「大乗起信論」

「大乗起信論」(柏木弘雄訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→5世紀にインドか中国で作られた大乗仏教入門書。
あまり大声では言えないが、仏典は訳が日本語としてひどいものが多いのだけれど、
本書の訳はとてもすばらしかった。
内容をよく理解できていたらちゃんとした日本語に訳せるはずなのだが、
もしそうだとしたらわけがわからない訳し方をしている学者さんは……
いや、いや、なんでもない。とにかく本書の訳はすばらしく、
現代を生きるわたしが読んでもドキリとするような深いことが書かれているのである。

「たとえば人が道に迷うのは、
自分が行こうとする一定の方角を知らないからである。
しかし方角に迷うというということは、
根本的には東とか西とかの方角を設定するからであり、
もしはじめから方角というものを設定しなければ、
その方角にたいして迷うということもあり得ない」(P384)


これはものすごく深いことを言っているのではないだろうか。
内容は、最初から東とか西という方角を設定しなければ道に迷うことはない、である。
これはどういうことを言っているのか。
我われはどうして東西(善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得)の方角を設定するのだろう。
もし東西(善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得)を設定しなかったら道に迷うことはない。
善をなそう、賤しい仕事は嫌だ、美人がいい、賢く見られたい、損をしたくない。
このような方角に基づいた意志こそ迷いにほかならないのではないか。
悪人に思われたくない、有名人にお近づきになりたい、整形してまで美しくなりたい、
低学歴は恥ずかしい、他人を出し抜いて大儲けしたい――すべてが迷いである。

ものごとをプラスとマイナスに分別するから迷いが生まれるのだろう。
本当に善、貴、美、賢、得はいつでもどこでも永遠にプラスのままだろうか。
本当に悪、賤、醜、愚、損はいつでもどこでも永遠にマイナスのままだろうか。
このように考えることで少しずつ迷いから離れられるようになるのかもしれない。
むろん、こちらは凡夫の身ゆえ一生のあいだ迷いつづける可能性も高いけれども。
方角を設定しないということは、人生に目標を設定しないということでもあろう。
そもそも方角を設定しなかったら目標など作れるはずもないわけだから。
きっと目的地のない旅のような人生がもっとも迷いが少ないのではないか。
なぜならたまたま行ったところがすべて目的地になるからである。
目的地を作るから道から外れたのを嘆くことになるという面もあるのだろう。
風まかせでどこに行ってもいいというような旅(人生)では迷いようがない。

我われは(いや、わたしだけだろう)すぐに他人を非難する。
あの人は悪人だ、下劣だ、変な顔、バカ低知能ノロマ、ケチくさい。
なにを見てもすぐに批判から入る。
よくない、サイテー、きんもっ、クルクルパー、安っぽい。
しかし、もしかしたら対象を本当にはよく見ていないということは考えられないか。
ひょっとしたら自分の汚い心を投影しているだけではないだろうか。
そもそも真の意味で客観的存在などあるのだろうか。
というのも、おなじものを複数で見たらみな感想が変わるではないか。
あるものをデッサンさせたらみな違う絵を描くのではないか。
むろん、どの方角から見るかでものの形は変わろう。
しかし、そもそも果たして我われはみなおなじものを見聞きしているのだろうか。
「大乗起信論」の説くところでは――。

「一切の世間の諸法[現象]は、ことごとく妄心にしたがって生起している。
心から独立した境界が、
あたかも主観にたいする客観の世界として存在しているかのごとくに考えるのは、
真如の平等一味・無差別なることを覚知し得ない衆生の妄念によるのであって、
われわれにおける一切の分別は、
自らが、自らの心を分別していることにほかならない」(P386)


これは科学の基礎概念を揺るがす恐ろしいことを言っているわけである。
あるいはもしかしたら純粋な客観世界は存在しないのではないだろうか。
それぞれの主観世界があるだけで、
我われが客観世界だと思っているものは夢や幻のようなものではないか。
これはたぶん唯心論と呼ばれるやつだろう(仏教では唯識論)。
月並みな教訓だが、だれかが悪人に見えたらまず自分の心を疑ってみるべきなのだろう。
人の悪口や愚痴不満が多い人の心はいったいなにをどのように作っているのだろうか。
そして、心が作るものは修行や心がけ、つまり努力でそうそう変えられるのかどうか。

分別を捨てろと言われても、完全に捨ててしまったら精神病院行きではないか(精神病)。
しかし、分別するから心を病むというのもまた真理であろう(うつ病、神経症、不安症)。
世間さまの目をまったく気にしない純粋(逸脱)主観は精神病に近くなると思う。
一方で世間さまの目ばかり気にしている客観(平凡)主観は、
うつ病や神経症、不安症を患いやすい気がする。
それでもやはり世渡りをするならば、みなとおなじ世界が見えていたほうが得だろう。
おっと、また損得にとらわれてしまったが、これが迷いであったのか。
我われは決して他人の目でものを見られないというのは真理のひとつだろう。
いや、「自分・他人」と分別しなければ真如(真実)の平等世界が見えてくるのか。
いったいなにが真実なんだろう。
仏教をかじると「わからない」ということがよくわかるので困っちゃうな、もう。

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