「悪について」

「悪について」(中島義道/岩波新書)

→とてもいい本だが、カント、カントうるさい。
ネットで感想文を拾い読みしてみたが、これまたカント、カントうるさい。
日本には善悪の問題を考え尽くした親鸞や一遍がいるのに、
敗戦国コンプレックスからか日本思想には目も向けず、
ハイカラ(なの?)なカントをアルマーニのスーツかなにかのように着こんで
にやつく著者が不快と言えなくないこともないが、
しかしカントならぬ自分の言葉で考えた箇所もあるから、この本はとてもいい。
わたしは興味がないので(さっぱり理解もできないし)カントのところはすっ飛ばした。
仏教国の我われがどうしてキリスト教国のカントを理解できると思うのだろう。

カント倫理学の入門書らしい「悪について」は
「偽善について」書かれていると言ってもよい。
あらゆる善は自己愛から行われているのだから、
それは偽善、つまり善ではなくむしろ悪ではないか、というのが基本論調である。
いわゆる善行の多くは、自分の評判を気にしてなされているだけではないか。
親切というのは善ではなく、する側の自己愛を満たすだけの行為ではないか。
親切にされたらそれは相手から同情されたということだから、
親切を受けることは相手の自己愛を満足させてやる不愉快な行為とも言えないか。
そもそも、なにが善か、なにが悪か、我われは本当に考えたことがあるだろうか。

たとえば、このような命令を受けたアメリカ兵がいるとする。
「目のまえのベトナム人の少年を殺せ」
これだけなら迷いも少ないが、さらにこういう条件が加わったらどうか。
「ベトナム人の少年を殺さなかったら、おまえの息子を代わりに殺す」
このとき善悪の絶対的に「正しい」答えはない。
1.ベトナム人の少年を殺してものちのち後悔するだろう。
2.ベトナム人の少年の純粋な目にほだされたら、息子が死にこれも後悔の原因になる。
3.自殺をしたらキリスト教の大罪に触れる。
ちなみに3は中島義道は指摘していないが、当然ありうる選択肢だろう。
このあたりがカント哲学者の中島義道の弱点で、
日本人は宗教で自殺を禁止されていないから、美的判断で3を選ぶ人も多いだろう。

そもそも1を選択してもキリスト教とは無縁の日本人はそれほど悩むだろうか。
「平家物語」で熊谷直実は自分の息子ほどの年若い武士を戦で殺している。
のちに熊谷直実は法然のもとで出家して少年の菩提をとむらったという。
仏教国の日本人にはこういう選択肢もあるのだ。
どうして日本人がカントの悩みなんざ引き受けなければならないのか理解できない。

中島義道はカントの名のもとに、さらに、なにが善か、なにが悪か、
絶対的な「正しい」答えがない問題を提出している。
西洋哲学はよくわからないが、カントは嘘をつくことを悪とみなしているようだ。
これは西洋の小説の話らしいが、ある医者がいる。
妻が身ごもったが病弱のため、出産したら母体が危ないことがわかっている。
妻は出産したがっている。堕胎はキリスト教では罪(悪)である。
このとき、どうしたらいいのか。
1.一か八かで出産する。
2.妻の命を守るために堕胎する。
どちらが善で、どちらが悪なのか。ここで大仰に悩む中島義道はおかしい。
我われ日本人はすばらしき「間引き」の文化を持っているのである。
たいがいは2を選択して水子供養に励むだろう。
念仏や題目を唱えながら運を天にまかせて1を選択するのもいいだろう。

