「勝鬘経」

「勝鬘経」(高崎直道訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→大乗仏典「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を読む。
維摩経、法華経、勝鬘経は(実在したかわからない)聖徳太子が
三経義疏(さんぎょうぎしょ)という注釈書を書いたことで知られている。
要するに勝鬘経は古くから日本になじみのあるお経ということだ。
内容はけっこうめちゃくちゃで出家もしていない勝鬘夫人のスピーチが延々と続く。
勝鬘夫人はいちおうお偉い血筋らしく国王の娘で、別の国の王に嫁いでいるという。
いまで言う更年期障害だがなんだかよくわからんが(年齢設定はない)、
この勝鬘夫人が釈迦(世尊)のまえでヒステリックに小乗仏教批判を演説するわけだ。
釈迦はこのエキセントリックなおねえさんにどう対応するかというと、
「OK、OK、それでいいよ、あんたは正しい」とひたすらどこまでも彼女を肯定する。
大乗仏典だから歴史上の釈迦とはなんのゆかりもない創作であることを考慮に入れても、
これはちょっとやりすぎのような気もするが、いかにも大乗仏教的と言えなくもない。

というのも、大乗仏教は反体制という意味でのロックなのである。
もし釈迦の教えが「正しい」としたら(釈迦が「正しい」保証はどこにもないが)、
より開祖の教えに近いのはだれがどう考えても伝統ある小乗仏教のほうなのである。
どうでもいいことだが、わたしは釈迦をそれほど好きではなく、
釈迦の教えだから「正しい」というのは権威主義にしか思えないことを断っておく。
さて、後発の大乗仏教は本来なら正統的な小乗仏教にあろうことかキバをむき、
「おまえらは間違っている」と獅子吼(シャウト)したのである。
大乗仏教のどこが新しいかと言ったらば、仏国土を創作したことではないかと思う。
仏国土は、あの世、浄土、彼岸と言い換えてもよく、要はこの世ならぬ仏さまの国である。
そのうえで歴史上実在した釈迦(世尊)を、仏国土から来た釈迦如来にしてしまった。
如来(にょらい)とは真実の世界から来たもの、という意味。
娑婆(しゃば)、この世はかりそめの世界で、仏国土こそ真実であるという発想の転換だ。
さらに小乗仏教が敬う釈尊(釈迦)などたまたまある時代のインドに、
仏国土から釈迦如来が来たに過ぎない存在だとしてしまう。

☆小乗仏教:この世のみ(釈迦)
☆大乗仏教:この世(釈迦)←仏国土(釈迦如来=永遠仏=久遠仏)


さらにさらに大乗仏教はとんでもない飛躍をするのだから。
どういうことかと言うと、我われもまた仏さまになれるとしたのである。
なぜなら、釈迦如来も無限に近いほどの生まれ変わりのなかで(生死輪廻)、
菩薩(ぼさつ)として仏道修行したがために仏さまになることができたのだ、
という理屈を大乗仏教はインド古来の三世因果説にのっとりでっちあげる。
菩薩はこの世で仏道修行をする仏さまという意味。
大乗仏教では菩薩が想像もできないほど長い期間修行したあとで如来になると考える。
菩薩も如来もおなじく仏さまだが、菩薩はこの世、如来は仏国土にいるという設定だ。
わかりやすくすると以下のようなサイクルを大乗仏教は発明した。
まず前提にあるのは仏国土が存在するという発想の転換である。

☆この世(無常・相対的・有限・苦)⇔仏国土(不変・絶対的・無限・楽)

この世とあの世(仏国土)を仏さまである菩薩と如来はどう循環するか。

☆仏さま=[菩薩(修行者)→如来(完成者)]
☆この世(修行)→菩薩→(生死輪廻)→如来→仏国土→如来→この世(救済)


重要なので何度でも繰り返すが、
大乗仏教の新しさはこの世ならぬ仏国土を創作(仮構)したところである。
おそらく、彼(女)らはこの世の理不尽に深く絶望していたのだろう。
欲を捨てろという聖人しかできぬ小乗仏教の教えでは救われない人たちがいた。
彼(女)は救われたいと強く思った。
あるいは、苦しんでいるもの、絶望にうめいているものを救いたいと思ったのか。
人はどうしたら救われるのか。
もし苦に満ちたこの世ならぬ世界があったとしたらどうか。
どうしてこの世ならぬもうひとつの世界がないと言えようか。
本当にこの世だけなのだろうか。
人間にはこの世を飛び立つ想像力という翼(つばさ)が備わっているではないか。
いまで言うならば精神病的なまでに烈しい妄想の力を用いて、
仏教の革命者たちは心中に思う釈迦その人に翼をつけて天高く飛翔させた。
どこに向けてか。どこかにあるに違いない永遠の仏国土に向けてだ。

