「華厳経」

「華厳経」(玉城康四郎訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→嘘つきの河合隼雄さんが好きな大乗仏典「華厳経」を読む。
河合さんが指摘していたからつまらなさは覚悟していたけれど、
不眠症のわたしを何度も眠らせようとしたのだから言い方を換えれば大した仏典である。
とても全訳だったら読む気にならなかったので、本書は抄訳(部分訳)で助かった。
華厳経は世界の存在のありようを説明した大乗仏典だと思う。
小乗仏教とは異なる大乗仏教の新しさは、永遠の仏さまのいる仏国土を創作したことだ。
永遠ということは時間や空間が無限(計測不能)ということである。

☆この世(無常・相対的・言葉・数字)⇔仏国土(永遠・絶対的・無言語・無数)

さて、我われの生きるこの世と仏国土のどちらが真如(真実)の世界か。
これはけっこう重要な問題をふくんでいるような気がする。
この世と仏国土のどちらが真実か。
かりに仏さまのいらっしゃる世界のほうが真実であると考える。
ならば、その真実の世界はどこにあるのか。どこか遠い宇宙の彼方にあるのだろうか。
いや、そうではない。このかりそめの世界がそのまま仏国土であると大乗仏教徒は考えた。

☆この世(虚構・妄想)=仏国土(真実・真如)

華厳経における仏国土は蓮華蔵世界海と呼ばれ、
その中心にはヴィルシャナ仏がいるとされる。
ヴィルシャナ仏は、法華経では久遠仏(永遠仏)として登場したのとおなじ宇宙仏である。
大乗仏教一般で言えばヴィルシャナ仏を釈迦如来と言ってもそこまで間違ってはいないだろう。
とはいえ、華厳経ではヴィルシャナ仏が教えを説くわけではなく、
周辺にあまたいるボサツが会話しながら世界のありようを解説する。
さて、我われのいるこの相対世界は言葉で分節化されていると言うことができよう。
たとえば「自分・他人」「男・女」「幸福・不幸」「善・悪」「損・得」「多・少」「長・短」――。
しかし、ヴィルシャナ仏から見たら、そんな区分はなくなってしまうと華厳経は主張する。
以下に引用するボサツ同士の会話はどの経典の言葉よりもわたしの関心に近い。
みなさまのなかにもおなじ疑問を抱いているかたがかならずやおられると思う。
まず文殊ボサツが覚首ボサツにこう質問する

「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、
この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。
幸福な人もおり、不幸な人もあり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、
容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、
くるしんでいる人がいるかと思えば、たのしんでいる人もいる」(P207)


☆この世(幸福・不幸、健常者・障害者、美人・ブス、苦・楽)←ヴィルシャナ仏

つまり、この世はどうして不平等に満ちているのか、である。
ヴィルシャナ仏とやらがいるのだとしたら、ちょっとおかしいんじゃないか、おい!
これは「人生、そんなもんさ」とあきらめるしかない問いで、
この疑問に始終とりつかれていたら心を病んでしまうことだろう。
この難問に覚首ボサツはどう答えているか。
幸不幸も美醜も苦楽も、結局のところそれらは相対的な言葉で実体(自性)がないだろう。
幸福を見るから不幸を感じ、美を見るから醜を意識し、楽を思うから苦を悩むのではないか。
プラスを意識するからマイナスを感じるのであって、
現象自体にはプラスもマイナスもないのではないか。
あるものをありのままに感得したら、
そこにはプラスもマイナスもなく、ただそのものがあるのではないか。
これはあらゆるものに自性(実体)がないということである。
以上のようなことを以下の引用文は言っているのではないかと思う。
お読みの方のご負担を考え最初に解説めいたものを書いた。
実際には覚首ボサツは「なぜ差別があるのか」の問いに次のように答えている。

「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。
わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
すべてのものは、自性[実体]をもたない。
それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。(……)
眼・耳・鼻・舌・心身などは、くるしみをうけていると感じているが、
しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
ものそのものは、つねに微動だにもしていないけれども、
あらわれているほうからいえば、つねにうごいている。
しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことが知られる。
このような心眼は、清浄であり、不思議である」(P207)


☆[(幸不幸、苦楽、美醜、善悪、プラスマイナス)=無自性]←心眼

わかりやすく下品な話をすると10万円に自性(実体)はないということ(無自性)。
金持に取ったら10万円はひと晩の飲食代だが、ホームレスには大金になる。
あなたの奥さんは唯一存在だが、他の女性と比べると美醜や性格のよしあしが生まれてしまう。
無自性であるならば、「わたし」も実体がないということになる。
他人との関係でいろいろな「わたし」というものがあらわれ出てくるわけだ。
引用文の文脈に従えば「わたし」そのものは、つねに微動だにしていないけれども、
あらわれているほうからいえば(他人の目に映る「わたし」は)、つねにうごいている。
しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。

