「後悔と自責の哲学」

「後悔と自責の哲学」(中島義道/河出書房新社)

→自分の関心とどんぴしゃりの本とめぐり合うと嬉しくなる。
わたしが仏教から考えていたことを、著者は西洋哲学から考察している。
内容はかならずやみなさまにも興味深いと思うので(違ったらごめんなさい)、
理解を深めるためにも自分の言葉でまとめてみたい。どうかお付き合いのほどを。

テーマをひと言で表せば「人に選択の自由はあるのか?」だと思う。
もちろん、答えを出さずにずっと問い続けるのが哲学ゆえ回答のようなものはない。
我われが自由ということ考えるとき、それは現在ではなく過去をモデルにしている。
わかりやすいのは交通事故や犯罪である。
交通死亡事故の加害者は、
被害者を死亡させぬ(轢かぬ)自由があったと考えられるから罰せられるのである。
しかし、法定速度で注意深く運転していても事故を起こすことはある。
これはいくら酒を飲んで運転しても事故を一度も起こさない人がいるのとおなじである。
本人はなんの過失もなく運転していたつもりでも小学生の列に突っ込んでしまうことがある。
このとき、小学生をいく人か殺したという重みに折り合いをつけるためだけに、
「わき見運転」や「注意義務違反」などの法的違反と罰則が本人に課せられる。
これは運転者に過去(事故当時)自由があったという建前のもとでの判決だ。
小学生を轢き殺した運転者はなぜ自分がと思うだろう。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかわからない。
事故の瞬間、自分がなにをしたのかは決して思い出すことはできないはずである。
なぜブレーキの代わりにアクセルを踏んだのかはわからない。
しかし、その時点において自由であったという前提で責任を負わせられる。
彼はいくらそのときのことを後悔しても後悔し尽くせるものではないだろう。

自死遺族も自由の問題に苦しんでいるとも言いうる。
たとえば、父親が車庫にとめてある車のなかでガス自殺した場合――。
遺族の息子はもし学校に行くまえに自分が車を覗いていたら
父は自殺していなかったと激しく後悔する。
彼は車を覗き込むことができたという自由(の思い込み)のせいで
何年も後悔と自責の念に苦しまなければならない。
また別のケース。父親がふいに家を出て自殺してしまった。
そのまえに父親から一緒に風呂に入らないか、と誘われた。
中学生になる息子は恥ずかしいからという理由で断ってしまった。
彼は事件後、もしあのとき父と入浴していたら自殺していなかったのではと後悔する。
客観的に見たら、どちらの場合も、
たとえ息子が(していればと)後悔している行動を取っていたとしても、
最終的には自殺をしていたとも考えられる。
しかし、この自死遺族にどういう慰めを言っても、本人の傷ついた心には響かない。

いまわかりやすく交通死亡事故と自死遺族を見てきた。
こういう極端なケース以外にも、我われはいたるところで後悔の念に襲われる。
あのときああしていたら、こうはなっていなかったのではないか、と思うのが後悔の実相だ。
あのとき自分はAかBか選択する自由があったと思うがゆえに後悔するのである。
この点、自由というのは過去がベースになっている。
この過去における自由が、いまこの瞬間にもあると一般的には考えられている。
自分はいまAかBかを選択する自由がある。
こう考えるがゆえに過去の行為を人はいつまでも後悔しつづけることになる。
しかし、我われは本当に選択する自由など与えられているのか。
そもそも生まれてきたのは自由ではない。
この国にこの性別で、この程度の貧富の家に生まれてきたのは自分の意志ではない。
むしろ、投げ込まれたといってもよい。
過去の企て(選択)はすべて投げ込まれた場所からなされたものである。
なにか現状を変えようと人は企て(選択)をするけれども、
その企(くわだ)てはすべて投げ込まれた場所の制限に縛られている。
貧乏な家庭に生まれたらアメリカ留学はできないから、せいぜい図書館で読書するくらいだ。
我われの企てはほとんど常に思いどおりにはならず、
企ての結果としてまた新たな場所(制限、枠)に投げ込まれる。
この投げ込まれた枠のなかでまた我われは健気にもなにかを企てるのである。

