「法華経」(紀野一義訳/「大乗仏典」/筑摩書房)→物好きと言うしかないが、このところずっと読経をしていたのである。
いろいろな宗派のお経を収録したいい本を見つけた(「お経がわかる本」双葉社)。
浄土系、法華系、禅系、密教系、ありとあらゆるお経が集められている。
あたかも風邪に大量の薬を処方するヤブ医者のように、
どれか効くんじゃないかと全部のお経を毎日のように声に出して唱えていた。
結果、現世利益のようなものはまるでなかったが(当たり前だろうが馬鹿者!)、
ひとつ身体でわかったことがある。
以前は嫌いだった法華経がいちばんリズムよく爽快に読経できるのだ。
わたしの好きな一遍は阿弥陀経を愛読していたが、あれはどうもテンポがよろしくない。
漢訳の美しさではたぶん法華経がいちばんのお経になるのではないかと思う。
さて、もう何度目かで法華経を読み直したわけだが、
まあ読めば読むほどよく理解できるのは不思議ではなかろう。
ひと言で法華経を要約することができるのではないかと気づいてしまったのである。
法華経とはなにか? 「嘘も方便」である。法華経は「嘘も方便」に尽きる。
嘘にまみれているのが法華経だ。
本当のことよりも美しい嘘のほうがいいではないか、と法華経は主張している。
いわく、つまらない本当よりもおもしろい嘘、役に立つ嘘のほうがいいではないか。
法華経=「嘘も方便(→嘘>本当)」本当のことを言って相手を絶望させるよりも嘘でも希望を持たせるほうがいい。
相手の命が救えるのならば嘘を言ったところでなにが悪いもんか。
本当に相手のためを思うのならば、どんな嘘をついてもいいのではないだろうか。
法華経のエピソードをわかりやすく現代ふうに言い換えたらこうなると思う。
危険な遊びに夢中の子どもに新しいオモチャを買ってやると嘘をついて、
当面とりあえずの事故から子どもを守るのはそれほど悪いことでもない。
「どうせ死んでしまう」つまらない人生だけれども、
青年にはこの世には楽しいことがいろいろあることを教える老人は嘘をついているのか。
本当のところ現実は理不尽、不合理、不平等だが、
子どものころは「努力すれば夢がかなう」という嘘を信じていたほうがいいとは思わないか。
余命宣告された人が「お題目を唱えたら治る」という嘘を信じて死んでいくのは罪悪か。
一生懸命がんばっても芽が出ない人を励ます嘘はそこまで責められる類のものか。
たとえば凍えるように寒いクリスマスイブ、孤独なもてない男のために
ひと晩だけ恋人のように接してやるデリヘル嬢は観音さまの化身ではないか。
人生で恵まれなかった孤独な老人の愚痴を、
さも関心があるような顔をして聞いてあげる介護者は偽善的なのか。
寒々しい孤独なだけの本当よりも嘘でも夢のようなものを見ながら死におもむきたくないか。
法華経におけるいちばんの嘘は「久遠実成(くおんじつじょう)」と呼ばれものである。
「久遠実成」とは――。
インドの釈迦は実のところ死んでなどいなくて、永遠の仏さまが常に説法しておられる。
たぶん嘘なのだろうが、その嘘を信じたら生きやすくなるのならばそれでいいのではないか。
こう考えると以前は嫌悪していた法華経の説く仏罰と功徳(現世利益)も許容可能になる。
法華経いわく、不幸なのは過去世で法華経を誹謗中傷したからだ。
「この経をそしったがために、罪の報いを受けることこのようである。
もし人間となっても、つんぼ、めくら、唖(おし)であり、
貧乏と困窮、もろもろの衰えによっておのれを飾り、
水ぶくれ、消渇(しょうかち)、疥癬(かいせん)、癩疾(らいしつ)、はれもの、
これらの病を衣服とし、体は常に臭く、垢にまみれて不浄である」(P88)独善的な前近代的因縁話めいたところがかつては嫌いだった。
しかし、よくよく考えてみたら、不幸な人のなにが苦しいのかといったら、
「どうして?」がわからないところによる部分が大きいのである。
どうして自分だけ障害を持って生まれたのか。
クラスでいちばん貧乏な家に生まれたのはなぜなのか。
いったいどういう理由で健康に留意していた自分がよりによって難病にかかったのか。
こういう疑問は科学的には答えが出ないから、考えれば考えるだけ苦しみが増す悪循環だ。
「どうして?」を考えなければいいのだが、不幸な人間はどうしても考えてしまう。
このときたとえ嘘でも「過去世で法華経をそしったから」という
「どうして?」の答えを与えられたら、本人はあきらめがつくのではないだろうか。
結局のところ堂々めぐりの問いから解放されて安心から快方に向かうこともあるだろう。
究極まで突き詰めたら「どうして?」とまったくおなじで、
不遇なときに「どうしたらいいか?」も科学的な唯一解は出ない問題である。
「どうしたらいいか?」がわからないために不安になり、
さらに事態が悪化することもあるだろう。人間にとってなにより恐ろしいのは不安である。
こうした際に法華経の説く功徳(現世利益)はたとえ嘘でも慰めになるのではないか。
「……この経はこの世界の人々の病の良薬だからである。
もし人、病むことがあっても、この経を聞くことができたならば、
病は消滅して不老不死となるであろう」(P153)
「この経を読む者は常に憂いや悩みがなく、
また病気もなく、顔色は白く鮮やかであり、
貧しく・卑しく、醜い姿には生まれない」(P135)不老不死など嘘に決まっているが、そうだったらどんなにいいだろうか。
法華経は現世のみならず来世のことも保証してくれるのだから安心である。
病弱でもてない孤独なブサメンも法華経を読んだら来世でイケメンに生まれるかもしれない。
嘘かもしれないが、いや嘘だろうが、そうだったらどんなにいいことであろう。
法華経が我われにもたらす救済である。
今回読んではじめて気づいたが、法華経は自殺を肯定している部分があった。
「薬王菩薩本事品 第二十三」で一切衆生喜見菩薩は供養のために焼身自殺している。
諸仏は「これこそ真の精進である」と焼身自殺を絶賛しているではないか。
自殺後に一切衆生喜見菩薩は如来となり、
その後また再び人間世界に、そのうえ恵まれた国王の子として生まれてきている。
法華経に「愛する身を捨て」る行為は大精進であるという記述がしかと存在する。
自殺したものは人間に生まれ変わることなく永劫のあいだ地獄や畜生界で苦しむ、と
さも訳知り顔で小説に書いていた創価学会の作家がいたような気がするが、
彼は果たして本当に法華経を一字一句吟味しながら熟読したことがあるのだろうか。
(関連)「法華経(漢文)」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3400.html「法華経現代語訳」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-3072.html「物語で読む法華経」
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-1294.html