「続 私の仏教観」

「続 私の仏教観」(池田大作・野崎勲・松本和夫/「池田大作全集12」/聖教新聞社)

→そういえば本の内容をまったく紹介していなかった。
「私の仏教観」はインド仏教史、「続 私の仏教観」は中国仏教史を扱っている。
しかし、いかにも独善的な創価学会らしく、
浄土教も禅も密教も欠片たりとも話題に上がることはない(小指の先ほども登場しない)。
創価学会の仏教史には浄土教も禅宗も密教も存在していないことになっているのだろう。
皮肉を言うと、だから総本山である創価大学に仏教学部を設置できないのである。
創価学会から見た中国仏教史である本書は、
しかし、それでも対話出席者がよく勉強しているのに驚く。
むかし少しばかりかじろうとしたことがあるけれど、中国仏教はよくわからないし、
これを言ったら終わりなのだが、まあおもしろくないのである。

どうしてインドからも中国からも消えた仏教が日本ではいまでも残っているのだろう。
池田大作も言っているが、民衆化したというのが理由であろう。
結局のところインドにも中国にも仏教は根付かなかったのではないかと思う。
所詮は学問仏教どまりで、おそらく民衆仏教にはなっていなかったのではないか。
そうだとしたら、いかに法然、日蓮、蓮如が偉いか、である。
だれがいちばん偉いかを考えたら、あるいは日蓮なのかもしれない。
念仏系統は完全に葬式仏教に成り下がっているからだ。
いまを生きるための仏教ではない。
たしかに親鸞会のようなカルトも生まれてはいるが、
あまりに小粒で創価学会のようなパワーはないと言わざるをえない。

平成のいまでもご本尊に向かってお題目を上げている日本人がたくさんいるなんて、
ちょっと信じられないところがある。
スマホやパソコンとお題目が共存しているというのは、かなりおもしろい現象である。
創価学会ってすごいよなと思う。
たまに酔っぱらって学会歌をYouTubeで聴きながら手拍子を打ったりする。
あんな軍歌調のものをいまの若い男女が歌っていると思うと、わからないなと思う。
個人的には2代目会長であるアル中と名高い戸田城聖のほうが気になるのだが、
弟子の現在の最高指導者・池田大作もすごい男だと思う。
影響力を考えると、家康や信長レベルの男だったのではないか。
大量のアンチがいるというのもおもしろい。

このたび池田大作の本を読んだのは、創価学会の大勝利作家・宮本輝への興味からである。
やはりそれほど宮本輝の初期作品は異常な迫力を持っていたのである。
その秘密の一端でも池田大作や創価学会からうかがえるのではないかと期待した。
狂う、つまり分別を捨てて熱狂できるエネルギーを一時期の創価学会は有していたのだろう。
多少なりとも狂っていなかったら、いくら昭和とはいえお題目は古臭かったのではないか。
人を狂わせるようなものをおそらく日蓮は持っていたのだろう。
なかにはその狂気に激しく感応(共感)するものがいる。
牧口常三郎、戸田城聖、池田大作、宮本輝のようにである。
それは持って生まれた素質で、日蓮が苦手なものはもうどうしようもないのだろう。

本書を読んで、へえ、創価学会は三蔵法師で知られる玄奘を嫌っているのかと驚いた。
まだ歴史から抹消されていないだけましなのかもしれない。
おそらく玄奘をおとしめているのは、
おなじく翻訳僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)を持ち上げるためではないかと思われる。
池田大作もその子分、いや弟子の宮本輝もだいぶ鳩摩羅什に惹かれるところがあるようだ。
鳩摩羅什は法華経をサンスクリット語から漢文に訳したことで知られている。
若いうちはかなりの不遇を経験したという。
以下に池田大作の鳩摩羅什評を紹介するが、
こういうところが宮本輝にも共通する創価学会気質のような気がする。
皮肉を言えば臥薪嘗胆(がしんしょうたん)というか、恨みを忘れないというか。
きれいごとで言うならば、宿命を使命に代えて勝利する。春にならない冬はない。

「思えば、[鳩摩羅什の]十六年間の辺境生活というものは、非常に長い。
ときに彼は、切歯扼腕(せっしやくわん)することもあったでしょう。
熱沙(ねつさ)を抱いて、しばし眠られぬ夜もあったにちがいない。
しかし、崇高な使命に生きる人の人生は、
やがて必ず勝利する秋(とき)がくるものです」(P453)


ご存じでしょうけれど、切歯扼腕の意味は――。
「怒り・くやしさ・無念さなどの気持から、歯ぎしりをし腕を強く握り締めること」
もっと創価学会テイストにするならば――。

「こん畜生、いまに見てろよ!」

いまや創価学会は一大権力組織だが、ここまで拡大した根っこにあるのは、
間違いなく「こん畜生、いまに見てろよ!」である。
そして、この感情は不遇な庶民とたいへん相性がよろしい。
虐げられたものの根深い怨念の木から創価学会はいまのような満開の花を咲かせているのだ。
これはもう宮本輝ファンとして感覚的に直観的にわかることである。
なんでおればかり不遇なんだよという怨嗟の呻きが創価学会の根底にある。
あいつらばかりい思いをしやがっていつか引きずりおろしてやるというのが創価学会だ。
そこが嫌いなのではなく、そこにとても共感を誘うものがあるのである。
むかしの創価学会は、餓鬼、畜生、阿修羅のような非人の集まりであった。
この非人とは江戸時代の蔑称ではなく、法華経に出てくる異形のものたちの総称だ。
たとえだれかを押しのけてでも十界の一段でも上を目指す餓鬼、畜生、阿修羅ら非人は、
おそらく地獄の猛火のなかを歯を食いしばりながら生きていたのだろう。
かつて池田大作も宮本輝も、そういった誇り高き非人たちの一員であった。
わたしもたっぷりと非人の自覚はあるけれど、
なぜか池田大作や宮本輝のような金満菩薩を目指す気にはならないのだ。
それでも彼らが非人だったころは、さぞかし美しかったのではないかと思う。

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