「仏教・人間の救い」

「仏教・人間の救い」(ひろさちや/すずき出版)

→三国伝来の仏教の流れを、ひろさちや流にわかりやすくまとめたもの(初版1986年)。
仏教学者は専門領域(縄張り意識)があるから、
よほど権威(および自信)がないとこういう総括的なものは書けないのだが、
仏教学とは通じていない宗教ライターのひろさちやさんには足かせがない。
理系大学で文系学科のなんでも教授をしていたひろさちやさんが仏教に興味を持ったのは、
30も半ばを過ぎたころだという。
ひろさんは師匠がいないから、上役の顔色をうかがわずに自由な発想ができるのである。

仏教史を語ろうとするとき困るのが小乗仏教と大乗仏教である。
客観的に見たら釈迦仏教を否定して成り上がった大乗のほうは仏教ではないのである。
少なくとも人間釈迦とはまったく縁もゆかりもないのが大乗仏教である。
しかし、我われの国の仏教は大乗仏教である。
どうにかして小乗と大乗のへだたりを埋めるべく、
俗に言うところの仏教屋さんは苦労してきたという歴史がある。

仏教ライターひろさちや氏が本書で仮説として挙げているものはおもしろかった。
釈迦の死後、遺骨を埋めたストゥーパ(仏塔)信仰が盛んになったという事実がある。
以下はひろさんの説だが、釈迦が死んで50年もするとだれも本人を知らなくなる。
とはいえ、偉い人のストゥーパだということで観光客が大勢訪れる。
ストゥーパには当然、墓守ではないがそこを管理していた人間がいたはずだ。
この管理人がいわば説教師となって(むろん有料で)観光客のために釈迦物語をした。
当然だが波乱万丈の釈迦物語のほうが客の受けはいい。
観光地ストゥーパにおけるこの演芸が大乗仏教勃興のきっかけになったという。
もうひとつ山林修行者の例もひろ氏は挙げていたが(瞑想体験で釈迦に逢った)、
それよりもこのストゥーパの仮説のほうがはるかにセンスがいいような気がする。

タイムマシンはないのだから、どのみち何百年研究しても実際はわからないだろう。
このため、ひろさちや氏の説をわたしがさらに発展させても構わないのではないか。
観光地ストゥーパ(仏塔)の天才的な説教師が大乗仏教経典をも作ったのだと思う。
やたら仏塔を強調する豪華絢爛な法華経など、
観光地の天才的にいかがわしい芸人(説教師)の語りを想起させる。
法華経も浄土三部経もどちらとも、嘘はほどほどにしておけよ、というくらいの嘘なのだ。
天才はいたのだろうが、ひとりの天才が作ったのではないと思う。
説教師の物語に聞きほれる観光客も大乗仏典の創作にひと役買ったのではないか。
芸人は客に受けたところを強調するようになるものである。
こうしてひとりの天才説教師と多数の観光客が大乗仏典を創作したのではないだろうか。
ならば、釈迦がいっさい説いていない虚偽を釈迦の真説に変えたのは多くの人間の夢だ。
釈迦ひとりの発見などよりも大乗仏典のほうがはるかにおもしろいのはこのためではないか。

本書のタイトルは「仏教・人間の救い」である。
インテリさんはわからないが、我われ庶民は正しいものに救われるのではない。
欲望や嫉妬、失意や絶望にまみれた我われはおもしろいものに救われるのである。
釈迦の真説は正しいのかもしれないけれど、悪いがおもしろくもなんともない。
比して大乗仏典およびその派生物(菩薩、天神等)のなんとおもしろいことか。
悪さをする魔神の聖天に、美女にすがたを変えた観音菩薩が逢いに行き、
「あなたが仏教の信者になれば、わたしを抱かせてあげる」と誘惑する話など最高である。
色仕掛けで落とされた聖天は、のちに夫婦和合の神、子授けの神になったという。
わたしは悟り澄ました釈迦よりも観音さまのほうがはるかに好きだ。
乞食の釈迦が家に来たら追い出すが、美女の観音さまならば大歓迎させていただく。
別に釈迦が歴史上に実在していなかったとしても一向に構わないが、
観音さまにはいてもらわねば困ると心底から思うのである。

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