殺人者はどうか。
殺人者は「身勝手な欲望から」や「嫉妬に狂って」や「復讐の念にかられて」事件を起こす。
だが、彼が本当に行為を後悔したときに、そういう理由が噓くさく思えるのではないか。
自分がどうしてその行為を起こしたのかはどれほど後悔してもわからない。
本当にA(殺人)ではなくBを選択する自由が自分にはあったのだろうか。
先ごろの三鷹の女子高生殺人のハーフの犯人は、
被害者を殺すまえ女子高生の部屋のクローゼットに忍び込んでいたそうだ。
そのとき携帯電話からラインで友人に「神さま、助けて」とメッセージを送っている。
あのとき彼に自由はあったのだろうか。
被害者が部屋に来なければいいと願っていたところに彼女が来てしまったのは、
果たして彼の罪なのだろうか。
このあたりはわたしはものすごくわかるのだか、みなさまにご理解いただく自信がない。
本当に過去の一時点に選択の自由はあったのだろうか。
選択の自由があるという前提を疑わず社会も世間も、もっともらしく回転しているけれど。
中島義道の言葉を借りよう。

「じつは、本人にとっても、
考えれば考えるほどなぜ自分が犯行に至ったのかわからないのです。
ということは、それを思いとどまることができたかどうかもわからない。
なぜなら、すべての行為はそれだけを取り出して解明できるものではなく、
特定の意図的行為にはかずかずの非意図的行為がぴったりまといついていて、
しかもこの行為と別の意図的行為とのあいだには
おびただしい偶然がはびこっているからです」(P107)


もしあのときああしていなければ、こうはなっていなかっただろう。
どうしてあのとき、ああしてしまったのだろう。
過酷な事件に巻き込まれ、この悲痛な問いを何度も繰り返すと運命という言葉に行き着く。
あれは運命だったのではないだろうか。
運命だと考えられたら、辛く苦しい後悔から逃れることができる。
それどころか未来の禍(わざわい)をも運命は受容する余裕を与えてくれる。
すべては運命なのだからなにが起こっても仕方がないと安心する怠惰のことだ。

どうやらニーチェが好きな中島義道は、この運命論がお気に召さないようだ。
もうひとつの悲劇の受け止め方を示唆している。
わたしの言葉で表現するならば、
その事件は一回かぎりで説明できないものとみなす方法である。
後悔している重大な悲劇は、過去に一度も起こらなかった事件である。
さらにおなじことは絶対に未来にも起こらない。
ならば、原因もなく責任もなく、後悔する必要がなくなる。
すべての現象がこのような一回かぎりの言葉にできない体験だと考えたらどうか。
「交通事故」「自殺」「殺人」という既存の手あかのついた名前を
その現象に与えてしまうから後悔に苦しむのである。
それは名づけようのない一回かぎりの体験だと思ったらどうか。
言葉を与えてしまうからいけないのである。
すべての現象をそのままあるがままのものとして見たら後悔はなくなる。
統合失調症患者は発症時、言葉のない分節化未満の世界そのものを見てしまうという。
赤い花ではなく「赤い」も「花」もないそのものをそのままあるがままに見てしまう。
このように悲劇や痛恨事を見たらどうだろう。
それは過去にも起こらなかったし未来にも起こらない一回だけの体験ではないか。
言葉で分析できないそのままあるがままの出来事である。
ならば、「なぜ」も「どうして」も「ああしていれば」もない。
このあたりは中島義道もいささか混乱している。

「ニーチェは偶然と運命のあいだの揺れを止めようとする。
つまり、われわれの眼には偶然に見えるさまざまな事象の背後に
「何か意志的なもの」があって、それがすべてを動かしていることを認めるのではなく、
すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。
たしかに、すべては何の原因も、何の目的も、何の意味もなく起こっている。
だが、そのことをそのまま承認すること、
現に起こったこと、起こること、起こるであろうことに対して、
常に〝Ja”と肯定すること。それが「運命愛(amoa fati)」なのです。
これが彼の言う「能動的ニヒリズム」ですが、――興味深いことに――
その実践的意味はやはり後悔からの解放にある。
じつのところ納得できないことを無理やり納得したつもりになり、
屁理屈をこねまわして「救い」を得るより「禍が私に降りかかった、それですべてだ」
ということを認めよ、ということです」(P150)


飛躍するが、これは法華経の説く諸法実相とおなじだろう。
諸法実相とは、諸法(世界)はそのまま実相(真実)であるということだ。
諸法実相は具体的には十如是として説明される。
ひとつの現象は是(かく)の如(ごと)し、いま起こっているそのままでよろしい。
如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報――。
あるがままで有り難い奇跡であるという見方である。
たとえば、交通事故、自殺、犯罪に遭遇する確率は極めて低い(被害、加害ともに)。
抹香くさい仏教ではなく、確率を考えてみよう。
サイコロを10回振って1が連続して10回出る確率は極めて低い。
「1111111111」
これは約6千万分の1の確率で発生する。ところが、である。
「2633151216」
いまデタラメに数字を10書き連ねたが、この順番になる確率も約6千万分の1である。
「1234554321」
なにやらきれいなこの順番になる確率も同様、約6千万分の1である。
「1111111111」だから確率が低いのではないということだ。
どのパターンでも約6千万分の1でめったに出ない有り難い奇跡的なケースなのである。
ならば一見すると「ありふれた」生活も「奇跡」のような確率で存在していることになる。
さて、問題である。「1111111111」の次に1が出る確率はどのくらいか?
1が10回出たあとにさらにまた1が出る確率はいかほどか。
答えは、サイコロを1回振るだけだから6分の1である。

過去(これまで)は未来(これから)ではない!

