「私の仏教観」

「私の仏教観」(池田大作・野崎勲・松本和夫/「池田大作全集12」/聖教新聞社)

→昭和49年刊行の本書で池田大作と弟子ふたりが、
ことさら声高に法華経は釈尊(釈迦)の真説だと叫んでいるのが印象的だった。
法華経は創価学会が大聖人とあがめる日蓮が最勝とみなした仏典である。
いちおう学問の世界では、法華経は釈尊没後約500年に創作されたことが証明されている。
ならば、釈尊は法華経を説いていないと判断するのが通常の科学的思考というものである。
しかし、もし釈尊が法華経を説いていないとするならば創価学会が狂ってしまう。
鎌倉時代の日蓮は法華経を釈尊の真説だとまったく疑っていなかったからである。
本当はあいだにチギなど入れたほうがいいのだろうがすっ飛ばして簡略化するとこうだ。
釈尊(正しい)→法華経(正しい)→日蓮(正しい)→池田大作(正しい)
そして、トップの池田大作が正しいからこそ末端の学会員もおのれの正しさを確信できる。
たしかにもし法華経が釈尊の教えでなかったら多くのものが音を立てて崩れるだろう。
池田大作先生の正しさに根拠がなくなってしまう。
法華経の欺瞞を見破れなかった日蓮はバカで、日蓮を大聖人とあがめるものもバカになる。

だが、そもそも本当のことを言えば、釈尊の教えの正しさでさえも証明できないのである。
ただ多くの仏教徒がいるからというのが釈尊の権威(正しさ)の理由だ。
人間釈尊の正しさは相対的なものであると言ってもよい。
その釈尊を久遠実成(宇宙仏思想)で絶対にまでまつりあげたのが法華経である。
法華経のすごさは相対的な人間が絶対的な正しさを創作したところにある。
釈尊よりも偉い時間や空間に縛られない絶対のスーパーブッダを法華経は仮構した。
かつての創価学会があれほど強力な折伏(勧誘)をやれたのも、
法華経を唱えていたからである。つまり、自分たちは絶対に正しいと信じていたからだ。
人間はなにか支えがないと自分は絶対に正しいなどと信じられない。
むかしの創価学会員は社会の底辺にうごめく学のない人ばかりだった。
「どうせ自分なんか」と安酒をかっくらって子どもに不幸を連鎖させる貧民ばかりだった。
やはり人間には自己愛というのが必要である。
しかし、学のない貧乏人や半病人は自分を愛することさえできなかったのだろう。
ここに創価学会である。ここに絶対を説く法華経である。
自分はつまらない人間ではなく、絶対的に正しい仏の子なのだ。
このように信じられたとき下層民の心中で人間革命が起きたのだろう。
「どうせ無理さ」が「やってやろう」に変わるのである。
法華経は全編自己愛のかたまりのようなお経だから唱えると躁状態まで上げられる。
これまで相対を生きてきた人間が絶対につながったら、それは強くなれるだろう。
法華経は後世の創作だなんていう情報はむしろ知らないほうがいいのである。
公平を期すため書いておくが、浄土真宗もインチキと言えばインチキである。
浄土三部経も法華経同様、学問的には釈尊の真説と言い難いところがある。

池田大作は他の日蓮商売人と声を合わせて法華経こそ釈尊の真説だと強調する。
少しでも疑いがあったら信者(顧客)は離れていってしまうだろう。
これだけ創価学会が繁盛したということは、それだけ池田自身の信心が強かったはずだ。
どうしたらそれほど強い信心を持てるのか。
ふつうに考えたら法華経は釈尊の真説ではないという結論にいたるはずである。
本書から池田大作の確信のヒントをつかんだ。
これはけっこうな発見ではないかと思う。
いまの学会員さんもお勉強したら法華経の怪しさがわかってしまうでしょう。
にもかかわらず、どうしたら池田大作のような強い信心を持てるのか。
それは、こういうことだ。法華経を釈尊が説いていないということは証明できない。
いくら釈尊の没後500年に完成したとしても、
それがどうして釈尊が法華経を説いていない証拠になるのだろう。
釈尊が法華経を説いていないという証拠はない。だから、説いていたのである。
そのようにたぶん池田大作は考えたはずである。
繰り返すが、法華経を釈尊が説いていないということは証明できない。

どこからこの論法を思いついたのか。
本書で池田とお仲間は維摩経(ゆいまきょう)を絶賛している。
このお経は在家の維摩居士が出家した仏弟子を完膚なきまでにやっつける物語である。
維摩居士にからかわれる仏弟子をあざ笑うチーム池田の陰湿さ意地悪さは、
まこと創価学会という団体の人間臭さを感じさせてくれ好ましい。
さて、仏典に登場する維摩居士は実在したかという話になる。
このようなモデルがいたから大乗仏典に取り上げられたのではないか。
それともまったく架空の人物なのか。
この問いに池田大作はこう答えているのである。
どうでもいいが池田をまじえての対談はかならず弟子が質問して池田が答えている。
池田大作先生、維摩居士は実在したと思いますか。
いちおう7世紀にインドを旅した玄奘は、維摩がいたとする旧宅の存在を記録している。
とはいえ、これは決定的な証拠ではない。
維摩居士は実在したのかどうかという問いへの庶民の王者・池田大作の答えはこうだ。

