「文学研究という不幸」

「文学研究という不幸」(小谷野敦/ベスト新書)

→あまりにも世間知らずでこれを白状するのが恥ずかしいけれどさ、
大学を出てから6、7年経って小谷野さんの本を読んではじめて
大学教授の社会ステータスの高さを知ったようなところがある。
大学生時代は教授がそんなに偉い人だなんてまったく思っていなかった。
大学に入って驚いたのは、想像していたよりもはるかに講義がつまらないこと。
先生が教壇で教科書を棒読みしているような講義ばかりだった。
河合塾で1年浪人していたから、ぼくのなかでは予備校講師のほうが教授よりも偉かった。
いやあ、世間知らずっしょ。
だから、大学教授にあこがれるなんてまったくなかった。
ああいうつまらない人間にだけはなりたくないと生意気にも思っていたような気がする。
記憶に残っているのは社会学のO先生の講義くらい。
しかし、あれは当時ウブだったから刺激を受けたようなもんで、いまから思えばくだらない。
結局、いちばんおもしろかったのは当時客員教授だった原一男先生の授業だった。
客員教授と正規教授の違いも知らなかった。
どうすれば大学教授になれるのかなんて考えたこともない大学生であった。

本書で小谷野さんは大学の講義の大半は意味がないと書いている。
入門書でも読ませて、わからないところを質問に来させればいいだろうと。
いまのぼくからしたらまったくもって正論である。
しかし、小谷野さんはわかっていないが、早稲田の学生でさえ入門書も読めないのである。
証拠を出せと言われたら、恥ずかしながら自分を指さす。
大学時代のぼくは入門書も読めないくらい知的レベルが低かった。
岩波新書を最後まで読み通すのに下手をしたら1週間かかることもあり、
それでも最後まで読めたのだから自分としてはよしとするかというレベルの頭脳だった。
いつからこんなにぐいぐい本を読めるようになったのだろう。
やはり大学卒業直後の身近な不幸というのが大きく、
切実に「なぜ?」を知りたいと思いながら成長(退廃?)していったような気がする。
それから現実逃避としてはドストエフスキーやトルストイのクソ長い小説は有効だった。
いまではあんなの読み返す気にもならないけれども。

おっと、くだらない自分語り失礼しやした。本書は小谷野さんの本音が楽しい。
「詩人>小説家>評論家>研究者」という序列があるとかさ。
無名大学の教授が非常勤勤務の学習院のほうを愛して「学習院の○○です」と言うとか。
源氏物語研究者は、実は瀬戸内寂聴や田辺聖子にコンプレックスがあんだろとか。
それはあったりめえで、瀬戸内さんや田辺さんは研究者なんかよりはるかに偉いのだが。
「おもしろい」ことを書く人は「正しい」人よりも偉いのである。
だから、小谷野さんも「おもしろい」ことを書けるんだから、もっと自信を持ってね。
それと文学研究はもうやることがなくなっているとか、へえ、そうなのかと思った。
マイナーなものをやっても評価されないから、
みんなシェイクスピアやゲーテ、源氏や漱石に走るとか、あはん、ぶっちゃけてますな。
芥川賞作家で東大教授の柴田翔のオーラがないとか、
そんなん、どうでもええやん。くうう、笑えるぜ。

文系の大学研究者はみな人格が未熟で人事もいやらしいというのは勉強になった(なんの?)。
しかしまあ、意味もない文学研究なんぞやっていると、そうなってしまうのだろう。
結局、本書を最後まで読んでも文学研究というのはなにをしているのかわからなかった。
きっと大学教授が読書感想文を書いたら「研究」になるような世界なんでしょうな。
手下や子分を集めて生意気な新人をいびるのが大学教授の仕事なのかもしれない。
きっと人を支配するのは文学研究なんかよりもはるかに楽しい仕事なのだろう。
小谷野さんが嫌いな中島義道先生も助手時代だいぶ教授からいじめられたようである。

「自分が大学に呼んでおいていじめる、という例は、
大月隆寛も、歴史民俗博物館へ助教授として呼ばれながら、
呼んだ当人と衝突して辞めたと言っており、
おそらく、呼んだ側では、果てしのない感謝の表明を当人に期待するので、
その期待が満たされずに、いじめとなって現れるのだろう」(P223)


いじめられっ子にして大のいじめっ子の小谷野さんらしい鋭い分析で感心した。
どうして小谷野さんはこんなに人のうわさ話が好きなんでしょう。
彼の女が腐ったような性格はとてもいい。そこが小谷野さんの魅力である。ゴーゴー!

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