが浅い人間ということになろう。
河合隼雄さんはどのようにして個性化すればいいと言うのか。
原理から離れるのではなく、原理を深めればいいと仰せである。

「原理を深めるとは、
自分のよって立つ原理に対立する原理にも意味があることを認め、
その葛藤のなかに身を置いて、右に左に、それを繰り返しながら、
自分のよって立つ原理をできる限り他と関連せしめることによって、
ものの見方を豊かにしていくことである。
言うなれば、二つの原理を梯子(はしご)の両側の柱のようにして、
その間を一歩一歩と下ってゆくのである。
そのようにして深めてゆくとき、足が地に着いて、ここを基盤と感じるところ、
そこに、その人の個性が存在していると思われる」(P28)


河合隼雄さんの記事なので自分のことはどうでもいいのだが、
わたしはどう考えているのか。
正直、いまのところ自殺してもいいのか、自殺はよくないのかわからない。
日によっては、自殺してもいいんじゃないかなと思う(こちらの日のほうが多い)。
また別の日には、絶対に自殺しちゃいけないと狂おしいまでに熱く思うこともある。
一般的には自殺をしてはいけないことになっている。そちらが圧倒的多数派だ。
自死遺族ならば(わたしもそうだが)、
おのれの苦しみを思い出したら自殺ストップに走りたがるだろう。
しかし、もし自殺がいけないことだとしたら、
まさに自殺した愛する家族が悪事をなしたことになってしまう。
このとき、本当に自殺はいけないのだろうかという疑問が自死遺族のあたまによぎる。
そこでむかしの仏典を読むと、自殺を肯定しているような記録も残っているのである。
「自殺はよくない」「自殺してもいい」、どちらも正しいのではないか。
このように考えていく過程こそ人を深くするのだと思うが、間違っているのかもしれない。

河合隼雄さんによると自殺願望を持つ人に、
ああしろ、こうしろとガミガミ言うのは逆効果になるそうである。
自殺志願者に「自殺してはいけません」と正しいことを何度言っても意味がないのである。
自殺などという危ないことを考えるからこそ、
人の可能性はあるのだというのが心理療法家の考えのようだ。
伸びる可能性、成長する余地があるから人は危ないところに行ってしまうのだろう。
一般的な法則として、あまりガミガミ言わないほうがいいということは言えそうだ。
この記事をお読みの奥さんは、男なんてどいつもこいつも
いまだ子どものようなものなのだから、旦那にうるさく注意しないほうがたぶんいい。
なぜなら、臨床心理学がご専門の河合隼雄先生がそう主張しているからである。
対人関係ではうるさくガミガミ言うよりも静かに見守っているほうがいいことが多い。
本書のテーマは、教師は子どもにどう接したらいいか、である。
たとえば、不登校などの問題行動をする子どもが、
木登りといった危険な遊びを始めたときはどうしたらいいのか。
たしかに自分から動き出したのだから自主性や個性の発現となり歓迎すべきことだが、
もしなにか事故が起こったら自分の責任になってしまう。
かなり長くなるが、とても人生全般に役に立つ知見だと思うので紹介したい。

「そのようなときに、せっかく今まで元気のなかった子が「腕だめし」
をはじめたのだから、もう少しやらせてみよう。
少しぐらいのけがなら大丈夫だろうとか、ともかく近くにいて、
あまりに危険なときは止めよう、とか判断しなくてはならない。
また、子どもの行為があまりに危険なときはすぐに中止させる必要がある。
このようなときに全体的状況を見て決断する力を、教師は養っていなくてはならない。
先の木登りの例からもわかるとおり、
子どもの自主性、個性を育てようと思うかぎり、ある程度の危険は避けられない。
本当に価値あることで危険性がないことなど、世の中にはあまりないのである。
教師の「危険に対する許容度」が高いと、子どもは案外事故を起こさないものである。
逆に、何でもかでも「やめなさい」、「危ないよ」などと連発する教師のもとでは、
子どもがよく事故を起こすものである。一般的に言って、
子どもの自由をきつく制限したがる教師は、自分自身に不安の高い人が多い。
したがって何に対しても、「危い」と感じてしまうのだが、
そのような態度が子どもを刺激して、
かえって不安定さを強くしてしまい、事故が増えるのである。
このように考えると、教師は外から何もしていないように見えながら、
心のなかでは大いに仕事をしていることがわかるのである。
あっちへ行っては「やめなさい」と言い、
こっちへ行っては「こんなふうにしてはどう」と教え、
大活躍しているように見える先生は、「専門家」とは言えない。
「あの子、あれで大丈夫かな」、
「けんかしているけれど、もう少し子どもたちにまかせてみよう」
などと心の中が大車輪で動いていても、
落ち着いてそこにただいるだけというのが、
理想の教師と言えるのではなかろうか」(P96)


とはいえ、なにもしないでただそこにいる教師はなかなか評価されない。
子どもに注意するのが趣味のようなコントロール願望の強い教師が教育熱心とされてしまう。
これは医者にも言えるのではないか。
やたらこまごまと健康指導を押しつけてくる心配性の医者がいるものである。
この手の医者のケアがすぐれていると思う患者はぞんがい多いのではないか。
しかし、もしかしたら健康管理に厳しい医者の患者こそ不安が移って危ないのかもしれない。
一見すると、なにもしてくれないような医師こそ名医なのかもしれない。
男が結婚するなら、あれこれちまちまうるさい女だけは女房にしないほうがいいだろう。
そういう女を妻にしたらまず出世できないと思う。
多少の危険は「大丈夫だろう」と見守ってくれる奥さんがいちばん得がたいものなのである。
男なんてどんなピンチのときでも、
横に「大丈夫」と言ってくれる女がいたらなんとかなるのではないかとさえ思う。

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