「医療否定は患者にとって幸せか」

「医療否定は患者にとって幸せか」(村田幸生/祥伝社新書)

→ネットではえらくヒステリックに叩かれているが、とてもいい本だと思う。
内科医の著者の書いた「お医者は辛いよ」である。
ほとんどの医者が青年時代、善きことを目指してこの仕事に就いたのに、
なぜか患者からは悪者としか見られない現状を嘆く。
いまの人は病院で死ぬことが多いから、遺族はつい最後の医者を悪者のように見てしまう。
医者がもう少しなにかしてくれていたら、
いささかでも長生きさせてあげたのではないかと思う遺族心理を著者はよく理解している。
著者は書いていないが、遺族はたぶんこう思えばいいのだろう。
このお医者のおかげで本当はもっと早く死ぬところをここまで生かしてもらえた、と。
わたしもむかし親を亡くしたとき、かなり強く当時の主治医を恨んだものである。
しかし、もしかしたらあの医者だからこそ、あそこまで生きられたのかもしれない。
あの医師でなかったらもっと早く死んでいたのかもしれないではないか。

読みやすい文体ながら、かなり鋭いことを著者はいろいろ指摘している。
この人は非常にあたまがいいと思う。
たとえば民間の健康食品や「○○を食べたら病気にならない」をどうとらえるか。
ふつうの医師ならたぶんあたまからバカにしてかかるだろうが、著者は誠実である。
肯定も否定もしない、つまり、わからないと言うのだから。
なぜかと言う説明がとてもわかりやすかった。
健康にいいAというものを毎日摂取したとする。たしかにそれで元気になった。
おかげで血液検査の結果がよくなった。だとしたら、効果があったのか。
答えは、わからない。なぜならばAを摂取していない自分と比較できないからである。
著者の体験として養毛剤をあげている。
長年ある養毛剤(医薬部外品)を使っていたが、
薄くなったことを同僚に指摘され別の医薬品の発毛剤に変更したという。
ところが、1か月後よけい髪が薄くなっている気がする。不安である。
しかし、発毛剤が自分に合わないのか、それとは関係なく脱毛が進行しているのかわからない。
なぜなら、いまの発毛剤を使っていない自分と比較できないからである。
結局、著者は元の養毛剤に戻したら脱毛の進行はストップしたが、
発毛剤が自分に本当に合わなかったかどうかはわからないと正直に白状している。

これは降圧剤などでもおなじだと著者は指摘する。
降圧剤をのんでいても脳梗塞になることはある。
だから、のんでも意味がなかったとは言い切れない。
もしかしたらのんでいなかったら、もっと早く脳梗塞になっていたかもしれないし、
そうでないかもしれないし、個人のケースではそれはわからない。
が、いちおう血圧に関しては大規模な統計が取れているから、
(統計のない)民間の健康食品とは異なり、まあ服用しておいたほうがいいとは言える。
わたしの実体験を書く。病名は伏せるが、ある薬の服用を開始した。
1ヶ月後に効果があったか血液検査をするという。わたしは医者に質問した。
「薬をのんでいるから、数値を悪化させる食品を口にしてもいいですか?」
医者は口ごもった。再度問う。答えは「なるべく食べないほうがいいような」――。
結局どうしたか。薬の効き目を調べるんだから、医者に逆らっていつも通り食べようと決めた。
1ヶ月後、血液検査をしてみると、たしかに数値が下がっていたのである。
西洋医学というのはすごいものだと感激したものである。
しかし、もし食生活を変えていたら薬品の効果かあったのかどうかわからないことになる。
本書を読んでわたしのやったことは、それほど間違っていなかったのだと確認できた。
(生意気にもお医者さんのご指示に逆らってごめんなさいです)

原因と結果のあやふやさにも優秀な医師である著者は敏感である。
テレビで百歳を超えた老人がばりばりフライドチキンをむさぼるのを見たという。
あぶらぎった老人は好物だからフライドチキンを毎日食べているとのこと。
ゲストが、「好きなものを食べていると長生きするんですね」というコメントを出した。
それはおかしいぞ、と著者は突っ込みを入れる。
フライドチキンを食べていたから長生きしたのではない。
丈夫な胃腸と歯を持っていたから長生きして、
結果としていまもフライドチキンが食べられるのではないか。著者は主張する。

結果から原因を後付けしない!