ちなみに現代の科学をもってしても仏国土は存在の有無を証明できない。
いくら科学が進んでも仏国土が存在しないことは証明できないのである。
なぜなら、いま生きている科学者のなかで死んでみたことのある人はいないからである。
言い換えたら死の不思議から大乗仏教徒は仏国土を思いついたと言ってもよい。
正しくは死と誕生の不思議(不明)によって大乗仏教はこの世を離陸した。
釈迦ほどの偉人は死んだあとにどうなったのだろう。
釈迦はどうしてこの世に釈迦として生まれてきたのだろう。
この疑問から仏国土を仏教革命者たちは創造したのだろう。
つまり、釈迦は本当のところ仏国土にいまも釈迦如来としている。
なぜ如来になったかと言えば、菩薩としてこの世で繰り返し修行を積んだからである。
ならば、我われもこの世で菩薩行を積めばいつかは如来になれるのだろう。
小乗仏教の教えでは、いくら修行しても仏さまになることはできない。
だが、大乗仏教の教えに従うならば、我われも仏さまになることができる。

大乗仏典「勝鬘経」の話をしよう。
冒頭、在家の勝鬘夫人は「みほとけ(永遠仏、久遠仏)」から予言をいただく。
どういう予言か。将来、夫人は如来になると「みほとけ」は言うのである。
「みほとけ」いわく、勝鬘夫人は仏国土に住む「普光」という如来となる。
ここに大乗仏教の真髄が込められていると思うので少し長いが引用したい。
内容はいま書いた通りなので、どうか読み飛ばしてください。
「みほとけ」は出家をしていない勝鬘夫人に以下の予言をお授けになる。

「夫人よ、
そなたが如来の真実の功徳をほめたたえるという善行を積み重ねた結果、
その善根功徳によって、
そなたは未来永劫に人間界・天上界の王者の幸福を享けるであろう。
そして、いつの世にも、わたくしにめぐり逢わない時とてもなく、
今そなたがしていると同じに、わたくしを讃嘆するであろう。
その上、無量無数のみほとけたちにもかしずくであろう。
今より後、二万アサンキヤ劫を経て、そなたは普光という名の如来となるであろう。
その時には、そなたの仏国土には、地獄等の悪道に陥るものはなく、
いきとしいけるものはみな十善の道に安住し、
病気もなく、老いることもなく、意にそわない災厄もなく、
不善の行為はその名すら聞かれないであろう」(P172)


☆この世→勝鬘夫人→善根功徳→幸福な生死輪廻→普光如来→仏国土

さて、「勝鬘経」はこの夫人が釈迦如来(久遠仏)のまえで説いた教えである。
勝鬘夫人はなにを説いたのか。「勝鬘経」の主たる内容はなにか。
夫人のみならず、我われのだれもが「如来蔵(にょらいぞう)」を持っているというのである。
如来蔵は仏性とも呼ばれている。仏さまになるための機根である。
いや、「勝鬘経」に忠実に耳を傾けよう。如来蔵とはいかなるものか。
勝鬘夫人は世尊(みほとけ)に語りかける。

「世尊よ、衆生のうちにあるところの如来の因子、
すなわち<如来蔵>は生死輪廻する場合のよりどころでございます。(……)
<如来蔵>があるからこそ輪廻が成立する、
といえば、これは理に適っております。
(……) 世尊よ、この、死といい、生ということは、
世間の常識的な言い方でございます。死とはこれ、感覚器官の機能停止、
生とは、これ、新しい感官の発生でございます。
ところが、<如来蔵>には生も死も、滅も起もございません。
何となれば<如来蔵>は、
縁起の方則にもとづく、生滅変化を特質とする存在の限界を超え、
常住・不変・静寂・永続的でございます。(……)
<如来蔵>は、真実の教えを生み出す根元、如来の<法身>そのもの、
世間的価値を超越した存在、本性として清浄な存在でございます」(P190)


わかりやすく内容を書き改めてみよう。
如来蔵は死してもなお残り、生まれ変わるよりどころとなるものである。
無常のこの世で人間は生死に振り回されるが、如来蔵は永遠に通じている。
人間のだれもが持っている如来蔵は、世間的価値観を超越した絶対的に清浄なもの。
これはユングが言うところの「自己(セルフ)」とおなじではないだろうか。
ユングは「自我(エゴ)」の奥底に「自己(セルフ)」があるという仮説を立てた。
人間が如来蔵によって永遠に通じているというのは、
ユング心理学の言う集合的無意識とおなじだろう。
ユングはインチキでオカルトだが、大乗仏教もまさにそうなのでなんら問題はない。
人間はフィクション、つまりインチキやオカルトに救われるというのが大乗仏教である。
いまの日本ではユングよりはいくぶん偉い、ユング研究所出身の深層心理学者、
河合隼雄は晩年に「たましい」ということを言い始めたが、
「勝鬘経」の説く如来蔵はまさしくそのまま「たましい」とおなじであろう。
河合隼雄は心理療法(カウンセリング)の最中、
相手(クライエント)の「たましい」を見るようにしているという。
「たましい」を見るとは、人間の如来蔵を信じるということではないか。
「勝鬘経」の教えは、どこか河合心理学に通じているような気がする。
いつの時代のどこの国の人たちも煩悩(ぼんのう)に苦しんでいるのである。
煩悩とは欲望、つまりエゴのこと。我われは煩悩に苦しまされる。
だが、もしそばに仏さまがいてくれたらどうだろう。