しかし、これから10回サイコロを振ったときの10回分の順番を予測をすることはできるか。
これは約6千万分の1の確率でしか当たらない、
とはいえ、どれほど低確率でも当たる人は当たるのである。
確率が低いことでもかならず起こるが、それがどこのだれに当たるかは予測できない。
[カッコ]内の記述は引用者の補足です。

「つまり、科学があらゆる技巧を使って、
「これまで」と「これから」とのあいだの溝を埋め立てようとしていますが、
そして、その最後の武器が確率であるわけですが、どうしてもうまくいかない。
なぜなら、この努力は無駄だからです。
すでに見たように、世界の実相は(A)異質なものの一回かぎりの継起なのですが、
そこにさまざまな関心から「同一のもの」[パターン]を入れ込んで、
世界を同一のものの繰り返しとして見なおす。
そして、その最も基本的な「同一なもの」[文脈]こそ、
「これまで[過去]」と「これから[未来]」とを
「同一の時間」における二つの様相とみなすことです。
こうした前提で世界について知ること、それが世界を認識することであり、
科学的認識はその最も洗練されたものです」(P140)


わかりやすく書くと、どういうことか。
過去のことはわからないのである。
ある犯罪者がどうしてある人を殺してしまったのかはわからない。
あるドライバーがなにゆえ児童を何人も轢き殺してしまったのかはわからない。
愛する家族がいったいどういうわけでよりによってその日に自殺したかはわからない。
過去のみならず未来のこともわからない。
どうしたら難病や事故、犯罪に遭遇しないでいられるかはわからない。
未来なんてなくてあなたは1分後に心臓発作で死んでしまうかもしれない。
歩きながらスマホでこの文章を読んでいるまさにいま車が突っ込んでくるかもしれない。
経済がどうなるかも政治がどうなるかもまったく予想がつかない。
いくら現代科学が進歩しても、過去と現在、現在と未来をつなぐ「因果性は穴だらけ」。
なぜある人が「ああ」ではなく「こう」行為し、
その過程にいかなる偶然があって、いまのような結果になるのかはまったくわからない。
なぜAではなくBを選択したのか、にもかかわらず、なぜ偶然にも禍に遭遇するのか。
なぜだれもが非難するような愚策を選択したのに偶然にうまくいったのか。
どうしてよかれと思ってやったことが最悪の結果になるのか。
すべてはなにもかもわからない。

「究極的にはわからないからこそ、われわれはみずから実現した過去の
(意図的・非意図的)行為を激しく後悔するのです。
そして、――同時に強調したいことは――
それにもかかわらずこの社会は「わかった」ふりをする。
わかったふりをして、ある人の行為を非難し、場合によっては犯罪者に仕立てあげ、
別のある人を賞賛し、場合によっては褒美を与える。
自由意志も行為の因果性も偶然も運命も、じつは何もかもわからないのに、
社会(世間)とは、わかったつもりになるよう鍛える場であり、
それを強要する場であり、それに対する疑問を封じる場です。
それでこそ、社会はスムーズに動いていくのでしょう。
誰でも、心の底で一瞬きらりと「どこかおかしい」という閃光がよぎる。
しかし、その閃光も社会の中で生きていくうちにたちまち消えていく。
そんな中で、身がこなごなに砕けるほどの禍を蒙(こうむ)った人々は、
「どこかおかしい」という問いをけっして消さない。
「なんでこんなことが?」という重い問いを抱えて生きつづけ、
それを墓場までもっていくのだろうと思います。
哲学とは、まさにこうした問いを真正面からとらえて
それに応えようとするものです」(P156)


いや、それは哲学ではなく宗教の問題ではないかとわたしは思う。
なぜなら、宗教とて哲学とおなじで絶対的に「正しい答え」はないが、
しかしそれでも「それぞれの答え」に行き着く可能性はあるからである。
「救い」がないことに耐えられるのは、断じて哲学者が強いからではなく、
彼が幸運にも「身がこなごなに砕けるほどの禍を蒙」っていないからではないか。

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