「本当は不気味で怖ろしい自分探し」

「本当は不気味で怖ろしい自分探し」(春日武彦/草思社)

→春日武彦氏にとって精神科医というのは天職なのではないか。
この人はたぶんほとんどいや絶対にカウンセラーはやれないけれど、
精神科医としてならとても優秀だと思う。
「相手の身になる」というのはかなりの職業において必要とされている条件だと思う。
相手の身になって考えるというのは、大半の社会人に必要なふるまいである。
ところが、春日武彦さんは徹底的に他者との関係において閉じている。
こういう言い方をしたら人格的に否定しているようだが、そうではなく、
いい意味で人の気持がまったくわからない。そもそも春日さんのみならず、
究極的にはわたしもあなたも絶対に人の正確な気持はわからない。
ここから態度がわかれて、なお人の気持をわかろうとするかどうかになる。
春日武彦氏は患者の気持なんて知ったことか、と思っているから優れた精神科医なのである。

たぶん春日さんの診察の根本方針は「所詮は他人事」ではないかと思う。
これをやって許される唯一の臨床医が精神科の医者である。
なぜかと言うと精神科医は、患者の妄想に巻き込まれたら治療ができなくなるからだ。
相手の身になって患者の妄想を真に受けたらとんでもないことになってしまう。
ただでさえ精神病患者の家族はたいへんな思いをしているのである。
ここで精神科医まで妄想の嵐に巻き込まれてしまったら避難場所がなくなってしまう。
精神科医にとって必要なのは、相手の話を真に受けず「ふーん」と聞き流す能力だと思う。
精神病患者なんてもんは被害妄想炎上で悲劇のヒロインを気取っているのが多いのだろうが、
そこで相手に同情したら思うつぼになってしまうがための「所詮は他人事」なのである。
「あっそう」「お気の毒だね」「その話、まえにも聞いたな」「はいはい、落ちつけよ」――。
こんなふうに心中で患者を見下しながら社会適応を指導するのがよき精神科医の仕事である。
間違っても患者の気持(狂気)になってはいけないのだ。
患者の周囲(多数派)を代表して防波堤となり少しでも当人が多数派に戻れるようたくらむ。

このとき人の気持を理解できないことが才能となるのである。
相手(患者)の話(妄想)をなかなか信用しない猜疑心の強さもまた才能だ。
単純な善人医療者は、禍々(まがまが)しい狂気と向き合うには頼りなさすぎるのである。
患者さん本人はわからないが(ここはけっこう重要!)、
少なくとも患者の家族は春日武彦医師が担当だったらかなりラッキーだろう。
こういう精神科医はめったにいないと思うからである。

「どちらかといえば、自分は邪悪な人間だろう。
恨んだり妬んだり、他人の不幸を願ったりしてばかりいる。
いかがわしいことにばかり関心が向く。
いつも他人を疑い、騙されたり罠にかけられるのではないかとびくびくしている。
そのような怯(おび)えは、自分の心を相手に投影しているだけなのだが」(P201)


最後の一文がなかったらやばい人なのだが、わかっているのでこの人は安心である。
この一文がわかるかどうかでじつは大違いなのだろう。
だが、いかにうまく言い聞かせてもよく効く薬を与えても患者は理解しようとしない。
周囲が黒々とした悪意の持ち主に見えるのは、実際は自分の精神状態がそうだからであると。
よく精神病患者は「○○先生は私の気持をわかってくれている」などと言うが、
実際は「わかっていない」「わからない」ことにおいてその医師は信頼できるのだろう。
以上はすべて精神病患者(統合失調症、躁うつ病)についてだが、
うつ病、神経症、強迫症状、依存症、パーソナリティ障害については春日医師の手腕はどうか。
専門家でもないのにわかったようなことを書くのはいけないとは思うが、
精神病以外は基本的に医者に治してもらうものではなく、
自分で自分とげんなりうんざりしながら折り合いをつけていくものなのだろう。
話を戻すと精神病も治してもらうものではないような気がする(そもそも治らないのでは?)。
精神病はなんとか専門家に薬品パワーで抑えて人畜無害な状態にしてもらうものだと思う。
さて、いやな書き方をすると、言葉が通じるのはおそらく精神病以外の症状だろう。
優秀な精神科臨床医の春日武彦氏は果たしてどのような言葉を患者にかけているのか。

「精神科医という職業柄、いろいろな人たちの悩みを聞かされ、
また彼らの世界観を知ることになる。
わたしは気の毒に思ったり同情することはあっても、そのいっぽう、
「無い物ねだりをしても仕方がないでしょ」
「現状を受け入れるしかなかったら、とりあえずそうするしか選択肢はないじゃないか」
と感じその旨を伝える。
その伝え方に精神科医ゆえの技量が関与することになるわけだが、
基本的には身も蓋もない発想しかしていないのである」(P97)


「ハハハ、お気の毒だけど現実は変わらないよ」ということだろう。
「どうしようもないことはどうしようもないよね」みたいな。
結局、あらゆる悩みは解決しないのだろう。受容するしかない。
それをどう伝えればうまく相手に気づいてもらえるかが精神科医の手腕なのだろう。
精神科医の言葉を伝達しても意味がない。
ときに薬を使いつつ患者が自分の言葉でもって気づくのを待つしかない。

この文脈において春日医師は「自分の言葉」と「他人の言葉」の重みを熟知している。
「自分の言葉」は「他人の言葉」と異なる。
だが、「自分の言葉」が出てこないときには「他人の言葉」にすがるのもいいだろう。
本書によると、青年時代、春日医師は自意識過剰で自分の文章が書けなかったという。
そのときやったのが好きな「他人の言葉」を採取して書き写すことだった。
いつしか忙しくなり、そんなこともやめてしまった。
年月を経てある夜、当直室で春日さんは久々になにか書きたい気分になった。
当直中に来たおかしな患者について書きたくなった。
そのとき書けたという。「自分の言葉」で書けたという。
「自分の言葉」でなにに気づいたのか。

「自己顕示欲と「あざとさ」に彩られた自分からやっと抜け出し、
ごく自然に日常生活を送っていけそうだという、
「普通であること」のもたらす喜びを感じていたのだった。
愚にもつかない「アートなわたし」なんか存在しなかったのである。
他人に憑依(ひょうい)し、他人になりすまし、
他人の文章に自分の心をすべりこませることでわたしは救われた。
もしそのようなプロセスの途中で個性が失われたとしても、
そんな脆弱な個性など価値はない。
過去のわたしは臆病な怠け者でしかなかったのである」(P238)


精神科医の春日さんの患者のなかには病気を個性と思っている人が大勢いそうである。
優秀な臨床医がそのことを非常に苦々しく思っていることはわかるが、
精神科医が病気とみなすものが果たして本当に個性かそうでないかはわからない、
とわたしは本書を読んでもなお依然として思っている。
未熟なためか「普通であること」はそこまで輝かしく万々歳なことかまだわからない。
わかったふりをしている春日医師もおそらく本当にはわかっていないと思う。
「普通であること」を肯定しつつ、
しかしどこかに違和感を持っているのが精神科医・春日武彦の文章の魅力である。

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