「世尊よ、この<如来蔵>は、あらゆる煩悩におおわれていて、
凡夫には了解しがたいのでございますが、
煩悩の纏(まと)いの中にかくされた<如来蔵>が
あるのだと信じて疑わない者はだれでも、
その煩悩の纏いから解放されたところの、如来の<法身>についてもまた、
疑を抱くことはございません」(P187)


☆無常を生きる人間(煩悩)→如来蔵(永遠)←人間(煩悩)

心理療法家は如来蔵でクライエントと通じているのかもしれない。
たとえ心理療法家がいなくても、だれかひとりでも仏教者が、
煩悩に苦しんでいる人の如来蔵を疑うことなく信じていたら、
彼(女)は地獄のような苦しみから徐々に救われていくのかもしれない。
人はだれかに救われるのではなく、もしかしたら自分の如来蔵に救われるのかもしれない。
とはいえ、大乗仏教は利他(他人を利する)の教えを説く。
大乗仏教は小乗仏教を自利(自分を利する)ばかりではないかと批判した。

大乗仏典「勝鬘経」の説く真実の教えとはなにか。勝鬘夫人は言う。
「世尊よ、真実の教えを身につけようとする者は、男であれ、女であれ、
そのために、身体・生命・財産という三つをなげ出すでしょう」
「勝鬘経」では「生命を投げ出す」ことも推奨されているのである。
多少穏当に言い換えると「生命を投げ出す」、つまり自殺もそれほど悪い行為ではない。
不変の如来蔵があるのならば、この世の生命などにそうこだわらなくてもいいことになる。
いくら死んでも如来蔵があるのだからまた生まれ変わってくるのだろう。
ならば、死は不幸ではないことになる。自殺はそれほどの罪悪ではないことになる。
もしそうだとしたら、自死遺族はそうまで大仰に悲しまなくてもよくなるのではないか。
繰り返すが、「勝鬘経」の言うように、我われのだれもが如来蔵を持っているのならば――。

「また、人は生命をなげ出すことによって、その代わりに、
輪廻の世界のつづく限り存続するところの、
ほとけのおいのちとでもいうべき<法(のり)>、神通変化に基づき、死滅を離れ、
無限・常住にして、不可思議な徳性をもつ
<ほとけの教え>のすべてを得るでありましょう」(P178)


これはどういうことか――。
もしかしたら自殺者はようやく輪廻を離れ仏国土で如来になっているかもしれないのである。
自殺者はいまは如来になって自死遺族を見守ってくれているかもしれないわけだ。
なぜなら、死んだらどうなるかは永遠の「みほとけ」にしかわからないのだから。
死んだ人がいまどうなっているかはこの世に生きるものには絶対にわからない。
わかっているのは、永遠の教えである「勝鬘経」に人はみな如来蔵を持つと書いてあること。
もしそうだとしたらこの世での死は断じて終わりではないこと。
「生命を投げ出すこと」が「ほとけの教え」に適うときもあるということである。

COMMENT

yogako URL @
12/27 00:46
. comment
自分の仏性を自覚出来ている方は自殺してもしなくてもどっちでもいいと個人的に思います。

人間がそもそもオカルトですよね。
私実はエゴと仏性会話させた事があります。一度だけでしたが、仮死状態の際に。面白すぎたのでもう一度会話したくて色々試しましたが、胡散臭すぎて集中出来ず実現しておりませんです。

仏性。神、愛、創造主、超越者、光、無意識。色んな表現がありますが私はそれを自由自在の自分と呼んでいます。我ながら胡散臭いにも程がありますw。

興味深いお話しをありがとうございます。


Yonda? URL @
12/27 21:56
yogakoさんへ. 

自殺はどうなんでしょうかね。
日によってはしてもいいのではと思います。
別の日には絶対にしちゃいけないと思ったりもするのに。
「自殺するな」と言っていた人が、自殺することもあります。
自殺は人間の思いとはあまり関係がないのかもしれません。
あるときふっとしちゃうものなのでしょう。
悲しむべきものですが、裁くべきものではないような気がします。
あるうつ病の精神科医が匿名ブログで、
嫌いな患者が自殺したことを記述して万歳三唱していました。
そういうことをしていると、自分も自殺するようになるのでは、
と思いました。もっともわたしとは関係ありませんが。








 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3512-45d81778