「維摩経」

「維摩経」(中村元訳/「大乗仏典」/筑摩書房)

→大乗仏典「維摩経(ゆいまきょう)」読む。
仏典だからいちおうお釈迦さまの教えということになっているが、
大乗仏教のお経のため言うまでもなく釈迦とは無関係の後世の創作である。
わかりやすく小乗仏教と大乗仏教の相違を説明する。
小乗仏教とは比較的に釈迦の教えに忠実な出家者が中心になった仏教。
世俗から離れたインテリさんの仏教と言ってもいいと思う。
一方で大乗仏教はインテリが嫌いの在家者が中心になって興した仏教。
小乗仏教の出家者は欲を離れることを目標としたが、
あさましくもギラギラした欲望から逃れられぬ在家の人間が
それでもずる賢くも救われようという願いから釈迦に対するフィクションを創作した。
それが大乗仏教ということである。ちなみに日本は大乗仏教の国だ。

大乗仏典「維摩経」をわかりやすく要約したら、つまりは「いじめ」ということになろう。
在家の維摩という金持の人格者が本来は偉いはずの仏弟子を打ち負かす。
説教していびったり、からかったりで仏弟子を泣かせたりするわけである。
創価学会は「維摩経」を評価しているが、いかにもであると言えなくもない。
資産家のまるで池田大作さんのような維摩がインテリの学者に大勝利する話である。
よって「維摩経」の主調音は以下のようになる。

金満人格者>清貧仏弟子

大乗仏教がどのように小乗仏教に勝利するかという論理はこうだ。
釈迦の教えに忠実な小乗仏教の出家者たちはあらゆる欲望から脱することを目標とする。
しかし、欲望を消そう消そうと思うとかえってその対象の欲望にこだわってしまうのが人間だ。
結果として、欲望は消滅しないし、いつも欲望があたまのなかに渦巻くことになりかねない。
だから小乗仏教はダメだと大乗仏教は主張するわけである。
じゃあ、どうすればいいのかと言うと、欲望にこだわらなければいいと大乗仏教は考える。
欲望を消そうというこだわりを捨てよという。
そもそも欲望もその対象もみな実質はないではないか。
相対的なこの世から離れた絶対の仏国土(あの世)というものを想定(仮構)したら、
この世のあらゆるものが空しくならないか?
絶対(どうせ死んでしまう!)を考えたらあらゆる相対的な価値観は色を失わないか?
所詮は小乗仏教など相対的な価値観の世界であたふたしているようなもの。
絶対(どうせ死んでしまう!)から見たら金持も貧乏人も大した差はない。
むしろ資産家を毛嫌いするような坊主の狭い了見はいかがなものか。
以上のような論理展開を経て、
金満人格者の維摩が悟り澄ましたような清貧な仏弟子に説教する。
維摩の主張を短く言い表したものは以下である。

「もろもろのことがらは皆妄見である。
夢のごとく、蜃気楼のごとく、水中の月のごとく、鏡の中の像のごとくであり、
妄想によって生ずるのである」(P16)


☆絶対→相対世界(=夢、蜃気楼、水中の月←妄想)

どうして絶対というものを大乗仏教は思いついたのか。
これは釈迦生存時からインドにあった三世因果説が関係していると思う。
三世因果説とは過去世、現世、未来世があるというインド古来からの思想だ。
なぜ偉大なる釈迦が誕生したのかと大乗仏教徒は過去世に思いを馳せたのだろう。
過去世で菩薩(ぼさつ)として幾度も修行したから彼は釈迦として生まれた。
この延々なる過去世はあまりにも長すぎる時間のため永遠ということになる。
永遠は相対(数字)では計測できないもの、つまり絶対的なものとなろう。
釈迦の過去世を想像することによって絶対(永遠仏、久遠仏)の観念が誕生したと思う。
この絶対から見たら相対世界のこだわりなど空しくなるというのが大乗仏教思想だ。