華厳経における「なぜ人は不平等なのか」の問いはこれで終わらない。
文殊ボサツというやつはあたまはいいのだろうが、相当にしつこいのである。
さらに見ようによってはおなじ問いをたたみかけている。
よし、わかった、我われの自我に実体のようなものはないのだな。
あらゆる存在の本性(本質)は、とりたてて善(プラス)でも悪(マイナス)でもない。
しかしだ、それはいいとしても、だがしかし宝首ボサツよ、
どういうわけで我われは苦楽を受けたり、善悪をなしたりするのだろうか。
いくら無自性だと理解していても、苦しいものは苦しいだろう。悪いことは悪いことだ。
文殊ボサツはよほど容貌にコンプレックスがあったのかもしれない。
さらにこう問うている。
いったいどういうわけで見目の端正なやつと醜いものにわかれるのか。
さて、宝首ボサツはどう答えたか。

「それぞれ行うところの業にしたがって、果報を受けているのであって、
その行うものの実体は存在しない。これが諸仏の説きたもうところの教えである。
たとえば、あきらかな鏡にうつっている影像がさまざまであるように、
業の本性も、また、それとおなじである。
あるいは、植物の種子はたがいしらずに芽を出すように、
業の本性もまた、それとおなじである。
また、おおくの鳥が、それぞれちがった声をだすように、
業の本性もまた、それとおなじである」(P208)


☆[苦楽(果報)←行為(善悪)]=無自性(実体がない)
☆[美醜(果報)←行為(善悪)]=無自性(実体がない)


苦楽や美醜の原因となる業(行為)は、鏡に映った我われの影のようなもので、
たしかに苦悩や外見はそれぞれではあるけれども実体があるわけではない。
鏡に映った姿はさまざまだけれども、それは鏡のまえに立つから違いがあらわれるだけだ。
業の悪果や善果は、いろいろな草花がさまざまに芽を出すようなもの。
苦楽や美醜は、空を飛ぶ鳥の鳴き声がそれぞれ違うようなもの。
いろいろな草花があって、さまざまな鳥が飛び交い、
また多様な人がいることで結果として世界が荘厳されているのだから、
それでいいではないか。理屈としては通っていると思うが、
文殊ボサツはよほど恨み深い性格のようでまだ納得しない。
私事だが文殊ボサツのこの怨念の深さには強く共感してしまう。

嫉妬深い文殊ボサツはさらにしつこくおなじ問いを発する。
如来のお恵みはひとつであるというのに、どういうわけで果報はそれぞれ異なっているのか。
衆生には美しいもの、醜いもの、身分の高いもの、低いもの、金持、貧乏人、
あたまのいいもの、どうしても勉強ができないもの、さまざまである。
しかし、如来は平等ではないのか。
いったいどうして如来はあたかも敵味方を差別したようにこうも不平等なのか。
私見を加えるが、この問いはまったくそうである。どこまでもどこまでも納得がいかない。
わたしも文殊ボサツに肩入れしたくなる。
この三度目の問いに答えるのは目首ボサツである。

「たとえば、大地は一つで怨親[敵味方]はないけれども、
種々の植物の芽を生ずるように、仏の福田[恵み]もまた、それとおなじである。
また、おなじ水であっても器(うつわ)によって形がちがうように、
諸仏の福田も、衆生によって異なってくる。(……)
太陽がのぼるとき、すべての闇が消えるように、
諸仏の福田もあまねく十方界を照らす」(P208)


☆「問:なぜ人間は不平等なのか?」→「答:草花だってそうだろう?」

もし実際にこういう質疑応答があったとしたならば(大乗仏典はフィクションだが)、
いくら温厚なボサツでも回答者はそろそろキレるのではないだろうか。
なぜなら、文殊ボサツはおなじ質問ばかり三度も繰り返しているのだから。
いわく、どうして人間はまったく不平等に生まれてくるんだ?
回答者に成り代わって、怨念のかたまりのような文殊ボサツに言い聞かせてみよう。
いいか、おい、文殊ボサツよ、無理なものは無理なんだよ。
あのな、おれだってみんなから人気者の桜になりたいってお願いされても困るわけさ。
みんなバラやタンポポになれるわけじゃねえんだ、いいかげん、気づけ、おいコラええ!
名もなき雑草みたいのもいないと自然世界が荘厳されないんだから仕方がねえだろ。
そりゃあ、だれにも関心を持ってもらえないで踏みつぶされるだけなのは辛いよな。
だがな、おまえみたいな雑草がいるから全体としてうまくいっているんだ。
おれはよ、おい、太陽みたいなもんで、桜も雑草も分け隔てなく照らしてやっている。
だからさ、まあ大変なのはわかるが、そこはちょっとばかり我慢してくれんかい?

