「大無量寿経」

「大無量寿経」(早島鏡正訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→親鸞が好きだったという大乗仏典「大無量寿経」を読む。
訳は違うが大無量寿経を読むのは三度目になる。つくづく暗いお経だなァと思う。
キンピカの阿弥陀経に対して大無量寿経は真っ暗闇の世界を描いているようなところがある。
たぶん前向きで明るい創価学会員さんはこのお経を反吐が出るほど嫌うような気がする。
しかし、ある面で本当のことが書かれてるのである。
大無量寿経は人間のどうしようもない救いようのなさを黒々と描写する。
そこに暗い性格のわたしなどはシビれるのだが、
潜在的うつ病患者のポジティブ志向者は毛嫌いするのではないかと思う。
以下の経文から(もとより大乗仏典はフィクションだが)なにやら強い真実性を感じてしまう。
わたしが大無量寿経でいちばん好きなところを紹介したい。

「そもそも、人は世間の愛欲のなかにいて、
独り生まれ、独り死に、独り来て、独り去るのである。
すなわち、人は自己のなした善悪の行いによって、報いとして苦楽の境界に行くのである。
自己自身が行いの報いをうけるのであって、だれもかれに代ることはできない。
善業の者は幸福なところへ、悪業の者はわざわいのところへ生まれる」(P290)


☆大無量寿経=「人在世間愛欲之中 独生独死独去独来」

どうして人は生まれながらに差があるのか?
この永遠に繰り返されるとも言うべき人間の疑問に、
大無量寿経は過去世における行ないの善悪が原因だと明言しているわけだ。
ここまではっきり言ってもらうとかえって気分がいいとは思えませんか。
人生におけるスタート地点の差はかなり大きいと思うが、こういうわけだったのである。
ならば、残念なところに生まれたものは親や教師、社会を恨んでもしようがないのだから、
これも「業やれ、業やれ(=宿業だなァ)」と悲しくもあきらめるほかないことになる。
わたしは世を恨む人よりも宿命を受け入れて生きている人のほうがはるかに美しいと思う。
そういう美しさが現代では失われていることを嘆かわしいとさえ思う。
さて、大無量寿経によると決まっているのは生まれだけではないようである。

「天地の神々は、その人の犯した罪を記録して、許すことがない。
それ故に、罪を犯した報いとして、
貧窮者・下賤の者・乞食・孤独者・つんぼ・めくら・おし・
愚か者・偏屈者・せむし・狂人・無能者などが存在するのである。
一方、この世で、高貴の者・富豪・才能ある者・賢者などがいるのは、
いずれも前世において、慈悲深く、孝行であり、善をなし、徳行を積んだためである」(P293)


こういう人生観を現代日本人は嫌うのかもしれないが、ここにこそ救済があるのではないか。
人間がもしなにからなにまで平等だという考えにのっとるのならば、
貧乏人は努力が足りないから、低学歴も努力が足らないから、
うつ病患者や精神病患者も努力が足らないせいにされてしまう。
でも、そんなはずないでしょ?
どうしたってある確率のもとで不遇な環境の人は現われざるをえないのである。
そのときもし大無量寿経を信じれば、
独身で友人も恋人もいない人でも孤独をこじらせなくて済む。
これも前世の罪悪が原因かときれいさっぱり思い切れば、
孤独ライフのなかにも楽しみを見いだせるようになるかもしれないわけである。
どうしようもなくあたまが悪いのも前世が原因なのだから、もうそこは断念するしかない。
そうしたら、かえって毎日を明るく暮らせるようになるのではないか。
「どうして自分はこうなのだろう?」という悩みの悪循環こそ苦しみの正体だと思う。
おのれのマイナスを前世のせいにして「ま、しゃあないか」と思えたら、
もうそのマイナスにこだわることがなくなるから、反対に状況も改善するかもしれない。
マイナスをどうにかしようと思うから、怪しげなセミナーや宗教団体に引っかかるのである。
マイナスを解決しようとするとマイナスばかり見ることになり反対に苦しみが増すのではないか。

そのうえ大無量寿経を信じれば、あのげんなりする嫉妬心からも解放される。
世の中には恵まれた人がおられるでしょう?
顔もよくて性格もよく、高学歴で見栄えのいい仕事に就き、
いつも友人に囲まれているような果報者が。
ああいう恵まれた人たちは、本人の心がけや努力のおかげでそうなっているわけではなく、
前世でいいことをしたおかげなんだと思えば、幸せな人を妬まずに済ませられるのではないか。
みんなからちやほやされるほどの喜びはないのだろうが、
あれは彼らががんばったからではなく前世の功徳の結果なのである。
そう思えば足を引っぱってやろうなどという邪心から逃れられ、
どうでもいい他人のことよりも自分をどうしようか考えるようになるはずである。
その結果として、少しずつ運勢も上向いてくるようなこともないとは限らないではないか。

大無量寿経の内容における救いは、法蔵菩薩が修行の結果、阿弥陀仏になったところである。
我われとおなじ人間に過ぎなかった法蔵さんが長年の仏道修行のすえ仏さまになった。
そして、この阿弥陀仏の説法する仏国土が西方極楽浄土である。
かつて人間だった法蔵さんはどのような願望をもって辛く苦しい修行をやり遂げたのか。

「わたしは、慈しみの心をもって、世のすべての人々を救いたい」(P273)

このセリフが暗い大無量寿経における希望の光になろう。
「世の人々を救いたい」という理由でたいへんな修行をした人がいるのである。
結果として彼は阿弥陀仏になることができている。
ならば、我われもおのれの不遇や苦境を恨まずに、
少しでも法蔵菩薩を真似て人に親切にしようではないか。
人を恨んだり憎んだりしないで、この世は修行だと思って人に優しくしよう。
人に親切にしたときに自分の心も豊かになるというのはむかしからの真理なのだろう。
どうしようもない不幸は前世からの宿業だときれいさっぱり思い切り、
法蔵菩薩とまではいかないにしろ、
わずかでも人の顔に笑顔が浮かぶ行ないをなそうではないか。
きっとそのときにあなたの顔にも笑顔が浮かんでいるだろう。
大無量寿経が教えるのは大勝利の破顔大笑や抱腹絶倒ではなく、
おそらくあきらめの微笑である。

(関連)「大無量寿経」
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