「心理療法序説」

「心理療法序説」(河合隼雄/岩波書店) *再読

→パラパラいままで読んだ本を読み返していたら、
あるところで河合隼雄がこの本は自分のなかでも重要な本と述べていたので、
このたび15年ぶりに再読してみることにしたしだい。
精神科治療と心理療法は健康保険の有無、薬品処方の有無などいろいろ相違はあるが、
実質における違いは病名にあるような気がする。
精神科では患者に病名を与えてゴールというようなところがあるのではないか。
病名を与えられた患者はその枠のなかで一定期間、病気と向き合わなければならない。
一方、心理療法は最初から最後まで名前をつけないことに命をかけるようなところがある。
一般的に病気と言われている心の苦しみを、
それをなんだか「わからない」ものとして見守っていくのが心理療法家ではないかと思う。

「平たく言えば、「わかってしまうと終りになる」のである。
一人の子どもを「札つきの非行少年」として「わかってしまった人」にとって、
その子どもにどう接するかはきまりきったことになり、
その少年は確かに非行少年であることにまちがいない、ということになろう。
しかし、どのような子どもになっていくのか「わからない」として、
多くの可能性を考えつつ会ってゆくときに、
彼は変化してゆくかもしれないのである」(P226)


名前(病名)を権威者から与えられると、我われはそこに居ついてしまうようなところがある。
ところが、名前を与えられず「わからない」ものとして接してくれる人がいると、
彼は自分がなにものか「わからない」がために、いろいろ試行錯誤して変化してゆく。
心に問題をきたしている病めるものを「わからない」ものとして、
世間の尺度とは異なる眼で見守る専門家が心理療法家なのだろう。
このためだろう。河合隼雄は心理療法の仕事を
「クライエントの発見的な歩みを援助する」(P6)ことと定義している。
病名をつけられてしまえば、その病気を医者に治してもらおうと依存的になってしまう。
だが、心の問題はだれかに治してもらうのではなく自分で解決しなければならぬ面が強い。
このとき心理療法家の態度が支えになって、
クライエントはどこへか「わからない」ところに向かって歩みながら、
いろいろその人だけの発見をするのだろう。

ふと思いついたことを書く。
ある問題行動(現象)を「わからない」ものとして見るということは、
法華経に出てくる諸法実相とおなじである。
ある問題行動をたとえばパーソナリティ障害などと名づけないというのは、
諸法実相と世界を見ることである。諸法実相は十如是と法華経では説明される。
つまり、うつ病ならうつ病をうつ病と相(見かけ)のみ見るのではなく、その現象は、
我われの目には見えぬ性、体、力、作、因、縁、果、報などが複合していると捉える。
これが「わからない」ものとして現象を見るということである。
安易に因(原因)のみを特定しようとせず、あらゆるものが関係していると見る。
なかには見えないけれど力(可能性)や作(発展性)もあるのだから絶望しない。
こういう態度のまま幅広い縁に目を配っていると、あるとき機縁が熟すこともあるのだろう。
このとき縁が熟したことに気づくものがいなければならない。
その役割を果たすのが心理療法家なのだろう。
このため、心理療法に即効性のようなものはない。
本書でも河合はボーダーラインの人の場合、10年はかかると記述している。
とにかく効率的ではないと河合は断っている。

「何しろ、心理療法は一対一で行われるので、
「効率」を考える人からは非難されることがある。
もちろん、他に効率をよくする方法があればやるのがいいと思うが、
一人の人が変るということは、
根本的に「効率」を度外視するような態度を要求するのである。
できるだけ早く終わろうと思っていると、長引いてくるが、
この人が一生続けてきても五十年くらいであるし、人類の歴史から見ると
そんなのは一瞬のことなのだから、などという気持でいると、
かえってその人は離れてゆける、というようなパラドックスがある。
終結というのは関係が切れるのではなく、関係が「深く」なるので、
それほど会う必要がなくなるのだと言ってもいいし、あるいは、
クライエントが「治療者」像を自分の内部にもつようになるので、
外界に存在する治療者に会う必要がなくなるのだ、
という言い方をしてもいいであろう」(P246)


クライエントのなかには諸法実相のようなものの見方を
内部に持つようになるものもいるかもしれない。
別の本で読んだことだが、10年、20年やっても治らない人もいるらしい。
それでも河合隼雄のところに来るというのがすごい。
おそらくこれは河合隼雄ならではのことではないか。
はっきり言って、心理療法にたよるものの大半が「死にたい」だろう。
有名人の河合隼雄に月に1回会えるというだけで生き続けた人もいたはずである。
さすがに無名の心理療法家のもとに治らないまま10年通う人はいないような気がする。
そもそも治せばいいのかはわからないことにも河合隼雄は言及している。

「心理療法の過程はあまりにも苦しいものだから、
そのようなことをしないほうが得策のこともある。
たとえば、強迫症状や離人症などのような場合、心理療法の過程で
妄想や幻覚などの精神症状が生じたり、強烈な不安のため何もできない、
というようなことも生じてくる。言うなれば
そのようなことが生じないように症状によって守っている、とも言えるのである。
そこで、クライエントによって説明可能な人に対しては、
心理療法の過程について説明し、そんなことをするよりは、病状と共に、
自分にとってやりたい仕事をして生きてゆくようにするのはどうか、
ということを述べて、クライエントに選択してもらうようにするとよい。
もちろん、症状があるのも辛いことだが、その方がいいかもしれないのである。
そして、あまりに症状が苦しくてたまらなくなったら、
あらたにきていただくことにするのである」(P189)


これも河合隼雄ならではのことではないかと思う。
個人で開業している心理屋さんが、
まさかせっかく来てくれたお客さんをそうそう帰せるものだろうか。
商売心理屋さんが開業後数年して河合隼雄の本を読み返したらどんな感想を抱くのだろう。
心理療法家は難しい仕事だと思う。
なぜならクライエントは、心理療法家に治してもらおうと思って来るのだから。
しかし、もし河合の主張に忠実に従うならば、自分で治っていくしかないのである。
とはいえ、クライエントはお金を払ったんだから相手が治してくれると信じている。
心理療法家はいったいどうやってクライエントに誤解をそうと気づかせるのであろう。
いまはネット時代だから、あそこに3年通ったけれどよくならなかった、と書かれてしまう。
本当は河合隼雄でさえ5年、10年は当たり前なのだが、
金を払っているのはクライエントゆえ怒りはもっともであるという面もある。
クライエントは金を払ったんだから忠告や助言を求めるはずである。
本書で知ったが、河合隼雄もまったく忠告や助言をしないわけではないのだという。

「忠告や助言などを与えても無駄であるとわかっていても、そのことによって、
クライエントとの関係の維持をもつことが必要と感じたときは、している。
その内容そのものはあまり問題なのではない。
その行為が関係の維持に役立つからしているのである」(P24)


考えてみれば我われの人間関係の結構が忠告や助言で成り立っているとも言えよう。
親子関係など忠告や助言を禁止してしまったら話すことがなくなってしまうのではないか。
教師と生徒の関係でもおなじことが言える。
日常生活では忠告や助言は人間関係の潤滑油と見切って、
そつなくこなしていけばいいのかもしれない。
ほとんどの人が他人から言われた正しい忠告や助言に従わないけれども。
かといって、自分だって人からの忠告や助言にそこまで素直になれないのである。
他人のことはなぜかよく見えるというのが我われ人間なのだろう。
自分のことを他人を見るように見るのは辛く苦しい。
このため、ときに大金を払って心理療法家にお手伝いしてもらうのだろう。

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