「中論の頌」

「中論の頌」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→インド2世紀の大乗仏教哲学者、龍樹(ナーガールジュナ)の頌(じゅ)を読む。
頌とは韻文、詩句のことらしいが、訳文はことさら詩にはなっていない。
正直に白状すると、空とか縁起の思想をうたったもののようだがまるで理解できない。
こういうのはわからないところに価値があるのではないか。
というのも、仏教出家グループのみならず集団ではかならず上下関係というものが生じる。
しかし、考えてみると上司や先輩が偉いという理由がとくに見つからないのである。
そういうときにたとえば龍樹の仏教哲学のようなものが
便利な道具として使われるのではないか。
すなわち、上司や先輩は龍樹をいささかなりとも理解しているから偉いという理屈だ。
集団のトップが師匠でいられるのは、
グループのなかでいちばんたとえば龍樹を理解しているからという建前を用いる。
本当はだれも龍樹など理解できなくても、
こういう使い道があるのではないかと思うのである。
龍樹の権威があれば、先輩が新参の弟子をいじめることができるというわけだ。

なにが「正しい」のかといったら、より上の役職のものの考えが「正しい」とされる。
要するに、上から気に入られないと上に行けないシステムを龍樹の権威が作るのである。
弟子がいくら龍樹を勉強しても先輩が認めてくれなかったら「正しい」ことにならない。
たとえ龍樹などまったく勉強しなくても上に取り入るのがうまいものは「正しい」ことになる。
そもそもだれが「正しい」龍樹の思想を理解していることになるのだろう。
やはりいつの時代も肩書がより上のものの発言が当面「正しい」ことになるのではないか。
「龍樹なんて価値あるの?」などと「本当のこと」を言ってしまったら袋叩きにされよう。
龍樹の権威で成り立っているピラミッドを崩すような狼藉者は破門処分を喰らうかもしれない。
勘のいい弟子は入門してすぐに龍樹を学ぶよりも、いかに先輩に媚びるかを考えるだろう。
肩書のないわたしの考えだから間違っているかもしれないが、
仏教から学べるのは「正しい」ことなどなにひとつないことなのである。
しかし、高額の袈裟(けさ)を着た坊さんと全身ユニクロのわたしの主張が食い違ったら、
ほとんどの人が外見にだまくらかされて職業僧侶の発言を「正しい」と思うだろう。

いちおう読んだという証拠に引用しておく。
こんなのはどうとでも解釈できるから「正しい」ことなどありはしないという、
いい証明になろう。

「一切は真実である。また真実でない。
また真実であって真実でない。また不真実でもなく真実でもない。
これが諸仏の教えである」(P368)


なんのこっちゃという話でしょう。こんなもん、どうでも解釈できるわけ。
そのうち上役の気に入ったものが当面「正しい」ものとされよう。
わたしの解釈はこうである。

仏教=唯一の「正しい」ことなどない!

「煩悩と業と身体と、さらに作者も、果報も、
ガンダルヴァ城の在り方のものであり、陽炎と夢との如くである」(P368)


すべては夢のようなものと言っているわけだから「正しい」ことなどあろうはずがない。
しかし、なぜかこの国にも龍樹の権威とやらがいることになっている。
いったい彼らの「正しい」ことをだれが証明するのだろうか。
彼らが学生のレポートにバツをつけられる「正しい」根拠など存在するのだろうか。

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