「維摩経」から有名なエピソードを紹介しよう。
維摩の豪邸に仏弟子たちが訪問しているとき、天女が華を降らしたという。
維摩たち菩薩に舞い降りた華はすぐに落ちた。
しかし、仏弟子たちに降りかかった華は身にまとわりついて取れなかった。
たとえ仏弟子たちが神通力(超能力)を用いても無理だったという。
あわてる仏弟子のひとり(舎利弗)に天女がたずねる。
天女「どうして華を振り払おうをするのですか?」
仏弟子「華は修行僧にふさわしくないからです」
天女「そういうこだわりがあるから華が取れないのでは?」
仏弟子「ううっ(絶句)」
天女「維摩さんはくだらない分別心がないから華も落ちるのですよ」
仏弟子「(負けた)」
維摩「(大勝利)」

もうひとつ天女と仏弟子のよく知られたエピソードがある。
小乗仏教は女性蔑視が強かった。女の身では修行はままならないと考えられていた。
仏弟子「天女さん、どうして女身を転じて男性の身にならないのですか?」
天女「あたしは女性でしょうか?」
仏弟子「え? どういうことです?」
天女「あなたの目にはなにも見えていません」
仏弟子「え? え? え?」
天女は神通力で仏弟子を女身に変えてしまう。
天女自身は男の仏弟子に変身する。
仏弟子「(女になった自分に気づき)あわわ(とあわてる)」
天女「仏弟子さん、どうして女身を転じて男性の身にならないのですか?」
仏弟子「参りました」
天女「男だとか女だとかいうことにこだわる分別心がいけません」
仏弟子「まったくその通りであります。降参!」
天女「お~ほっほ(高笑い)」
維摩「(ニヤニヤ)」

まあ、はっきり言って「いじめ」以外のなにものでもないが、これが大乗仏典だ。
どうしたら「不二の法門(悟り)」に入れるかという対話もある。
いろいろな菩薩(ぼさつ)がいろいろな説教を垂れる。
最後に維摩が答える番になる。維摩はどうしたか。なにもしゃべらず沈黙のままだった。
これを文殊菩薩が絶賛するのである。
「不二の法門」には言葉(相対的価値観)でもっては入れないことを
維摩はよくわかっている、という理屈である。
大乗仏典は「言葉では語れないもの」を語ったお経なのである。
このため信仰態度は大乗仏典そのものを重んじよという形式になる。

「<法の供養>がもろもろの供養のなかでもっともすぐれていて、無比である。
それ故に<法の供養>によって仏を供養すべきである」(P57)


このたびかなりの数の大乗仏典に目を通したが、どれも「法の供養」を強調していた。
相対ならぬ絶対を説いた大乗仏典自体がありがたいという考え方である。
最後になるが仏教というのは、苦しみと折り合いをつけるための教えである。
突然の災難に巻き込まれたときは、どう考えたら救われるのか。
以下引用文中の「病」は「災難」に置き換えてもおなじだろう。
災難に遭遇したとき我われはどうしたらいいのか。

「自分の病[災難]によって他人の病[災難]をあわれみ、
過去世無数劫における苦しみを知るべきである。
一切衆生をうるおし益しようということをおもうべきである」(P25)


ありきたりだが、苦しまないと人の苦しみはわからないということだろう。
そして、苦しみは過去世の報いだからあきらめるほかない。
とはいえ、絶対(永遠)から見たらいまの苦しみなど些細なものではないか。
ということを以下の引用文は主張しているのだと思う。

「病んでいるぼさつ[仏道修行者]はこのように念ずべきである。
――いま我(われ)が受けるこの病[災難]は
みな前世の妄想・顛倒・もろもろの煩悩から生じたものであり、
実体としては存在しない」(P25)


「維摩経」を供養したら病気が治ると現世利益を主張しているわけではないのである。
病気や災難に対する見方が少しばかり変わるのではないか。
そうしたらいくらかは楽になれるのではないか。
これが苦しみに対する「維摩経」の教えである。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3510-f088db96