「八千頌よりなる般若波羅蜜経」

「八千頌よりなる般若波羅蜜経」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→壇蜜ではなく般若波羅蜜なのである。
世の仏道修行者たちは壇蜜よりも般若波羅蜜を求めなければならないそうなのである。
壇蜜は「エロいおねえさん」だが、般若波羅蜜は「智慧の完成」という意味である。
どう考えても般若波羅蜜よりも壇蜜を好んでしまうが、それではいけないのである。
壇蜜よりも般若波羅蜜を重んじるのが仏教なのである。
もう壇蜜のことは忘れて仏教の話をすると、
有名な般若心経は膨大な般若波羅蜜経の精髄とのことである。
八千頌よりなる般若波羅蜜経さえ、その一部ということである。
しかもしかも、本書に収録されたのはその1/5だそうだから研究者はご苦労さまだ。
しかし、いまの時代に般若波羅蜜など研究していったいなんになるのだろう。
学者の世界でも出世したら壇蜜のようなおねえさんに相手にしてもらえるのだろうか。
いやいや、涅槃(ねはん)こそ人間最大の目標である。
涅槃とは煩悩の寂滅、つまり悟りのことであらゆる仏道修行者の目標である。
おそらく涅槃に達したらエロいおねえさんの壇蜜になど惑わされることもないのだろう。
いったい涅槃ってなんですか?

「天使達よ、涅槃もまた幻のごとき存在であり、夢のごとき存在であると、
私は説きます。いわんや他の法はなおさらであります」(P325)


むむむ? 壇蜜が幻のごとき存在、夢のごとき存在というのはなんとなくわかるが、
なんてこったい、仏教の最高解脱、涅槃もまた夢幻のような実体のないものなのか。
くうう、わけわかんねえ。
まあ、ぶっちゃけ世の中なんてぜんぶイリュージョン(幻想)なんだろう。
多数派のイリュージョンをかりに現実とすることでかろうじて社会が保たれている。
いまや斜陽産業の新聞やテレビがかつては現実形成に大きな役割を演じていたのだろう。
すべてがイリュージョンならば、本来ならどんなイリュージョンを見てもいい。
しかし、あんまり奇抜なイリュージョンを見てしまうと危ないやつと排斥されてしまう。
これが出家者集団内でならそうではなく、
涅槃という特異なイリュージョンを見ることのできたものが偉いと尊敬されるのだろう。

八千頌よりなる般若波羅蜜経を読むといろいろ功徳があるという自画自賛アピールがうざい。
法華経といいこのお経といい、どうしてそんなに功徳をアピールするのだろう。
その功徳といっても災難に遭わない程度のものである。
壇蜜のようなおねえさんを獲得できるお経があれば毎日でも書写するのに、ちぇっ。
ここだけの話、功徳といってもなんだか胡散臭いところがあるのである。
功徳アピールのあとにかならず「ただし書き」がついてくるのだから。
いわく、「ただし先になした業のむくいが起る場合は別である」(P333)。
いわく、「ただし前世の業の報いが熟する場合を除く」(P341)。
えええ、だったら災難に遭っても「それは前世の業」と言われておしまいじゃん。
災難に遭わないときはお経の功徳だから感謝しろってか。
あれえ、確率的に考えたら災難に遭遇しないほうがはるかに多いのではないか。
むかしっから宗教なんてこんなものなんでしょうね、はあ。

八千頌よりなる般若波羅蜜経に壇蜜のようなおねえさんが登場する話がある。
やはり単なる説教よりも物語形式になっているほうが読んでいておもしろいね。
なんでも常啼菩薩とかいうアンちゃんがさ、悟りを求める旅に出たんだとよ。
そこでダルマウドガタ菩薩とやらが究極の真理を知っているという話を聞きつけた。
常啼菩薩はみずからの身体を売って、
その金でダルマウドガタ菩薩を供養しようと考える。
え、男色ですか、と思ったら、そうではないらしい。
少年が現われ祀(まつ)りのために必要だから、心臓と血と骨髄を売ってくれと頼まれる。
いまで言うならば、臓器移植のための人身売買になるのだろう。
常啼菩薩は承諾して、鋭い刀でもってみずからの身体を切り始める。
そこに壇蜜のようなおねえさんが登場するのである。
長者(金持)の娘である壇蜜(仮名)は、常啼菩薩の自傷行為をとめる。
お金だったらパパとママに頼んでいくらでもあげるからと言うのである。
正確にはお金をあげるではなく「供養しますから」である。
おかげで命拾いをした常啼菩薩であった。

もしかしたら自傷行為をしたら壇蜜のようなおねえさんが現われ救ってくれるのだろうか。
いや、それはさすがにこのお経から得られる教訓ではないと思う。
ひとつ注意しておきたいのは、常啼菩薩が自殺しようとしていたことである。
仏教では自殺のことを捨身と言うようだが、
これは決して悪い行為として描かれていないのである。むしろ捨身は英雄的行為だ。
このために壇蜜のようなおねえさんが出てきてくれたわけだから。
真理のために捨身(自殺)を決意したときの常啼菩薩のセリフを引用する。

「いざ私は、この身体を捨てて、
その代価によって、ダルマウドガタ菩薩に尊敬を表しよう。
なんとなれば私の身体は、幾度も幾度も無量の輪廻において、
何千回となく破壊され、粉砕され、滅され、捨てられたのである。
また私は、愛欲のために、また愛欲の理由より、
無量の地獄の苦しみを味わったのである。
しかし今や、再びそういうことはない」(P352)


なぬ? 愛欲地獄だと? 常啼菩薩さんよ、けっこういい思いをしてやがるじゃねえか。
いやいや、学ぶべきところはそこではない。
この世は一回きりと思うからリスクを恐れて保守的な人生になってしまうのかもしれない。
もしかしたら来世があるかもしれないのである。
そうだとしたらこの人生でかりに失敗しても、まあネクストがあるわけだから、
そこまで用心深く他人の視線を気にしながら生きなくてもいいことになるのだろう。
また壇蜜の話をすると、どこか人生を捨てた気配のあるところが魅力なのだろう。
常啼菩薩ではないが壇蜜にもなにやら自分の身体を供養しているようなところがある。
捨て身であえて慰み者としておのれの身体を差し出しているとでも言おうか。
どうしてか般若波羅蜜よりも壇蜜から仏教の香りを感じ取ってしまうのでこれはいけない。

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