「天才だもの。」

「天才だもの。 わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか」(春日武彦/青土社)

→この「天才論」はもうおもしろすぎて、いまもところどころ読み返して笑いがとまらないため、
哀しくもおのれの文才のなさを思い知らされ、
とてもではないがわかったような感想など書けず、
作者の春日武彦氏は天才ではないかとも思いたくなるが、
しかし氏の定義によるとやはりこの精神科医は残念ながら天才ではないことになってしまう。
わたしは春日さんこそ天才ではないかと声高に主張したいのだが、
この一冊だけでも天才学の権威を名乗るにふさわしい春日氏は決して認めてくれないだろう。
というのも、春日武彦さんは自身の定義する「天才」と適合しないからである。
春日武彦はなぜ「天才」ではないか――。

・作家として遅咲きである。天才というには今現在あまりにも長生きしすぎている。
・怒られそうだが、天才の顔(美男子)ではない。華々しさに欠ける。
・下品であるものの「どぎつさ」や派手さ不穏さがいまいち感じられない。
・邪(よこしま)な気配はそれなりにあるが、いかがわしさと騒々しさが足らない。
・人を振り回すエキセントリックなところが皆無の、陰湿だが内省的な性格である。
・万民から嫉妬されるには存在がマイナーで退屈すぎる。
・まったく破綻のない堅実な人生を送っている。
・小心者のため冒険心に欠け、酒、薬物、賭博、性行為等の快楽に夢中になれない。
・ちまちまと小さくまとまりすぎで、どうしても底の浅さが見透かされてしまう。
・嫉妬心は強いが、権威者とうまく人脈を作れる程度の常識と社会適応能力を持っている。
・「世間を慌てさせたり、絶句させたり、混乱させたり」する狂人を管理する職業に就く。
・医者は社会的評価の高いお堅い職業で、キッチュでチープな非日常的世界の住人ではない。
・生意気ではあるが「まっとう」な俸給取りで、熱中や気まぐれ、瞬発力、突飛さに乏しい。
・職業柄、あくまでも科学的思想にとどまり、偶然や人知を超えたものを信用できない。
・職業柄、小市民的な善悪の判断など笑い飛ばすような危うさがまったく感じられない。

春日武彦さんはこの名著をある心残りから書いたのだという。
精神科医いわく、人はだれでも生まれてくる直前に神様から問われている。
その神様は、きっと白い髭(ひげ)を生やし杖を手にしたステレオタイプなものだ。
そんないかがわしい神様から我われはいったいなにを問われたか。
「お前は苦渋に満ちた天才の人生と、平穏無事な凡人の人生と、どちらを選ぶか?」
著者によると、この問いに大概の人はつい後者を選択して生まれてきているのだという。
とはいうものの、この選択への未練は生涯つきまとう。
春日武彦さんはうっすらとこの胡散臭い神様のことを憶えているらしい。
そして、いまだにいい歳をして春日医師は後者を選んでしまったことを物足りなく思っている。
たとえ虚言癖から生じるものであろうと武勇伝を語るような人生を送ってみたかった。
変装が趣味の愉快犯のように世界を挑発しつづけ、
捨て台詞を残して早々とこの世からおさらばしたかった。
いまからでも遅くはないのではないか。
どこかに隠し扉があって「文字を持たない町」へ行けるのではないか。
後者を選んでしまった我われもまた潜在的な天才ではないか。
不足しているのは運と奇矯(ききょう)さだけとは考えられないか。
もしも願いがかなうのならば、禍々(まがまが)しい天才の世界に飛んでいきたい。
そんな夢想を表現したのがこの名作エッセイなのである。

春日武彦氏は天才の対になる言葉は凡才ではなく詐欺師ではないかと指摘する。
わたしは天才と対になる言葉は円熟ではないかと思う。
当方の円熟とは、パターンの繰り返しであるマンネリズムが深まったもの程度の意味。
おそらく春日さんも少なからずそういう傾向があるのではないかと思うが、
わたしは天才作家よりも円熟作家のほうを好むところがある。
もちろん、若くして彗星のように現われ、世から認められた天才への嫉妬がたぶんにある。
たとえ、その天才がその後に落ち目になり、
ほぼ運命にもてあそばれた被害者同然になったとしても旧天才は嫌いである。
若いうちに一度でもいい思いをしたのなら、まだましだろうと意地悪く思ってしまう。
そもそも天才の作品は感受性が鋭敏な多くのプチ天才から評価されるものだろう。
わたしは恥ずかしながら、そういう鋭い芸術的センスを持ち合わせていないのだ。