ここにいたってようやく文殊ボサツもおなじ問いを発するのをやめる。
文殊ボサツといえば智慧を象徴する仏さまである。
その文殊ボサツをして三度も質問させたのは「なぜ人間は不平等か?」だ。
もしかしたらわからないことを繰り返し問うのが賢さの証明なのかもしれない。
みんなが当たり前じゃないかとやり過ごしていることに目をそらさず、
執念深く問うのが本物の智慧なのかもしれない。
これまで9回の問いはすべて文殊ボサツが発していた。
そのうちの3回は「なぜ人間には差別があるか?」であった。
10回目、最後の問いは逆に、もろもろのボサツが文殊ボサツに向かってたずねる。
いったい仏の境界(深い智慧)とはいかなるものか。
文殊ボサツは次のように答えた。

「如来の深い境界は、あたかも虚空のように広大で、
たとい一切の衆生がそこに入っても、真実には、入らないのとおなじである。
その境界の原因は、ただ仏のみがしっておられる。
たとい仏が無量劫に説明されても、おそらく説きつくすことはできないであろう。
仏が、衆生を解脱せしめられるときは、
衆生のこころや智慧にしたがって仏法をのべられる」(P210)


法華経の方便品に「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とおなじような表現がある。
つまり、世界の真実は仏のみが知っている、人間にはわからないという教えだ。
ただし太陽が大地を照らすように、雨水が草花に降りそそぐように、
衆生それぞれの機根に合わせて仏さまは説法してくださる。
とはいえ、真実は「人間にはわからない」が答えではいささか情けないので、
華厳経から凡夫のわたしが読み取った世界のありかたをここから紹介したい。
華厳経では世界を海のようなものとして見る。
これは「人間になぜ差別があるのか?」の問答でもおなじような考え方をしていた。
すなわち、衆生は姿形、貧富、貴賤こそ異なれど、中身はみんな水であるという。
いったい世界という海はどのような様相をしているのか。

「もろもろの仏子よ、第一に世界の海は、かぎりない因縁によって成り立っている。
[1]すべては因縁によってすでに成立しおわっており、
[2]現在成立しつつあり、
[3]また将来も成立するであろう。
ここで言う因縁とはつぎのことを指している。
すなわちそれは如来の神通力である、
またものごとはすべてありのままであるということである、(……)
これが世界海の因縁である。
ヴィルシャナ仏の境界はとうてい思い測ることはできないが、
われわれが経験しているとおりにすべてが安定している。
なぜならヴィルシャナ仏は
無量無辺のすべての世界海を浄めたもうているからである」(P198)


☆「世界=かぎりない因縁」→ありのままで安定している

世界にはさまざまな幸不幸、苦楽、美醜、善悪があるけれど、
それらはヴィルシャナ仏から見ると、
すべて因縁として調和が保たれているということだろう。
たしかに不幸な人がいなかったら幸福な人はボランティアができないし、
なるほど苦があるから楽が認識され、醜い人がいるおかげで美しい人がより見栄えがして、
そもそも悪人がいなかったらある種の連中は善人気取りになれなくて困るということか。
個人個人を見たらば不平等極まりないけれども全部の因縁を考えたらバランスが取れている。
不幸、苦、醜、悪といったマイナスがあることで世界は安定している。
あんがいすべてのプラスとマイナスを総和したら差引ゼロになったりするのかもしれない。
たとえマイナスばかりの人生でもそれは因縁なんだからあきらめるほかなく、
だがしかし、いまもこのいま、新しい因縁は成立しているから過度に絶望することはない。
ときどき「どうしてこんな不幸が!」という信じられない事件が起こるが、
そのことによって10年後、20年後、30年後に熟すプラスの因縁もあるのだろう。
あるいは当人の死後に成立する因縁もなくはない。
だとしたら、現実がどんなに理不尽で不平等、差別いっぱいに見えようとも、
いま世界はありのままでそのまんま安定しているということになるはずである。
このため、華厳経のあの有名な一節が説かれるのだろう。我われの世界では――。

