「文藝別冊 総特集 山田太一」

「文藝別冊 総特集 山田太一」(KAWADE夢ムック/河出書房新社)

→有名人との対談、有名人からの寄稿、セリフ名言集、本人インタビュー、
過去エッセイおよび新作エッセイを収録する。
かつての赤福のような「もったいない精神」の発露だろうから責める気はないが、
過去の使いまわしがけっこう多い。さて――。

もちろん、発売直後の5月に買って読んでいるけれど感想を書けなかった。
8月くらいにそろそろ書けるかと思ってパラパラ読み直したのだが無理だった。
いまになってようやく理由がわかったが、
自分がだれよりも山田太一さんのことをわかっているという壮大な勘違いが
感想を書くことを妨害していたようだ。
お話しどころかお逢いしたこともないのにおかしなものである。
年齢的にも映像ではなく活字(脚本)で追っている遅れてきた世代なのに、
どうしてそんな誤った思い込みをいだいたのか我ながら恥ずかしい。

それは大ファンだからいろいろなことを思ったわけだが、
本音をぶちまけてしまっていいのかわからなかったということもある。
顔にあざがある人に逢ったとき、あざのことは気がつかないふりをするのは礼儀である。
育ちの悪い子どものようにジロジロ見てはいけないし、
そのあざはどうしたんですか? なんて初対面で聞くのはもってのほかである。
つきあいが深まっても相手のことを思いやって聞けず、いつしか疎遠になり、
結局最後まで聞かないで終わるということも人生ではあるだろう。
しかし、実際に顔にあざがある本人はどう思っているのだろうという問題がある。
当人はまるであざがないようにふるまわれることに偽善を感じることもあるのではないか。
少しばかり知恵が遅れたような子どもから、そのあざ、どうしたの? と聞かれたとき、
あざの持ち主はその子どもをほかのだれよりも愛らしく思うこともなくはないのではないか。
あざがあることで壁ができて人を信じられなくなるかもしれない。
そうだとしたら、やさしさや思いやりが仇(あだ)になることもあるとは考えられないか。

偉くなるとは顔にあざを持つのとあるいはとても似ているのかもしれない。
相手の地位や身分をおもんばかって、だれも本当のことを言ってくれなくなる。
それは格上とか格下の問題だけではなく、
相手の顔のあざに同情するような気遣いもむろんなくはないだろう。
偉くなると顔にあざを持つ人のさみしさを実感として理解できるようになるのではないか。
かといって、顔にあざがある人同士がめぐりあってもおなじことである。
どことなく親近感または同族嫌悪のようなものを感じはするだろうが、
厚かましく踏み込んで相手のあざにまでは言及しないだろう。
しかし、家に帰ってから自分のあざのほうが小さかったと
鏡を見ながら思うこともあるかもしれない。そんな自分を嫌いになることもあろう。
顔にあざがあることで人の複雑な気持がより理解できるようになることもあるかもしれない。
それは顔のあざをポジティブにとらえるということだ。
ときに自分はあざしか見られていないのではないかとネガティブになることもあるだろう。

あざと自分とは関係ないではないかと憤慨したくなる憂鬱な日もないわけではない。
だが、あざを除去したら自分になにが残るだろうかという恐れもある。
やはりあざこそ自分なのだと悟ったように思う日もないといったら嘘になるだろう。
とはいえ、人にやさしくされるとそれは自分があざを持っているからではないか、
とつい疑ってしまいたくもなる。すぐにいや、世間とはそういうものなのだと思い直す。
こういった顔のあざのようなものを山田太一さんは持っているが、
本書ではだれもそのあざのことを指摘していなかった。
それは山田太一さんがだれよりも人の顔のあざを見ない人だからということもあろう。
人を傷つけることを恐れる人だ、といいかえてもよい。
人から傷つけられることをだれよりも恐れる人なのかどうかはわからない。
孤独なさみしい人なのだろうということはなんとなくわかるが、
人の気持などわかるはずもなく間違っているかもしれない。間違っているのだろう。
果たして本当に山田太一さんに顔のあざのようなものがあるのだろか、という問題もある。
もしかしたら、だれの目にも見えず、あざはわたしにだけ見えているのかもしれない。
反対にそれはひどい思い上がりで、最初からあざなんて存在していないのかもしれない。

大きな思い違いをしているということもありうる。
わたしはまったく偉くないが、顔のあざは自分にあるのかもしれない。
自分のあざを恐れ多くも山田太一さんに投影しているだけとは考えられないだろうか。
人は突き詰めると自分しか理解できない。自分さえ完全には理解できない。
わたしは自分にあると思った顔のあざを、
山田太一さんも持っていてくれたらいいと思ったのではないか。
あるいは、自分だけではなく、みんな顔にあざを持っているのかもしれない。
山田太一さんのあざが人一倍大きいから目立つだけということも考えられる。
ならば、だれもが自分ほど山田太一さんを理解しているものはいないと思うものではないか。
そのことはみな謙虚なために、厚顔なわたしのようにおおやけに口に出さないだけで。
みんな自分だけのあざを持っているがために、
だれもが山田太一さんのあざを自分だけがわかっていると錯覚するのではないだろうか。

逆にこうもいえるだろう。
山田太一さんは大きなあざを持っているので、人のあざに敏感なドラマを書けるのではないか。
視聴者はときに自分にはあるとは思っていなかったあざまで自覚するようになる。
このとき山田太一さんはあざを指摘しているのではなく、視聴者みずからに自覚させている。
そういうことができるのは、何度も繰り返しているよう、
山田太一さんがひときわ大きなあざを持っているからとしか考えられない。
この大きなあざはいったいいかなる性質のものなのだろうか。
もしかしたら本人にもわからないものなのではないか。
それをわたしごときが指摘できると思ったのはやはり思い上がりも甚だしいのだろう。
この記事には山田太一ドラマのように結論はない。

COMMENT









 

TRACKBACK http://yondance.blog25.fc2.com/tb.php/3443-61a7cec2