「それは、どちらともいえない問題ですね。
他に裏づける資料がないからといって。
実在しなかったことを証明したことにはならない」(P327)


この発言を見つけたとき、池田大作さんはある種の天才ではないかと思ったものである。
実在しなかったことは証明できない。
同様、法華経を釈尊が説いていないことは証明できない。
ならば、ではない。だから、と考えるのが池田大作という男である。
だから、このために、したがって、法華経は釈尊の真説なのである。
しつこいが、なぜならば、法華経を釈尊が説いていないことは証明できないからである。
わかりやすく対話にするとこうだ。
A「法華経は釈尊の教えじゃないよ。バッカじゃん。あれは後世の創作」
B「ならば、釈尊が法華経を説いていないことを証明してみろ」
A「常識で考えろよ」
B「だから、釈尊が法華経を説いていない証拠はあるか?」
A「だって、500年後だぜ」
B「説いていたかもしれないじゃないか」
A「……」
B「説いていない証拠を出してみろ!」
A「……」
B「証明できないってことは、おれの勝ちだな。法華経は釈尊の真説だ」

以上は盲信と言ってもいいのだろうが、たしかに本人のなかでは論理の筋道が通っている。
法華経を釈尊は説いていないという証拠を相手に突きつけることはできない。
信心というのは、文字ではなく実践なのだろう。
ある人がなにかを強く信じていると、この人が信じているならとなるものなのだ。
この人がこれほど強い確信を持っているならば自分も信じようとなる。
あれだけ巨大な創価学会をトップとして率いた池田大作の大信心には恐れ入る。
法華経を疑わないためのもうひとつの方法は実践である。
信者に疑う暇を与えずに学会活動に専念させたら信心は揺らがないで済む。
池田大作とはいえ、ぼんやりしていたら疑問という魔に襲われるのだろう。
このために幹部ともども創価学会員は忙しく動き回るのだと思われる。
池田大作はおのれの信心をこのように語っている。

「歴史学的には、たしかに不合理や謎もある。
しかし、そこに秘められた法理、哲学は間違いない。
ここに「信」をおくことが、大事になってくるのです。
経文に「以信代慧(いしんだいえ)」(信を以て慧に代える)とあるけれども、
仏教の法理を信じて疑わずに実践した人が、最後には仏果を得られるというのが、
仏法の基本的な考え方となっていますね。
つまり、実践をとおして得た智慧による以外、
仏法の真髄は理解しえないということです」(P389)


これは信心が足らないから疑うんだと言っているようで強烈である。
庶民の王者にしか言えないセリフだろう。疑うのは信心が足らないからだ。
冷静に考えたらおかしいのだが、信心が足らないから疑うのだ、
という指導はある面における真実をついているような熱狂的なところがある。
A「法華経って本当に釈尊の教えなのでしょうか?」
B「信心が足らないから疑いが生じるんだ。勤行しているか?」
A「いえ」
B「ほうら。だから、信心が足りないからなんだ」
A「でも、信じられないから勤行も……」
B「バカヤロウ! 日蓮大聖人が信じられないのか?」
A「いえ」
B「おい、おれが信じられないのか? 悲しいことを言うなよ(しんみり)」
A「わかりました。信心が足らなかったようです」
B「そうだよ。信心が足らないからおかしなことを考えるんだ」
A「はい」
B「まさか庶民の王者、池田先生が信じられないんじゃないだろうな?」
A「自分が間違ってました。信心が足りないために、つい腐ったインテリのようなことを」
B「そうだよ、そうだよ。一緒に信心していこうな」
A「はい。ありがとうございます。相談してよかった」
B「気にすんない。おれだって、そういうときがあったさ」
A「信心、がんばりまっす」
B「おお、その意気だ!」
A「目指せ、大勝利!」
B「目指せ、広宣流布!(Aと肩を組む)」

ここまで書いて、もしかしたら池田大作は日蓮以上のタマなのかもしれないと思った。
日蓮があれほど強く法華経と自分を信じられたのは、
法華経を釈尊の真説だと思っていたからである。
池田大作は鎌倉時代ではなく、科学の発達した昭和、平成を生きたのである。
にもかかわらず、池田大作は
日蓮など比較にならぬほどの多くの信者を獲得しているではないか。
偽物の法華経が本物の釈尊よりも偉いのと同様に(ちなみにこれが法華経の内容だ)、
あるいは偽物の池田大作のほうが日蓮よりも偉かったりするとは考えられないだろうか。
もちろん、法華経の偉さを釈尊が保証しているのとおなじく、
池田大作の偉さも主に日蓮によっているのではあるけれども。
ひとつ断言できるのはインテリの王者・中村元と庶民の王者・池田大作が喧嘩をしたら、
庶民は勝つためなら卑怯なことでもなんでもするから、まず池田大作の勝利となろう。
中村元と池田大作が喧嘩していたらどちらを応援するかで、
その人がインテリか庶民か正体がわかるのではないか。
わたしは恥ずかしながらあっちを応援してしまいそうで、おのれの学会親和性にげんなりする。

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