「そこでは一々の小さな塵(ちり)のなかに仏の国土が安定しており、
一々の塵のなかから仏の雲が湧きおこって、
あまねく一切をおおい包み、一切を護(まも)り念じている。
一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、
その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である」(P199)


小さな塵のひとつでさえこの世界にはなくてはならないものなのだろう。
一見すると我われの目には役に立たないゴミのように見えるものも、
他のものすべてとの関わり合いのなかにおいて、
世界を荘厳する(=飾る、成立させる)ためには必要不可欠だという考え方である。
ならば、ささいな偶然で目に映ったものにも全体が表現されているのだろう。
世界を荘厳するヴィルシャナ仏に常時思いをはせていたら、
あるいは意味のある偶然や、ひそやかな暗示に気づきやすくなるのかもしれない。
耳を澄ませていないと聞こえてこない語りかけも、もしかしたらあるのかもしれない。
目を凝らしていてはじめて見えてくるものも世界にはあるのかもしれない。
タロットカードの偶然の配列がいまの状況を象徴するようなこともあるのだろう。
偶然を頼ることがヴィルシャナ仏の意図に近づくチャンスのようなこともあろう。
なぜならという根拠は、この世界はヴィルシャナ仏が荘厳した、
ありのままそのまんまで安定したものだからである。
ジグソーパズルのどのピースにも全体の構想が浮かんでいるのが世界だとしたら――。
少なくとも華厳経はそう主張しているのである。

「仏子よ、つぎのようにしるがよい。
この蓮華蔵世界海は、ヴィルシャナ仏が久遠のむかし、
ボサツの修行をあそばしたとき、一々のみほとけのもとにおいて、
ボサツの大願を起しながら荘厳したもうたところの世界である。(……)
この蓮華蔵世界海のなかでは、一々の小さな塵のうちに、
ありとあらゆる世界の光景をみることができる」(P201)


これは別のところでは「一即多・多即一」(一は多であり、多は一である)
と書かれている華厳経のテーマのひとつである。
これはわずかのサンプルで全体を推し測るという統計学の理論ではたぶんない。
「一即多・多即一」は詩的真実を問題にしているのではないかと思う。
大勢の女を知るよりも、
ひとりの女と深く付き合ったほうが男は「女」がわかるという意味ではないか。
ひとりの女に大勢の女というものが結晶しているという考え方である。
あるいは、わざわざ世界中の観光地を旅するよりも、
ある日、夕陽に照らされた狭いわが家の庭を見た一瞬に人生を悟るとでも言うか。
見かけはどんなつまらなそうなありふれた人生でも、
ひとりの人は無数の人が味わうであろうものを噛みしめているという感覚だろうか。
もしかりにあらゆる因縁が見えたならば15歳で死んだ少年の人生もまた完結している。
いや、ひとりの人のたわいもない悩みのなかに全人類の苦悩が結晶していると言うべきか。
たとえば多くの情報なんかよりも、
たったひとつの疑問(人はなぜ差がついているのか?)に真実が宿っているということ。
要約になっていないが、要するにとまとめるならば、
「一即多・多即一」はありふれた一瞬が奇跡的な永遠に通じているという仏教的直観である。
多を見るよりも一を見たほうが多のことがよりよくわかるという意味もあるだろう。
たとえ多を見られなくても一のなかにすべての多が映っている。
むしろ多を見たかったら積極的に一を見ろという話かもしれない。

華厳経に登場する因陀羅網(いんだらもう)の比喩も「一即多・多即一」の例である。
因陀羅とは帝釈天のこと。
帝釈天の宮殿には網(あみ)がかかっていて、結び目に無数の宝玉がついている。
宝玉は鏡のようによく磨かれていて、ひとつの宝玉に他のすべての宝玉が映っている。
無限大の鏡それぞれに無限大の鏡が映っているようなものである。
人間はこのような縁起で関係しているというのが因陀羅網の比喩になろう。
ならば、だれかが風邪を引いたくらいのことが全世界に影響してしまうことになる。
電車内で彼の咳のせいで不愉快になった人が部下を叱って、その部下が次にこうして……。
この縁の連鎖がひとりの人を自殺に追い込むかもしれないし、
反対にだれかが電車で咳をしたことでひとりの人の命が救われるかもしれない。
「風が吹けば桶屋が儲かる」のも因陀羅網の比喩で説明がつくだろう。

