「般若波羅蜜多心経」

「般若波羅蜜多心経」(平川彰訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→日本でもっともポピュラーなお経の般若心経(はんにゃしんぎょう)である。
もう千回近く唱えているが悟りもしないし現世利益もないが、そんなことはどうでもいい。
般若心経は空(くう)を説いた教えとされている。
空とは無自性、つまりあらゆるものに自性(実体)がないということである。
川向こうの彼岸(ひがん)から見たら、
此岸(しがん)の善悪、貴賤、美醜、賢愚、損得、分別など、どうでもよくなるではないか。
こちらのトラブルなど彼岸から見たら「対岸の火事」に過ぎないだろう。
この世のことなど「なんだっていい」とこだわりを捨てるのが般若心経の教えだ。

彼岸という絶対から見たら娑婆(しゃば)の相対的価値観など下らなく思えるということ。
絶対をわかりやすく言えば中島義道哲学博士ではないが「どうせ死んでしまう」である。
この世のことで絶対確実なことは「どうせ死んでしまう」くらいだろう。
言い換えれば、そのほかのことはおよそ確実ではなく、なにがなんだか「わからない」。
将来だれがどうなるかは絶対に「わからない」。
しかし、「わからない」だらけの世の中で絶対確実なのは「どうせ死んでしまう」こと。
「どうせ死んでしまう」のならば、この世の地位も財産も空(むな)しい。

この「空しい」が空(くう)と思えばよい。
いくら愛するものと結ばれようが、いつか生別、死別は逃れられない。
かつて愛したぶんだけ別れが辛くなるだろう。いいことばかりなんてないのである。
子どもができて喜ぶのはいいが、逆縁でその子が死んでしまったら絶望のどん底である。
子どもに自殺なんてされたら一生立ち直れなくても不思議ではない。
しかし、それはそもそも子どもの誕生という喜びがもとにあるのだと考えると、
なんと世の中の空しいことか。

とはいえ、空しいばかりではない。色即是空だが空即是色なのである。
「どうせ死んでしまう」身だからこそ一瞬の感動に永遠性をも人は感じうる。
「どうせ死んでしまう」身なのに許せない人がいる憎しみも人間味のひとつである。
「どうせ死んでしまう」から我われは深く喜怒哀楽を味わうことができるとも言えよう。
喜ぶのもいい、怒るのもいい、哀しみもいい、楽しみもいい。
これは「どうせ死んでしまう」我われがどれも一回性のこととして経験するからいいのだ。
終わりがなかったらどれも味気なくて退屈するばかりではないか。
少年(少女)時代も青年時代も中年時代も一回きりで二度と戻れないからいいのだろう。

「どうせ死んでしまう」からものを喰らい酒を飲むのが楽しい。
「どうせ死んでしまう」人と人がたまたま逢っているからよろしい。
「どうせ死んでしまう」にもかかわらず人と人が許し合えないのもいい。
「どうせ死んでしまう」のだからたぶん「なんだっていい」のだろう。
「どうせ死んでしまう」のだからなにをしても、なにをしなくてもたぶんいいのだ。
「どうせ死んでしまう」から思い切って一心不乱に好きなことばかりするのも、
世間体にとらわれ他人の評価ばかり気にして過ごすのも、きっとどちらでもいいのだろう。
どう生きたっていい。死んだって構わない。
間違っている可能性は非常に高いが、これが般若心経の空ではないかとわたしは思う。

(関連)「般若心経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3173.html

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3516-48851d88