さて、小説ではどうなったか。妻は赤子を出産したという。
ところが、赤子は3日後に死んでしまう。
妻のほうもやはり出産がこたえたのだろう。1週間後に絶命する。
夫の医者はどういう態度を取ったのか。
赤子が死んでしまったことを妻に伝えず、嘘をついて別の赤子を母親の胸に抱かせたという。
医師は堕胎の罪は犯さなかったが、嘘をつくという罪を犯したことになる。
中島義道はこの医師の誠実な苦悩を、あたかも自分の苦悩のように呻吟してみせる。
だが、仏教国の我われ日本人は、
どう考えてもこの西洋人の悩みを共有できないのではないか。
これも前世の因縁かと妻の死を泣きながら受容し(南無阿弥陀仏!)、
にもかかわらず妻は嘘を信じてある種の幸福な状態で死んでいけたことをよしとするだろう。

嘘をつくのは悪だというのは西洋の倫理観で、我われ日本人は「嘘も方便」なのである。
どうして東大卒でベストセラー作家の中島義道博士がこの程度のことを理解できないのか。
最後に人気作家ならではの楽しい中島節とやらを紹介しておこう。
こういういかにも俗悪ぶった文章を書けるのが中島の魅力で、
カントがどうのは西洋哲学を背広のように着こんで偉ぶりたいだけに思えてしまう。

「現代日本社会に生きるほとんどの人間は、適法性に縛られた行為を実践しようとする。
できるかぎり約束を守り、他人に不満を感じても、面前で罵倒することは避け、
贈り物をされれば、「気に入りません」とつき返したりしない。
知人が病気になれば、その家族に「いかがですか?」と心配そうな声をかけ、
上司の葬儀では神妙な顔で哀悼の意を表し、友人が結婚すれば祝福する。
このすべてが外形的に善い行為(適法的行為)であり、
しかも自己愛にまみれていることは確かであろう。(中略)
彼(女)は、誠実に努力し、他人をなるべく傷つけずに配慮した態度をとり、
不満はうちに留め、とはいえ苦行僧とは異なり、とくに地上の快楽を否定せず、
財産も社会的地位も名声も否定せず、
ただしそれらを社会的ルールにそって賢く確実に獲得していく。
そうしながら、けっして奢ることなく、人々の意見によく耳を傾け、
自分に常に批判的まなざしを向けて、刻苦精励(こっくせいれい)するのであるから、
社会的成功を収めることが多い。
だが、どんなに成功しても謙虚であり、敗残者を軽蔑することはない。
多くの人から慕われ「彼(女)ならついていく」という声は広くこだまする。
こうした人は、自己愛に首までどっぷり浸かっているのである」(P85)


まるで山田太一さんみたいだな~。しかし、自己愛ってそんなに悪いの、中島博士?
嘘がそこまでいけないのかも、わたしはわからない。

「[われわれは]他人を傷つけたくないがために、他人を思いやって、嘘をつく。
両者は連携している。他人を傷つけたくないという動機は――
その人が傷つくことを真に望まない場合もあるが――、
おうおうにして彼(女)を傷つけると自分が不愉快な思いをするからなのだ。
自分の過酷な言葉によって、その人がうつ病にでもなったら、自殺でもしたら、
あるいはその人から恨まれたら、復讐されたら、迷惑だからである。
ということは、やはり自分が不快になるのを避けるため、
すなわち自己愛を満足させるためなのだ。
優れた教師は「うちの子どうでしょう?」と心配そうに顔を覗き込む母親に対して、
教育的配慮から「よくやってますよ」と嘘を答える。
知人から個展の招待券をもらっても「行きたくありません」とは答えず
「ぜひ行きたいのですが、あいにく用事が重なって」と嘘を言い、
義理で駆けつけたすえ、ひどく失望しても「すばらしかった」と絶賛する」(P99)


中島義道は自分が信じているカントだかに従いなかば思考停止をして、
嘘が悪であることをさも自明の前提のように扱い、
いわゆる大人の人格者を悪人(偽善者)であると裁きたいようだが、
カントという権威に屈せずあくまでも自分のあたまで考え、
「嘘も方便」という我われ日本人になじんだ理屈を思い出したら、
あるいは西洋かぶれの中島哲学博士の弱点と限界が見えてくるのではないだろうか。

COMMENT

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04/13 09:00
. 幼稚








 

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