もともと華厳経をずっと読みたかったのは河合隼雄さんの影響である。
そこでカウンセリングの話をすると、ひとりの人の悩みは自分で解決するのではなく、
待っているうちに周囲が変わるから悩みが消えたように思えるのかもしれない。
いや、「から」ではなく「とき」だろう。周囲が変わる「とき」悩みが消える。
あるいはひとりの人が変わるとき周囲もみんな変わっているのかもしれない。
「一が変わるとき多も変わる、多が変わるとき一も変わる」というのが、
もしかしたら河合隼雄さんのカウンセリング理論の要諦なのかもしれない。
「一即多・多即一」ならば、一の病は多の病を映していることになるだろう。
いま書きながら気づいたが「一即多・多即一」は因果関係ではなく、
まさにあの怪しげな共時的関係(偶然!)を示しているのではないか。
たまらなく胡散臭いシンクロニシティ(意味のある偶然)は、
華厳経の「一即多・多即一」を成立原理に持っていると考えたらかなりわかりやすくなる。
一瞬のあいだに起こったことはもし世界原理が「一即多・多即一」であるならば、
かならずや別の場所でも示し合わせたように、
関連するなにか別のことが同時発生しているということになるのではあるまいか。
さすがにこんな長文をここまでお読みくださっている方はいないと思うので、
あまりにもオカルトな予知能力も「一即多・多即一」で説明できると書いてしまおう。
一(直感)がすなわち多(深層世界)に基づくものならば、
多はすなわち一(なにかの事件)に即しているということになるはずである。

☆予知能力=[(直感)⇔「一即多・多即一」⇔(事件)]
☆シンクロニシティ=[(ある出来事)⇔「一即多・多即一」⇔(別の出来事)]


話は変わって宗教評論家のひろさちやさんは、
迷ったときサイコロを振って決めることをすすめている。
偶数ならこうしよう、奇数ならこうしようとあらかじめ決めてからサイコロを振る。
いま気づいたが、これも「一即多・多即一」の原理にかなっているのだろう。
一瞬のそのときの出目(偶数か奇数か)に多(ヴィルシャナ仏)があらわれるのだから。
実のところ華厳経はあまりにも難解なので、
かなりひろさんの解説に助けられている(「お経から人生を学ぼう」NHK出版)。
これもひろさんに教わったのだが、
華厳経には「初発心時便成正覚」という言葉があるそうだ。
はじめて発心したときに、すでに正覚(悟り)に達しているという考え方だ。
本書の訳では「はじめて志しをおこすときに、すでに無上の悟りは完成している(P226)」。
これもまた「一即多・多即一」の思考法によるものらしい。
ひろさちやさんによると、「一即多・多即一」は一瞬こそ永遠という意味になる。
哲学的に考えたら過去も未来も存在せず、存在するのはいつもこの一瞬だけである。
へたをすると一瞬後には心臓発作や地震で死んでいるかもしれないわけだ。
生きているのがこの一瞬しかないならば、その一瞬が永遠にほかならないと考える。
ならば、仏道修行を志した最初の一瞬に永遠の悟りを開いたことになる。
これが華厳経の「初発心時便成正覚」ということらしい。

華厳経のまとめに入ろう。
華厳経は「なぜ人は不平等か?」という問いに「一即多・多即一」と答えたお経だと思う。
ほかならぬそのひとりの不幸がないと蓮華蔵世界海は荘厳されないのである。
ひとりひとりの不幸、悪、貧困、障害、難病があってはじめて、
多面的な蓮華蔵世界海が荘厳されることになる。
だとしたら、どのマイナスもヴィルシャナ仏から荘厳されていることになるのではないか。
重苦しい宿業も過去現在未来の諸仏に美しく荘厳されていると思うと慰められる。
荘厳(しょうごん)とは、美しく飾りつけるという意味である。
黒々とした宿業は、けばけばしい「宿命転換」(創価学会)の三色で化粧されなくても、
そのままありのままで黒光りして美しいのだろう。
黒々とした宿業の持ち主は「赤、黄、青」を目指すのではなく黒のまま光ればいい。
明るい「赤、黄、青」はたしかにいいのだろうが、
暗い宿業を持って生まれた人は黒々と輝くという道があるのではないか。

「仏子よ、第五に、すべての世界海には測りしれない荘厳がある。
たとえば、すべての衆生の宿業が荘厳されていること、
また、過去現在未来の諸仏、
および普賢ボサツの願力が荘厳されていること、などである。
十方の世界海は、いろいろに荘厳されていて、広大無辺である。
衆生の宿業の海は、ひろくてほとりがなく、そのときどきにうつりかわっていくが、
その底の底まで諸仏の力によって荘厳されている」(P199)


こんな長文記事を最後までお読みくださり本当にどうもありがとうございます。

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