何度でも言うが、天才は嫌いである。
覗きで逮捕されたような張りぼての天才児・寺山修司よりも山田太一ドラマを好む。
豪放磊落ぶった躁うつ病の開高健よりも、せこせこした庶民派作家の山口瞳が好きだ。
美男子の中原中也や尾崎放哉よりも、サラリーマンに人気の通俗的な山頭火のほうがいい。
よく憶えていないが、深沢七郎の「楢山節考」よりもたぶん井上靖の「姥捨」のほうがいい。
文学の香り高い南木佳士氏もいいが、俗悪で下品な春日武彦氏のほうがおもしろい。
たしかに後者はどことなくマンネリのにおいがするが、それこそ円熟の味ではないか。
しかしだ、はてまあ、いったいどうして
山田太一、山口瞳、山頭火、井上靖、春日武彦の各氏が天才でないと言えようか。
本音を白状すれば、わたしは週刊「スピリッツ」に掲載されている
くだらない(と世間的には言われる)漫画からも天才性を感じることがある。
これはきっと春日武彦さんもおなじだろう。

「ビュッフェ[有名なフランスの画家らしい]を天才だと言いつつも、
わたしの頭の中では彼の絵も漫画も缶詰のレッテルの絵も、すべて同等でしかない。
だが、世の多くの人々も、案外そんなものではないのだろうか」(P139)


さて、狂人を支配・管理・指導する精神科医は天才という存在をどう見ているのか。
名著に敬意を表しながら、以下に要点を引用させていただく。
狂人はかならずしも天才ではないが、
しかし精神科医の春日氏によると、天才もまたかならずしも狂人ではないという。
どうしてか我われは天才と狂人は紙一重という通念から逃れられない。
天才と狂人の関係を精神科医はどのようなものとして思っているか。
むろん、精神科医の答えだからといって唯一絶対の「正しい」回答ではないが、
少なくとも傾聴に値するものではあろう。

「狂人と天才の決定的な違いとは、安直さの有無である。
精神を病んだ人は、我慢ができない。
性急で、地道に物事を進めることが出来ない。
すぐに事態を分かりやすい形にしなければ精神が耐えられない」(P18)


「狂気の人と天才とのあいだに通底するものがあるとすれば、それはおそらく孤独である。
どちらもメーターの振り切れた存在といった点では、常人には近寄り難い。
それがために世間からは孤立し、誤解され、冗談の肴(さかな)にされる」(P19)


数学者の秋山仁教授はかつて質問されたそうだ。
「フェルマーの最終定理」を持ち出した17世紀の弁護士ピエール・ド・フェルマーと、
その問題を解いた現代の米MITのアンドリュー・ワイルズのどちらが優秀か。
秋山教授は即座に「フェルマーに決まっている」と答えたという。
これを説得力のある意見だと春日氏は同感する。

「問題を解くことには与えられた目標がありそれへ向けての「作業」といった趣がある。
だが、問題を作るほうは、
とりとめのない森羅万象の中からひとつの謎を抽出して提示する。
作るほうが、突飛な精神が必要なのではないか。
あるいはトリックスター的な才能を必要とするのではないか。
少なくとも何か野放図で、のびのびとした精神を感ずるのである」(P96)


以下の引用文の「写真」を「小説」に、「相手」を「モデル」に換えると文学論になる。
そうそう、「撮影」は「描写」くらいの変換が適切か。

「これは凄いなあと思う写真の中には、考えてみれば、
よくもまあ相手に胸倉を掴(つか)まれなかったものだと呆(あき)れさせるものや、
これをぬけぬけと撮影するなんて人の道から外れているのではないか
といった驚きが根底に横たわっていることがときたまある。
罰(ばち)が当たらないだろうか、とか。
そのあたり、本人なりに弁明は考えているのだろうが、おそらく悪魔だか窃視者だかに
徹することが出来るかどうかが作品の迫力に反映することも少なくあるまい」(P158)


これこそまさにわたしが春日武彦氏の作品を読んで思うことなのである。
そこまで患者の悪口を書いて、いままではいいが、これから罰が当たるのではないか。
そのくらいおもしろおかしく春日さんは職業上知りえた秘密を嬉々として公開しているのだ。
モデル本人が読んだらと思うと、あまりにも残忍でグロテスクなため震えが起きる。
精神科医の春日武彦をわたしがある種の天才だと思うゆえんである。
よく読みもしないくせに厚顔にも言い放つが、
現代小説よりも春日氏の作品のほうがよほど強く文学を感じさせるのはこのためである。

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