これはまったくそうだと同感する。いかに我われは結果から原因を作っているか。
ほかにも著者は「高僧は長寿」という説を否定している。
長生きしないと位が上がらない。若くして死んだら、高僧の地位には行かない。
高僧は長寿の原因ではなく、結果を言葉を変えて言ったに過ぎないのではないか。
「日光暴露が心筋梗塞を減らす」という論文もそうではないかと著者は言う。
日光のあたらない室内でコーヒー、タバコをのみながら
デスクワークしている運動不足のサラリーマンは心筋梗塞になりやすいというだけ。
つまり「原因→結果」のように見えて「結果→結果」を言っているだけではないか。
これは別の本で読んだが(中島義道「後悔と自責の哲学」)、
ダーウィンの適者生存説も似たようなものである。
適者が生存したというのは生存しているのが適者なのだから、
別に新しい学説ではなく単なるトートロジー(同語反復)に過ぎない。
こうして考えてみたら、世にはびこる成功法則なんぞもその最たるものである。
成功者が成功という結果から原因を告白しても、それは成功の原因ではないことになる。
さらりといま書いているが、みなさん、おわかりいただけましたか?
著者のあたまのよさには驚く。
我われはけっこう「結果→結果」を「原因→結果」と錯覚しているのではないだろうか。

さて、たいへん優秀な著者は説明責任を重んじる最近の医療風潮に疑問を呈する。
「治りますか?」と患者から聞かれる。
医師としては「かならず治りますよ」と言いたいし、そのほうが治療効果も上がる。
だが、それをやってしまったら訴えられてしまうのだという。
「治る確率は60%です」などと正確に情報を伝えることが義務づけられている。
患者の気持はどうか。「60%のためにがんばるぞ!」というのは滑稽ではないか。
患者の主観では治るか治らないかは100%か0%かである。
ならば「100%治る」と思って闘病したほうがいいのではないか。
このために患者は「60%」などという医者を敵と思ってしまうのだと著者は言う。
医者はあんなことを言っているが絶対に治してみせる、と主治医を信じられなくなる。
本当は医者だって「絶対に治りますよ」と力強く言いたいのである。

これに関係する米国の「セクレチン騒動」を本書から引用させていただく。
とてもおもしろい。

「一九九六年四月、米国の三歳の自閉症児が、セクレチンの注射とともに
しゃべれるようになったことにより「自閉症児にはセクレチン!」という報道が、
瞬(またた)く間に全米中に広がった。
そして現実に、多くの病院でセクレチンの注射により、
自閉症児が会話できるようになったり、IQの上昇がみられたのだ。
医学誌への論文報告もされている。
ところがその後のRCT[無作為化比較試験]では、驚くべき予想外の結果が出た。
セクレチンの注射と生理的食塩水の注射との比較で、改善度は同程度であったのだ。
これは多くの教訓を医者に与えた。つまり病気の種類によっては、
「非特異的エピソードが(プラスであれマイナスであれ)状態を変容させ得る」
ということだ。
右の内容は、かつて『メディカル朝日』に掲載された伊地知信二、奈緒美医師の
文章をわたしが要約したものだ」(P71)


だとしたら、現世利益をうたう新興宗教もかなり有効ということではないか。
新興宗教の集会や会報では、いわゆる奇跡めいた報告例が多数あろう。
「かならずよくなる」と周囲や本人が強く信じたら「状態を変容させ得る」のではないか。
周囲が自閉症児への見方を変えたら、自閉症児がしゃべれるようになったのである。
このときの新薬がお題目でもツボでもパワーストーンでもいいことにならないか。
我われの見方しだいで「状態を変容させ得る」というのは衝撃的なことだと思う。
自閉症児だからどうせダメだろうとあきらめていたらしゃべることはなかったのである。
希望という偽薬の効き目がいかにすごいか、である。
一見すると薄手の軽めの本だが、内容はわかりやすいうえに深い。いい本を読んだ。

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